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第三章『焔魔仙教編』

第百八十一話 紅顔人【後】

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 リン、リンと、どこかで鈴虫が鳴いている。

梅雪メイシェさま」

 かっとほほが熱をもつ。
 なぜそんなに、吐息をもらすような熱を浮かべて、名を呼ぶのか。

「私からも、よろしいですか?」

 なにを? だなんて、どこからともなくやってきた気恥ずかしさで手一杯な思考回路では、ろくに聞き返すこともできなかった。
 固まった早梅はやめへほほ笑み、五音ウーオンが筆を持ちかえる。彼がそれまで使っていた白穂の筆だ。

「──『紅顔人こうがんのひと』」

 袖がひらめき、しめやかな月夜に、筆がすべる。

 耿耿紅顔人
 梅如雪中生
 月色感甘芳
 晴翠射荒城
 業火灼不盡
 春風吹又薫
 頼聞玲華唱
 至高塵襟清

 またたく星を背景に、淡い光の文字が描かれる。
 まるで光の手品でも目にしているような幻想的な光景に、早梅はしばし時を忘れ、魅入っていた。


 耿耿こうこうたり 紅顔こうがんのひと
 雪中せっちゅうしょうず うめごと
 月色げっしょく 甘芳かんぼうかん
 晴翠せいすい 荒城こうじょう
 業火ごうかけどもきず
 春風しゅんぷうきて またかお
 玲華れいかしょうくにりて
 至高しこう 塵襟じんきんきよまれり


 ちらちらと揺らめく光のようにうら若き乙女は
 雪中に芽吹く梅のごとくいじらしい

 月の光を目にすれば
 あなたの甘い香りと今宵のことを思い出し

 あなたの髪の翡翠色が
 きらきらと陽光に輝く植物の緑のごとく
 荒れた城のような私のこころに萌えいづる

 たとえ地獄で業火に灼かれたとしても
 この想いは尽きることなく
 春がおとずれるたび 何度でも思い出すでしょう

 あなたの宝玉がこすれ合うように美しい声を耳にすると
 こころ洗われ 至高の幸福に満たされるのです


「梅雪さまへの想いを綴った詩です。いかがでしたか?」
「へっ……あっ」

 なにを言われたのか、すぐには理解できなかったが、遅れて全身が発火するような羞恥がわき上がる。

(これって、これって……もしかしてラブレターとかいうやつ!?)

 もしかしなくてもそうである。

「う、五音さま……」
「そう恥ずかしがらずに、可憐なお顔を見せてください」
「ひぇ……」
「あぁ、ほんとうにうれしいです。この愛を受け入れてくださったのですね、私の花妻」
「いつ結婚しましたっけ……?」
「この『名筆なふで』で、私の『字名あざな』を書いてくださったでしょう?」
「ふぇっ、なふで?」

 五音によると、マオ族では赤ん坊の髪をはじめて切りそろえたとき、切った髪で筆を作り、お守りにするのだという。

「成人した猫族が『名筆』を異性へ預けることは、求婚を意味するんです」
「えっ、ちょっ、うそでしょ!」
「梅雪さまは、この『名筆』で『五音』ではない『名前』をお書きになりましたよね」
「それはっ、なんか自然に思い浮かんだというか、手が勝手に動いてっ!」
「そういうものです。『名筆』はもち主への『好意』に反応するものですから。つまり、梅雪さまが私に感じてくださっている『好意』です。『名筆』で書かれた『名前』は、もち主に直接つたわります。それこそが『字名』──あなたが私にくださったもの。あなただけが呼ぶことを許される名。私たちが夫婦になったという証なのです」
「きゃあああっ! まってまって、待ってください! そりゃたしかに五音さまのこと尊敬してますけど、それは愛情っていうか親愛でっ!」
「どちらにせよ、『好意』に変わりはありませんね」
「判定ガバガバすぎやしませんか!?」

 じりじりと後ずさっていたが、それも悪あがき。

「梅雪さま。猫族ではないあなたに『字名』をお返しすることは叶いませんが、私の愛をこめた詩を贈りました。種族のちがいなどささいなこと。私の生涯をかけて愛し、尽くすことを誓いましょう」
「わかりました、とりあえずおたがい落ち着きま……」

 みなまで言えなかった。
 しなやかな腕に、腰を絡めとられてしまったために。

「甘い香りが心地いい……花びらを食んでいるかのようです」
「んっ……」

 やわく吸われるような、しっとりとした口づけだった。

「っふ……五音、さま……」
「ちがうでしょう?」

 熱がはなれたかと思えば、つう、と下唇を親指の腹でなぞられ。

「あなただけの私は、なんという名ですか?」

 掠れた吐息に鼓膜をくすぐられ、あまく、やさしく責め立てられる。

「……り……玲音リンオン、さま」

 耐えかねて声を絞りだした早梅の頭上で、くすりと笑い声がもれた。

紅顔人かわいいひと
「あっ……んむ」

 ちらりと牙をのぞかせた唇に、かぷ、とやわく噛みつかれる。
 おどろいた拍子に半開きになった口内へ、ぬるりと熱が押し入った。

「……ん」
「ふぁっ……はぁ、んんっ」

 浅く、深く。
 ときに角度を変えながら、ねっとりと舌を絡める濃厚な口づけに、たがいの境界線すらわからなくなる。

「も……むり、です……りん、おん、さまぁっ……!」

 どうにもたまらなくなり、瑠璃の瞳いっぱいに涙をためて懇願した早梅は、ずるりと五音の胸へしなだれかかる。

「ふふっ……すこし、意地悪がすぎましたね。ゆるしてください」

 可笑しげに声をふるわせる彼は、言葉でいうほど、悪気を感じてはいないのだろう。
 くすぐるように何度か早梅のほほをなでた指先が翡翠の髪を梳き、あらわになった少女のひたいへ、口づけがひとつ。

「愛しています。──私の愛しいひとが、よい夢をみられますように」

 子守唄のごとく静かな声音にさそわれ、夢見心地で見上げた先。

 月を背にした青年が、をうっそりと細め、じぶんを抱いていることを知った。
 蕩けるような熱をやどし、こちらを見つめる紫水晶の双眸があることを、知った。
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