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第三章『焔魔仙教編』

第百七十五話 言葉にできない感情【前】

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 晴風チンフォンにつれられ、ひろい屋敷を奥へ奥へとすすむ。
 やがて離れの一角、北向きに面したへやの前にたどり着く。
 もともと、ひろさのわりにひとけの少ない屋敷だが、ここはとくに静まり返っており、部外者を寄せつけぬ、不思議な空気感をただよわせていた。

「俺だ。ちいとばかし邪魔するぜ」

 扉をこぶしで軽く叩きながらひとつ断った晴風が、ふり返り、目配せを寄こす。
 入れ、という意味だろう。
 暗珠アンジュは気を引きしめ、扉をひらいた晴風の背に続く。

「いかがなされましたか、お祖父様」

 そして暗珠は、すぐに思考停止する。
 歩み寄ってきた人物が、すこし大人びてはいるが、晴風と瓜ふたつ、まさに生き写しの青年であったためだ。

「いきなり悪ぃな、桃桃タオタオ。来客だ。会ってやってくれ」
「私に来客、ですか。いったいどのような──」

 晴風の後ろにたたずむ暗珠を瑠璃の双眸にとらえた刹那、桃英タオインの背に戦慄が走る。
 構えの体勢を取ってしまったのは、条件反射だ。

「……これはどういうことか、お教えねがえますか、お祖父様」
「俺の独断だ。責任は取る。こっちの坊主と話してやってくれ。こいつには、『知る権利』がある」

 顔を合わせるのははじめて。まだ名乗ってもいない。しかしながら暗珠も桃英も、相手が何者なのか、直感的に気づいていた。
 さきに口火を切ったのは、桃英だ。

「そのたたずまいは、皇室関係者──ルオ暗珠アンジュ皇子殿下とお見受けいたす」
「相違ない。貴殿はザオ家の御仁だな」
「早桃英。梅雪メイシェの父でございます。ごらんのとおり手が空いておりませぬゆえ、たいしたおもてなしはできませんが、ご容赦を」

 腰を折り、淡々と、流暢に告げる桃英は、腕に赤ん坊を抱いていた。きものの柄から察するに、男児だろうか。

「……そちらの子は?」

 梅雪に弟がいただろうか。原作の知識は網羅していたはずだが、思い当たる節がない。
 素朴な疑問を投げかけた暗珠に、桃英はつと瑠璃の瞳を細める。

「まぁま?」

 緊迫の静けさを、幼子の声がやぶった。

「じぃじ、まぁま、まぁま!」

 赤ん坊はきょろきょろとあたりを見まわして、だれかをさがしているようだった。

「まぁま……ぅう、うぁあああ~!」
「あぁ蓮虎リェンフー、よしよし。もうすこしがまんしてくれ、いいこだから」

 しかし見つけられなかったのか、水桶をひっくり返したように泣きじゃくりはじめる。
 まるい背を軽く叩いて桃英があやすも、いやいやと首をふってみじかい手足をばたつかせている。

 それを目の当たりにした暗珠はというと、絶句していた。
 いきなり赤ん坊が泣き始めたのもそうだが、なによりおどろくべきは、その容姿。

(……あかい、瞳? 翡翠の髪だから、早家の血は引いているんだろうが……)

 思考をうばわれた暗珠は、注意力が散漫になっていた。無防備きわまりなかった。

 ──ひたり。

 右の頸動脈へ押しあてられた『熱いなにか』の感触に、はじかれたかのごとく我を取りもどす。

「──これはなんの冗談なのか。その赤ん坊から、梅雪とよく似たにおいがします。それと、もうひとつは──」

 ふり返ることは許されない。
 背後を取った人物の様子を目視でうかがうことはできないが、暗珠はそれがだれなのか、すぐに理解した。
 表情まで目に浮かぶ。きっと鬼のような形相をしていることだろう。

「あぁ、なんて悪夢だ……堕ちるところまで堕ちたな、下衆め。もはや生かしておけるものか」
「やめてくれ憂炎ユーエンっ! 誤解だ、殿下じゃない!」
「っ、こら梅雪、飛びついてきたら危ないじゃないですか!」

 背後の殺気が散る。早梅はやめの乱入によって、暗珠を拘束していた憂炎の集中力が途切れたのだ。
 瞬時に身を反転させ、臨戦態勢に入った暗珠が目にしたものは、憂炎を羽交い締めにした早梅と、憂炎の右手から煙のようにかき消えた『剣のかたちをしたモノ』だった。
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