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第三章『焔魔仙教編』
第百九十七話 覚悟を問う【後】
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一心の案を主軸とした『作戦会議』は、綿密な協議がかさねられた末、一刻ほどで幕を閉じた。
「お話はわかりました。では、わたしはこれで」
はじめに席を立ったのは、憂炎だ。
これに、早梅はすくなからず狼狽した。
なぜなら、早梅の予想とは、まったく正反対の対応を示したからだ。
「憂炎! 行くのかい?」
「えぇ。猫族のみなさまがどのように動くのかがわかれば、こちらも柔軟に対応ができますしね」
それは、あくまで猫族と行動を共にするつもりはないという、言外の宣言だ。
「ご安心ください。わたしが噛み殺す対象は、愚かで低能な人間どもだけです。決してみなさまのおじゃまはしないと、お約束しましょう」
表情こそにこやかだが、憂炎を取り巻く空間は、氷のように冷たい。
それ以上語ることはないと、こちらを突き放すかのように。
(……私は、なにを期待していたんだろうか)
早梅は視線を伏せ、ぐっと唇を噛みしめる。
──梅姐姐!
無邪気におのれを慕ってくれた少年が、脳裏をよぎる。
そのせいで、離れたくない、じぶんもそばにいると、彼が駄々をこねるとでも妄想してしまったのか。
(私は……憂炎に、いっしょにいてほしかったの?)
それは、何故に?
自問すれど、頭の中は真っ白だ。
じぶんでじぶんの心情がわからず、つかの間、早梅は思考停止する。
「教主さま!」
思わず、といった様子で、爽が憂炎に駆け寄る。
物言いたげな爽へ向き直った憂炎は、にこやかなままだ。
「あぁ、おまえはついてこなくていいですよ、爽」
「ですが……!」
「おまえは梅雪にあげたの。その命は梅雪のもの。いまごろすり寄られても困ります」
「ではっ……俺が教主さまに助けていただいた恩義はどうなるのですか? 俺がまた太陽の光を見ることができたのは、あなたが……っ!」
「恩義? あっはは! 面白いことを言いますねぇ!」
爽の言葉にきょとんと首をかしげた憂炎は、高らかな笑い声をひびかせ、一変。冷ややかな言葉を放つ。
「そんなもの、なんの腹の足しにもならない。まだわからない? わたしの野望を叶えるのに、おまえみたいな平和ボケした甘ちゃんは要らないんです。身の程をわきまえろ、ということです」
「っ……たしかに、俺はもう、飛べません……ですが俺は……」
「わかったなら、梅雪に媚でも売ったらどうです? 戦場では役立たずでも、子守りくらいはできるでしょう?」
「……それはいささか、お言葉が過ぎませんか」
深みのある低い声音が、緊迫した室の空気をゆらす。
憂炎による爽への一方的な物言いに耐えかね、黒皇が口をひらいたのだ。
「憂炎どのといえど、わが弟を侮辱する言動は、とうてい見過ごせませぬ」
一歩、また一歩と歩み寄り、爽を背にかばい立って憂炎を見据える黒皇は、凛としたたたずまいだ。
「皇兄上……申し訳、ございません。俺が、不甲斐ないばかりに」
「おまえはなにも悪くないよ、黒俊」
声音をやわらげて爽をなだめた黒皇は、憂炎へ視線を戻す。
黄金の隻眼に見据えられ、つと、憂炎が柘榴の双眸を険しげに細めた。
「美しき兄弟愛……か。申し訳ありません、わたしには理解できない領域のようです。家族といったら、幼いわが子を崖から突き落とす母くらいなものでしたので」
「憂炎どの、もうおやめになりませんか。これ以上のやり取りは、あまりに哀しすぎます。私たちにとっても、あなたさまにとっても」
「嫌ですね。その、なんでも見透かしたような眼は。……俺のなにを知っているというんだ」
ぽつりとこぼされた独り言には、抑揚がなかった。
けれど、不思議とこのとき、早梅にはわかってしまった。
激流のように荒ぶる感情を、憂炎が押しとどめていることを。
「憂炎。なにか、私たちに伝えたいことがあるんじゃない?」
そっと早梅が語りかけたとき、わずかに、憂炎が身じろぐ。
ぴくりと、本当に目の錯覚程度のわずかな反応だったが。
「さぁ…………どうでしょうね?」
なにがあっても、すらすらと流暢に受け流してきた憂炎が、妙に言葉を濁した。それが答えだろう。
「わたしはだれの力も借りません。それだけです」
「では、わたくしどもとは別行動ということでよろしいでしょうか? 憂炎さま」
「そのように。まぁ、猫族のみなさまが梅雪を危険にさらすなんて馬鹿げた失態は犯さないと思いますが、万が一のことがあれば、いち早くわたしが駆けつけるということもお忘れなく」
一心の問いに難なく返した憂炎は、背を向け、最後にひと言。
「彼女のにおいは、この身に、骨の髄まで刻み込まれていますから」
憂炎がなにを思い、なにを成そうとしているのか。
それは、憂炎本人にしかわからない。
「お手本みたいな一匹狼だな」
憂炎がひとり退室したあと、早梅のとなりに腰かけた暗珠が、呆れたように肩をすくめる。
「そうかぁ? 俺にゃ、でかいわんこが梅梅にかまってもらえなくてスネてるように見えたぞぉ?」
「……ぷっ!」
何気ない晴風の発言に、早梅はつい吹き出してしまった。
「俊坊のもそうだろ。これまでじぶんと同じで孤独だった俊坊に、突然黒皇って家族が見つかったんだ。わざわざ母親を引き合いに出すのは、それだけムキになってるってことだろ? 決まりだな。アレはスネてるのさ。置いてかれたわんこだよ」
「ふふっ、風おじいさまはすごいなぁ」
さすが、よくひとを見ている。
正直のところ、早梅もそうではないかと思って、憂炎に問いかけたのだ。結局、憂炎自身の口から真意は聞けずじまいだったけれど。
「爽、あんまり思い詰めないで。憂炎も、君が嫌いだからあんなことを言ったんじゃないよ」
早梅も席を立ち、いまだうつむく爽のもとへ歩み寄る。
「あの方に、俺はもう必要ないのかもしれません。なんでもそつなくこなされる方ですし……」
「完璧なひとなんていないよ。憂炎だってね、むかしは箸もうまく使えなくて、書のお稽古のときなんか、手を真っ黒にして涙目になってた」
「……そうなのですか?」
「そうそう。それで『熊猫になってもいいよ』って言ったら、『おれは狼だもん!』ってほっぺをふくらませて怒ってたのさ。ほんと、変なところで素直じゃないのは、いまも変わらないねぇ」
くすくすと笑いながら、早梅は、爽の手を取る。
それから、爽の夜色の瞳を、瑠璃色の瞳で見つめた。
「ねぇ爽、もっと自信をもって。君の好きにしていいんだからね。私のことも、憂炎のことも」
「梅雪さま……」
ふれあった手は、にぎり返された。
「……はい」
早梅の手をじぶんの胸もとに引き寄せて、爽は噛みしめるようにうなずく。
「兄上も、俺のために怒ってくださって、ありがとうございます」
「いいんだ。黒俊は、私の可愛い弟だからね」
「はは……」
飾りけのない言葉をかけられながら、黒皇にやさしく頭をなでられたのだ。爽もくすぐったそうに、照れ笑いをする。
「俺、教主さまに……憂炎さまに、お伝えしたいことがあります」
そうと告げた爽の面持ちに、もう迷いはなかった。
太陽にかかる雲が、晴れたように。
「どうやら、この件に関しては、僕らの出番はないようですね。さて──」
なりゆきを見守っていた一心が、茶杯に口づけ、おもむろに椅子から立ち上がる。
「皇子殿下のお迎えに上がった。だれかおらぬか!」
静けさを吹き飛ばすように、門の方角から響きわたる声があった。
琥珀色の双眸でちらりと様子をうかがった一心は、早梅、そして暗珠へ向き直る。
「それでは、おふた方。あとは手はずどおりに」
早梅は力強くうなずき返した。
おのれのすべきことを、ただしく理解していたためだ。
『梅雪さんと殿下には、潜入調査をおねがいできますでしょうか。言わば、敵情調査ですね』
早梅は、『作戦会議』で一心に告げられた言葉を、脳裏で反芻する。
獣人奴隷の売買がおこなわれるとおぼしき場所、それは。
『この燈角一番の豪邸と名高い、陳太守のご邸宅です』
黄昏の刻。
人と獣をめぐる闘いの火蓋が、切って落とされようとしていた。
「お話はわかりました。では、わたしはこれで」
はじめに席を立ったのは、憂炎だ。
これに、早梅はすくなからず狼狽した。
なぜなら、早梅の予想とは、まったく正反対の対応を示したからだ。
「憂炎! 行くのかい?」
「えぇ。猫族のみなさまがどのように動くのかがわかれば、こちらも柔軟に対応ができますしね」
それは、あくまで猫族と行動を共にするつもりはないという、言外の宣言だ。
「ご安心ください。わたしが噛み殺す対象は、愚かで低能な人間どもだけです。決してみなさまのおじゃまはしないと、お約束しましょう」
表情こそにこやかだが、憂炎を取り巻く空間は、氷のように冷たい。
それ以上語ることはないと、こちらを突き放すかのように。
(……私は、なにを期待していたんだろうか)
早梅は視線を伏せ、ぐっと唇を噛みしめる。
──梅姐姐!
無邪気におのれを慕ってくれた少年が、脳裏をよぎる。
そのせいで、離れたくない、じぶんもそばにいると、彼が駄々をこねるとでも妄想してしまったのか。
(私は……憂炎に、いっしょにいてほしかったの?)
それは、何故に?
自問すれど、頭の中は真っ白だ。
じぶんでじぶんの心情がわからず、つかの間、早梅は思考停止する。
「教主さま!」
思わず、といった様子で、爽が憂炎に駆け寄る。
物言いたげな爽へ向き直った憂炎は、にこやかなままだ。
「あぁ、おまえはついてこなくていいですよ、爽」
「ですが……!」
「おまえは梅雪にあげたの。その命は梅雪のもの。いまごろすり寄られても困ります」
「ではっ……俺が教主さまに助けていただいた恩義はどうなるのですか? 俺がまた太陽の光を見ることができたのは、あなたが……っ!」
「恩義? あっはは! 面白いことを言いますねぇ!」
爽の言葉にきょとんと首をかしげた憂炎は、高らかな笑い声をひびかせ、一変。冷ややかな言葉を放つ。
「そんなもの、なんの腹の足しにもならない。まだわからない? わたしの野望を叶えるのに、おまえみたいな平和ボケした甘ちゃんは要らないんです。身の程をわきまえろ、ということです」
「っ……たしかに、俺はもう、飛べません……ですが俺は……」
「わかったなら、梅雪に媚でも売ったらどうです? 戦場では役立たずでも、子守りくらいはできるでしょう?」
「……それはいささか、お言葉が過ぎませんか」
深みのある低い声音が、緊迫した室の空気をゆらす。
憂炎による爽への一方的な物言いに耐えかね、黒皇が口をひらいたのだ。
「憂炎どのといえど、わが弟を侮辱する言動は、とうてい見過ごせませぬ」
一歩、また一歩と歩み寄り、爽を背にかばい立って憂炎を見据える黒皇は、凛としたたたずまいだ。
「皇兄上……申し訳、ございません。俺が、不甲斐ないばかりに」
「おまえはなにも悪くないよ、黒俊」
声音をやわらげて爽をなだめた黒皇は、憂炎へ視線を戻す。
黄金の隻眼に見据えられ、つと、憂炎が柘榴の双眸を険しげに細めた。
「美しき兄弟愛……か。申し訳ありません、わたしには理解できない領域のようです。家族といったら、幼いわが子を崖から突き落とす母くらいなものでしたので」
「憂炎どの、もうおやめになりませんか。これ以上のやり取りは、あまりに哀しすぎます。私たちにとっても、あなたさまにとっても」
「嫌ですね。その、なんでも見透かしたような眼は。……俺のなにを知っているというんだ」
ぽつりとこぼされた独り言には、抑揚がなかった。
けれど、不思議とこのとき、早梅にはわかってしまった。
激流のように荒ぶる感情を、憂炎が押しとどめていることを。
「憂炎。なにか、私たちに伝えたいことがあるんじゃない?」
そっと早梅が語りかけたとき、わずかに、憂炎が身じろぐ。
ぴくりと、本当に目の錯覚程度のわずかな反応だったが。
「さぁ…………どうでしょうね?」
なにがあっても、すらすらと流暢に受け流してきた憂炎が、妙に言葉を濁した。それが答えだろう。
「わたしはだれの力も借りません。それだけです」
「では、わたくしどもとは別行動ということでよろしいでしょうか? 憂炎さま」
「そのように。まぁ、猫族のみなさまが梅雪を危険にさらすなんて馬鹿げた失態は犯さないと思いますが、万が一のことがあれば、いち早くわたしが駆けつけるということもお忘れなく」
一心の問いに難なく返した憂炎は、背を向け、最後にひと言。
「彼女のにおいは、この身に、骨の髄まで刻み込まれていますから」
憂炎がなにを思い、なにを成そうとしているのか。
それは、憂炎本人にしかわからない。
「お手本みたいな一匹狼だな」
憂炎がひとり退室したあと、早梅のとなりに腰かけた暗珠が、呆れたように肩をすくめる。
「そうかぁ? 俺にゃ、でかいわんこが梅梅にかまってもらえなくてスネてるように見えたぞぉ?」
「……ぷっ!」
何気ない晴風の発言に、早梅はつい吹き出してしまった。
「俊坊のもそうだろ。これまでじぶんと同じで孤独だった俊坊に、突然黒皇って家族が見つかったんだ。わざわざ母親を引き合いに出すのは、それだけムキになってるってことだろ? 決まりだな。アレはスネてるのさ。置いてかれたわんこだよ」
「ふふっ、風おじいさまはすごいなぁ」
さすが、よくひとを見ている。
正直のところ、早梅もそうではないかと思って、憂炎に問いかけたのだ。結局、憂炎自身の口から真意は聞けずじまいだったけれど。
「爽、あんまり思い詰めないで。憂炎も、君が嫌いだからあんなことを言ったんじゃないよ」
早梅も席を立ち、いまだうつむく爽のもとへ歩み寄る。
「あの方に、俺はもう必要ないのかもしれません。なんでもそつなくこなされる方ですし……」
「完璧なひとなんていないよ。憂炎だってね、むかしは箸もうまく使えなくて、書のお稽古のときなんか、手を真っ黒にして涙目になってた」
「……そうなのですか?」
「そうそう。それで『熊猫になってもいいよ』って言ったら、『おれは狼だもん!』ってほっぺをふくらませて怒ってたのさ。ほんと、変なところで素直じゃないのは、いまも変わらないねぇ」
くすくすと笑いながら、早梅は、爽の手を取る。
それから、爽の夜色の瞳を、瑠璃色の瞳で見つめた。
「ねぇ爽、もっと自信をもって。君の好きにしていいんだからね。私のことも、憂炎のことも」
「梅雪さま……」
ふれあった手は、にぎり返された。
「……はい」
早梅の手をじぶんの胸もとに引き寄せて、爽は噛みしめるようにうなずく。
「兄上も、俺のために怒ってくださって、ありがとうございます」
「いいんだ。黒俊は、私の可愛い弟だからね」
「はは……」
飾りけのない言葉をかけられながら、黒皇にやさしく頭をなでられたのだ。爽もくすぐったそうに、照れ笑いをする。
「俺、教主さまに……憂炎さまに、お伝えしたいことがあります」
そうと告げた爽の面持ちに、もう迷いはなかった。
太陽にかかる雲が、晴れたように。
「どうやら、この件に関しては、僕らの出番はないようですね。さて──」
なりゆきを見守っていた一心が、茶杯に口づけ、おもむろに椅子から立ち上がる。
「皇子殿下のお迎えに上がった。だれかおらぬか!」
静けさを吹き飛ばすように、門の方角から響きわたる声があった。
琥珀色の双眸でちらりと様子をうかがった一心は、早梅、そして暗珠へ向き直る。
「それでは、おふた方。あとは手はずどおりに」
早梅は力強くうなずき返した。
おのれのすべきことを、ただしく理解していたためだ。
『梅雪さんと殿下には、潜入調査をおねがいできますでしょうか。言わば、敵情調査ですね』
早梅は、『作戦会議』で一心に告げられた言葉を、脳裏で反芻する。
獣人奴隷の売買がおこなわれるとおぼしき場所、それは。
『この燈角一番の豪邸と名高い、陳太守のご邸宅です』
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