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第三章『焔魔仙教編』

第百七十九話 失意の先に【後】

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 どのくらいのあいだ、虚空を見つめていたことだろう。

「……俺の、弟……父上が、ハヤメさんを…………マジかよぉおお……!」

 幾度となくくり返した思考に、暗珠アンジュは自棄になって漆黒の髪を掻き乱す。

 ザオ一族の襲撃を命じたのは、ルオ飛龍フェイロン
 原作で梅雪メイシェが後宮入りをしたのは復讐を果たすためであり、間もなく飛龍が崩御するのも、病死に見せかけ梅雪が暗殺するにいたったから。
 現在飛龍の体調が思わしくないのは、原作でも用いられた早一族相伝の『氷毒ひょうどく』なるものの影響らしい。

 これは、『暗珠』に憑依したクラマでは開示請求できない『原作機密事項』に該当する。いわゆる、『原作では明記されていないこと』だ。
『梅雪』に憑依した早梅はやめだからこそ、知り得ることができた真実エピソード

 ──陛下は、私をさがしている。
 ──私を連れてゆくためなら、どんな手段も厭わないだろう。
 ──それが、街ひとつ消し炭にすることであっても。

 絞りだすような早梅の言葉が、忘れられない。

(ハヤメさんを、愛しているんですか……愛しているなら、どうして、こんなことを……俺にはわかりません、父上……)

 どんなに考えを巡らせようと、答えなど見つからない。
 暗珠に刻まれた記憶では、飛龍は『よき父親』でしかなかった。

「……下、殿下」
「っ!」

 椅子でひざをかかえていた暗珠は、急激に意識を引き戻される。
 見れば黄金の隻眼でこちらをのぞき込むように、黒髪の男が長身をかがめていた。

「お声がけしてもお返事がありませんでしたので。まことに勝手ながら、失礼させていただいております」
「……黒皇ヘイファン、といったな。私に何用か」
「どうぞ、楽になさってくださいませ。私がお話にうかがいましたのは、『皇子殿下』ではなく、『クラマさま』ですから」

 低い声音で淡々と話す黒皇は、じつに落ち着きはらっている。
 一瞬でも動揺してしまったおのれが情けない暗珠は、ぶっきらぼうに返すことしかできない。

「なら俺も言わせてもらいますけど。こんなところでなにしてんです? あなたの役目は、ハヤメさんのそばにいることじゃないんですか?」

 ──俺が死ぬほど欲している場所にいるくせに。

「言いたいことがあるならさっさと言ってください。『世間知らずの臆病者は引っ込んでろ』って」

 手酷く罵倒されたなら、反論したっておかしくはない。
 恨めしい、羨ましいと、こどもの癇癪のような嫉妬すら、正当化される気がした。
 だけれども、目の前の男は思慮深く黄金の瞳を細めるのみで、暗珠を罵ることはしない。

「……すきだったんです……好きなんです……なのに、なんでっ……なんであんたなんですか……その場所にいるのが、俺じゃないんですかっ……!」

 わかっていた。ほんとうは、わかっていたのだ。

 ──彼こそ、早梅をそばで支えるにふさわしい人物だと。

 こちらの横暴すら受け止めてみせる度量のひろさが、余計に暗珠をみじめにさせる。

「これは、ただの烏が勝手に鳴いていることなのですが」

 暗珠が顔をそむけるほど重苦しい沈黙をやぶり、黒皇は静かに口をひらく。

「懐妊がおわかりになったとき、早梅さまが真っ先になさったことはなんだと思いますか。冷たい冷たい真冬の池に、身を投げることです」
「なっ……んだって」
「最愛のご家族の命をうばわれ、無垢なおからだを穢され、食事も、眠ることもままならず、日に日に衰弱されてゆきました。身もこころも、ぼろぼろでした。私は、そんな早梅さまのお力になれずにいたことが、たまらなく歯痒かった」
「そんなこと、言われても……俺にどうしろって言うんですか! 俺だって助けたかった、でも無理だったんです! さがしてもさがしても、どこにもいなかったんだから! 俺だって、ハヤメさんのそばにいたかった……っ!」
「運命とは無情です。平気で私たちのこころを引き裂く。けれど、そばにいられなかったこと、知らなかったことを、責めているのではありません」

 容赦なく事実を突きつけておきながら、暗珠を責めるつもりはないという。
 この男は、いったいなにを考えているのか。

「ふれればちぎれてしまいそうな、か弱い一輪の花でした。そんな早梅さまが、苦悩し、葛藤を乗り越え、蓮虎リェンフーおぼっちゃまをお生みになる決断をされたのです。堂々と、じぶんらしくいられるように。そうして、いまやだれもを魅了する、あざやかで美しい大輪の花を咲かせたのです」

 ──君、具合が悪いの? お薬をあげようか!

 再会した早梅は、記憶にたがわぬお人好しで脳天気なえがおを浮かべていた。
 人の気も知らないでと、ちょっと腹が立ったくらいで。
 コロコロと変わる愛くるしい表情。彼女のそばには、つねにだれががいて。

「私も、青風真君せいふうしんくんも、旦那さまも、マオ族のみなさまも、早梅さまの苦悩と葛藤を知っています。早梅さまはお強いですが、その強さが過去の弱さを乗り越えたものであることを、知っています。ですから、力になりたいと、愛おしいと想うのです」
「──!」

 そこまで言われてしまえば、わからざるを得ない。
 黒皇がなにを言いたいのか。なにを暗珠につたえようとしているのか。

「弱いことは、間違いではありません。クラマさまの苦悩と葛藤には、意味があります。それに、知らなかったことは、知っていけばよいのです。これからどうするのかが、たいせつなのです。失意の先に、なにを見るのか。すべてはあなたさま次第ではございますが──」

 黒皇は語る。太陽のようにくもりのないまなざしで、まっすぐとこちらを見据えて。

「私は『光』をつかんでほしいと、そうねがっております。早梅さまがそうであったように」

 しばしの沈黙がながれる。
 負けた。完敗だ、と暗珠は思った。
 無性に胸がふるえて、目頭が熱くなる。
 こんなのは、反則でしかない。

「長々と失礼いたしました。ご用がありましたら、お申しつけくださいませ」

 黒皇をそのまま勝ち逃げさせるのも癪なので。

「待って。……待ってください」

 声がふるえるのをおさえながら、意地でも顔を上げて告げる。

「筆と墨を……おねがいします。文を、書きます。それから……『俺は心配いらないんで子守りでもしてろやアホ』って、ハヤメさんにつたえといてもらえますか」

 室の扉に手をかけた体勢でしばし思考停止した黒皇だったが、すぐに向き直り、

「かしこまりまして」

 深々と、一礼したのだった。
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