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第三章『焔魔仙教編』

第百八十九話 己が意志にてつがう【前】

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 ──桜雨ヨウユイが目を覚ました。

 そのしらせは、耳にしただれもをにわかに震撼させた。
 ようやく、再会のよろこびを分かち合うことができる。
 早梅はやめ淡色あわいろの衣をひるがえし、母のいる離れへと飛ぶように駆けた。

 その期待が、間もなく打ち砕かれることになろうとは、知りもせずに。

「お母さま……」

 北向きに面したへやに、桜雨はいた。
 たしかに寝台から起き上がって、そこにいた。

「お母、さま……どうして……っ!」

 しかし早梅は、悲痛に泣き崩れる。
 とっさに早梅を抱きとめた桃英タオインも、唇を噛みしめ、愛娘を掻き抱く。

 桜雨は目を覚ましたが、ひと言も発さなかった。
 瑠璃の双眸はうつろとしており、夫も、娘も、だれひとりとして映すことはなかった。
 物言わぬ人形のように、そこにただ在るだけだ。

「ちょいと失礼するぜ。……まさしく、抜け殻だな」

 桜雨の前で腰をかがめ、手早く容態を確認した晴風チンフォンも、ふだんは快活な面持ちに渋面を浮かべた。

「なんだか、ねぇ……」

 一歩離れた場所で早梅らを見守っていた憂炎ユーエンは、柘榴の瞳を細め、次いで問う。

「そう思われませんか? 一心イーシンさま」

 ふり返った先、室の入り口に三毛の青年が駆けつけたことを、いち早く察知した上で。
 言外に追及する柘榴のまなざしとしばし対峙した琥珀の双眸が、つと逸らされ、少女へと向けられた。

梅雪メイシェさん、お茶をお淹れしましょうか。こちらへおいでください」

 静かに歩み寄った一心が、早梅の手をとり、濡れたほほを指先でぬぐう。
 柔和な声音は、平生と変わらぬ一心のものに違いない。
 だがそこにわずかな違和感があるのを、このときの早梅は、不思議と敏感に肌で感じとった。

「たいへん申し訳ありませんが、ほかのみなさまは、別室でお待ちを」
「こんな状態の梅雪を、独りにしろと? いささか冗談がすぎませんか、一心さま」
「これは、僕たちと彼女の問題です。お控えください」

 一心は多くを語らない。ただ早梅を寄こせとだけ主張する。
 あまりの身勝手に、憂炎は腹の底でくすぶる熱をおさえられない。

「いいんだ、憂炎」

 殺してやろうか、とさえ思った。
 そんな憂炎の激情を押しとどめたのは、ほかでもない早梅であった。

「……まいりましょう、一心さま」

 早梅は一心の手をとる。
 瑠璃の瞳を濡らしてなお、毅然として前を向く早梅の背が遠ざかるのを、桃英、そして晴風も、黙って見守ることしかできなかった。


  *  *  *


 案内されたのは、はじめて目にする室だった。
 聞けば一心の寝室だという。
 なぜだか、六夜リゥイ五音ウーオンに出迎えられたが。
 ふたりは多くを訊かずに早梅を抱きしめると、六夜が早梅の手を引いて卓の一席に座らせ、五音が茶器を運んできた。

「此度の桜雨さまの件に関しましては、心中お察しいたします。お母さまのことを想われ、気が気でないことでしょう」

 向かいの席に腰を落ち着けた一心が、口をひらく。
 
「きょうお越しねがいましたのは、まず謝罪をさせていただくためです」
「謝罪、ですか?」
「えぇ。単刀直入に申し上げます。桜雨さまがあのような状態になってしまったことに、われわれは心当たりがあります。いえ、原因そのものでしょうか」
「なん、ですって……!」

 ──なにが原因なのか、私にはわからない。
 ──だが、おそらく一心殿は、真相をご存知だ。

 再会した日、桃英が話していたことを思いだす。
 その予想は現実となって、早梅の前へあらわれた。

「真実を、知りたいですか?」
「当たり前です……!」

 それで桜雨が救われるなら、なりふりかまってなどいられないと、そう思っていた。

「では、梅雪さんにおねがいがございます。『すべて』をお話しします。その対価として、僕たちに抱かれてください。いま、ここで」
「なっ……」

 なにを言われているのか、理解ができなかった。
 時間をかけて咀嚼したところで、納得できるはずもないだろう。

「これからお話しすることは、マオ族の機密事項です。みだりに外部へ漏らすことは許されない。『それ』を知ったが最後、君は二度と、人の世界にもどることはできない。僕たち猫族のものとなり、みなの子を生み、妻として、母として、生涯をともにしてもらいます」

 一心の言葉が、重く頭上にのしかかる。
 直面しているのは、それほどまでに重大な出来事なのだと、思い知らされる。

「六夜、五音、そして僕。ひとりに抱かれるごとに、『猫族の秘密』を、ひとつずつお教えします。君の覚悟を、見せてください」
「取り引き……ですか」
「そう捉えてもらってもかまいません。もし倫理観というものが君の邪魔をしているのなら、そんなもの捨ててください。猫族に愛されるとは、そういうことです」

 そのとき、琥珀のまなざしがわずかに影を落とした。
 さびしげに、一心は言葉をつむぐ。

「どんな手を使ってでも君を手に入れようとする愚か者を、嘲笑わらってもいいから……君に教えずにはいられないのだと、僕たちに『理由』をください」
「一心さま」
「……そこのお茶には、媚薬が入っています。覚悟ができたなら、どうぞ、お飲みください」
「っ……!」

 もう、我慢ならなかった。
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