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第三章『焔魔仙教編』
第百五十八話 光に手を伸ばす【前】
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どうでもいい。なにもかもが、どうでもいい。
そう思うようになったのは、いつからだったか。
なにか『たいせつなもの』を持っていたはずなのに、ぜんぶ両手からこぼれ落ちてしまった。
いまではそれがなんだったのかも、思いだせない。
生への執着を諦めたときから、目にするものすべてが、灰色になった。
……ほんとうに?
「──『どうして俺をえらんだのか』って? そんなの決まってるじゃないですか」
あか、赤。熟れた柘榴のような、紅蓮。
唐突にやってきた、鮮烈な色彩。
「目的のための人殺しにためらいがなく、主人に従順なおまえだからですよ、爽」
月よりも白い髪が風になびいて、歌うような言葉が鼓膜をふるわせる。
「それと、なんだか見たことがあるような気がしたんですよねぇ……もしかしたら、前に会っていたかもしれませんね、わたしたち」
いたずらっぽい笑みが目前でほころんで、はっと気づく。
いつの間にか、世界は灰色ではなくなっていたと。
思わずふり仰いだ視界が、まばゆい光で埋め尽くされる。
「なに間抜けな顔してるんですか。そんなに見上げたら、ひっくり返りますよ」
金色が。
青く澄みわたる大空から、黄金の光がふり注いでいる。
「お空におひさまがあることなんて、そうめずらしいものでもないでしょうに……ってこれ、前にも言わなかった?」
そうか、そうなのだ。
夜も、雨の日も、嵐や雪の日も、雲の上にはいつだって、金色の光があった。
見えていなかっただけ、見ようとしなかっただけ。
あぁ。こんなにたいせつなことを、忘れていたなんて。
まばゆい光のほうへ手をのばしたら、つかめそうな気がした。失くした記憶の欠片を、さぐり当てられそうな気がした。
「俺は……わたし、は……」
もっともっと手を伸ばしたら、思いだせるだろうか。
あの金色の光を目にすると、どうしようもなく胸が熱く、切なく、愛おしい気持ちになる理由を。
* * *
「『龍宵節』って、どんなお祭りなの?」
赤ん坊が眠りこける昼下がり。何気ない会話の取っかかりだった。
こんども、何千年と生きる物知りな愛烏が流暢に受け答えるだろうと、信じて疑わなかった。
「……現皇室のはじまりに由来する、伝統的な祭事だそうですよ。私は、間近で拝見したことはございませんが」
ゆえに、しばしの沈黙をはさみ、なんらかの感情を抑えたような硬い声音による返答は、早梅の意識を蓮虎から黒皇へと移ろわせた。
「いまのってことは……羅皇室の?」
「はい」
茶を淹れる黒皇の手つきに、滞りはない。
もとより寡黙で表情変化の少ない男だ。早梅でなければ、そのささいな異変を感じ取ることなど、できなかっただろう。
「おーい梅梅、ちょっと来てくれんかねー」
どう話題を続けたものか、と悩むひまもなく、名を呼ばれた。よく通る晴風の声だ。
「はーい、ただいま」
早梅はすぴすぴと眠るわが子の頭をするりと撫で、腰かけていた寝台からおりる。
「ちょっと行ってくるから、小蓮を見ててくれない?」
「かしこまりました」
にこりと笑いかけ、黒皇が深々と頭を垂れたことで、この話題は終了した。
寝室をあとにし、早足で回廊を急いでいると、門のほうに人だかりを認めた。
早梅を呼んだ晴風、それから六夜に五音。
なんとも物騒な顔ぶれに、恐怖戦慄する。
なぜなら三者三様に笑みを浮かべていたため。それはもう、弾けんばかりの笑みを。
「ご来客です、梅雪さま」
「このおチビちゃんつまみ出していい? いいよな?」
「吊るし上げんのもいい手だなァ、はっは! どうしてやるか好きな方法をえらびな、梅梅ー」
「ちょっと待って! 落ち着いてください、みなさん!」
晴風、六夜、五音が、笑いながら怒っている。
それをさせることができる『来客』に──悲しいことに、心当たりがありすぎた。
「此度も熱烈な歓迎、感謝する」
みじんもそうは思っていないだろう仏頂面でのたまうは、艶のある黒髪に、あざやかな薔薇輝石の瞳をもつ美少年だ。
「殿下!」
殺気をまとった男衆に寄ってたかって笑顔の圧力をかけられていようと、そんなことはどこ吹く風。
自身を呼ぶ鈴の声音を耳にした刹那、少年は険しくひそめた表情をほころばせ、目に見えて口角を上げる。
「きょうもまぶしい午後だな、わが姫?」
とろけるように笑んだ暗珠が、呆ける早梅の手をとり、口づけを落としたことで、その場がさらに騒然となるのは、すぐ後の話。
そう思うようになったのは、いつからだったか。
なにか『たいせつなもの』を持っていたはずなのに、ぜんぶ両手からこぼれ落ちてしまった。
いまではそれがなんだったのかも、思いだせない。
生への執着を諦めたときから、目にするものすべてが、灰色になった。
……ほんとうに?
「──『どうして俺をえらんだのか』って? そんなの決まってるじゃないですか」
あか、赤。熟れた柘榴のような、紅蓮。
唐突にやってきた、鮮烈な色彩。
「目的のための人殺しにためらいがなく、主人に従順なおまえだからですよ、爽」
月よりも白い髪が風になびいて、歌うような言葉が鼓膜をふるわせる。
「それと、なんだか見たことがあるような気がしたんですよねぇ……もしかしたら、前に会っていたかもしれませんね、わたしたち」
いたずらっぽい笑みが目前でほころんで、はっと気づく。
いつの間にか、世界は灰色ではなくなっていたと。
思わずふり仰いだ視界が、まばゆい光で埋め尽くされる。
「なに間抜けな顔してるんですか。そんなに見上げたら、ひっくり返りますよ」
金色が。
青く澄みわたる大空から、黄金の光がふり注いでいる。
「お空におひさまがあることなんて、そうめずらしいものでもないでしょうに……ってこれ、前にも言わなかった?」
そうか、そうなのだ。
夜も、雨の日も、嵐や雪の日も、雲の上にはいつだって、金色の光があった。
見えていなかっただけ、見ようとしなかっただけ。
あぁ。こんなにたいせつなことを、忘れていたなんて。
まばゆい光のほうへ手をのばしたら、つかめそうな気がした。失くした記憶の欠片を、さぐり当てられそうな気がした。
「俺は……わたし、は……」
もっともっと手を伸ばしたら、思いだせるだろうか。
あの金色の光を目にすると、どうしようもなく胸が熱く、切なく、愛おしい気持ちになる理由を。
* * *
「『龍宵節』って、どんなお祭りなの?」
赤ん坊が眠りこける昼下がり。何気ない会話の取っかかりだった。
こんども、何千年と生きる物知りな愛烏が流暢に受け答えるだろうと、信じて疑わなかった。
「……現皇室のはじまりに由来する、伝統的な祭事だそうですよ。私は、間近で拝見したことはございませんが」
ゆえに、しばしの沈黙をはさみ、なんらかの感情を抑えたような硬い声音による返答は、早梅の意識を蓮虎から黒皇へと移ろわせた。
「いまのってことは……羅皇室の?」
「はい」
茶を淹れる黒皇の手つきに、滞りはない。
もとより寡黙で表情変化の少ない男だ。早梅でなければ、そのささいな異変を感じ取ることなど、できなかっただろう。
「おーい梅梅、ちょっと来てくれんかねー」
どう話題を続けたものか、と悩むひまもなく、名を呼ばれた。よく通る晴風の声だ。
「はーい、ただいま」
早梅はすぴすぴと眠るわが子の頭をするりと撫で、腰かけていた寝台からおりる。
「ちょっと行ってくるから、小蓮を見ててくれない?」
「かしこまりました」
にこりと笑いかけ、黒皇が深々と頭を垂れたことで、この話題は終了した。
寝室をあとにし、早足で回廊を急いでいると、門のほうに人だかりを認めた。
早梅を呼んだ晴風、それから六夜に五音。
なんとも物騒な顔ぶれに、恐怖戦慄する。
なぜなら三者三様に笑みを浮かべていたため。それはもう、弾けんばかりの笑みを。
「ご来客です、梅雪さま」
「このおチビちゃんつまみ出していい? いいよな?」
「吊るし上げんのもいい手だなァ、はっは! どうしてやるか好きな方法をえらびな、梅梅ー」
「ちょっと待って! 落ち着いてください、みなさん!」
晴風、六夜、五音が、笑いながら怒っている。
それをさせることができる『来客』に──悲しいことに、心当たりがありすぎた。
「此度も熱烈な歓迎、感謝する」
みじんもそうは思っていないだろう仏頂面でのたまうは、艶のある黒髪に、あざやかな薔薇輝石の瞳をもつ美少年だ。
「殿下!」
殺気をまとった男衆に寄ってたかって笑顔の圧力をかけられていようと、そんなことはどこ吹く風。
自身を呼ぶ鈴の声音を耳にした刹那、少年は険しくひそめた表情をほころばせ、目に見えて口角を上げる。
「きょうもまぶしい午後だな、わが姫?」
とろけるように笑んだ暗珠が、呆ける早梅の手をとり、口づけを落としたことで、その場がさらに騒然となるのは、すぐ後の話。
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