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第三章『焔魔仙教編』
第百四十六話 風雲急を告ぐ【前】
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水の都における朝は、夏季であっても窓辺の花瓶が結露するほどに肌寒い。
「どうしたものか……うぅ~ん」
寝台からのそりと起床し、首を縮めながら手早く着替えをすませた早梅ではあったが、いまだ身支度を終えられずにいた。
寝台横の卓の上には、花梨と紫檀を格子柄に組み合わせた、木製の小物入れがある。
なかには、紅玉、黄玉、紫水晶に真珠と、宝玉であしらわれた四本の花簪がおさめられている。
そのいずれにも手を伸ばせないまま、早十五分ほどが経過してしまった。
「ナァー」
ふいに、耳にとどく鳴き声がある。水飴のようにとろけた猫なで声だ。
(猫ちゃん……!)
とたん、動物好きな早梅の知能は急低下した。
この屋敷がどこなのかも忘れ、興味本位のままに窓のすきまを押し広げる。
と、十数センチほど開いた木枠のあいだからすべり込む影があり。
栗色に白と黒の毛がまじった、三毛猫だった。
「ナァア──おはようございます、梅雪さん。よい朝ですね」
「……一心さま!」
するりと卓へ降り立ち、行儀よく座り込んで可愛らしく鳴いてみせた三毛猫は、次いで若い男の声であいさつを口にする。
「朝早くからごめんなさい。黒皇がゆるしてくれないので、ちょっと忍び込ませていただきました」
それで、わざわざ猫のすがたでやってきたということなのだろうか。
「すごいな……猫ってほんとうに液体なんだ」
「といいますと?」
「どこからでも入り込めるんだと、感心しているところです」
「そうでしたか。お褒めにあずかり、光栄です」
「なでてもいいですか?」
「もちろん」
「肉球さわりたいです」
「どうぞ、お気のすむまで」
ふたつ返事で了承されたなら、遠慮はいらないだろう。
「はぁあ~……ふわっふわ、肉球ぷにぷに~! かわいい、かわいい……!」
「ウゥ……ふふ、くすぐったいです」
早梅に抱き上げられ、ぎゅうと胸に抱かれた一心も、まんざらではなさそうだ。
琥珀色の双眸をまぶしげに細め、上機嫌に首をかたむける。その拍子に、長いひげが揺れた。
小動物を前にすると早梅が無防備になることは、おり込み済みの一心である。
「ずっと可愛がってもらいたいですが、がまんして、本題に入りますね」
「本題、ですか?」
「梅雪さんに、おわたししたいものがありまして」
ひとしきりなでられ、一心も満足したのだろう。ふわりと風が吹き、早梅の腕からぬくもりが消える。
代わりに、柔和な笑みをうかべた青年が、紅木の椅子に腰かけた早梅の目前にあらわれた。
「先日おさわがせしたお詫びもふくめて、贈り物です」
若草色の袂をさぐった一心が、そういって差しだしてきたのは、一本の簪だった。
それ自体を枝に見立てた花簪であり、金の細枝には、透かし彫りの葉が一枚、二枚、三枚とつらなる。
さらに黄金の葉のあいだからは、薄紅と緑が斑に入り混じった、小ぶりの宝玉がのぞく。花翡翠だ。
これには、ぎこちない笑みしか返せない。
「みんなが簪を贈っているのに、僕だけ仲間はずれなのはどうかと思いまして。お気に召しませんでしたか?」
「きれいです。とても……私にはもったいないくらい」
ため息が出るほど美しい花簪を贈られてなお、素直に喜べないじぶんは、薄情な女なのだろう。それでも。
「もったいなさすぎて、つけられません」
花翡翠の簪に限ったことではない。
どれかひとつを身につけるということは、その簪を贈った相手を贔屓するということだ。
八藍、九詩、六夜、五音、一心。
惜しみない愛を示してくれる彼らには悪いが、早梅がいだいている感情は親愛の情であり、だれかひとりをえらぶことなどできない。
「君は純粋でやさしいひとですね。難しく考えなくて大丈夫」
けれども、早梅がうんと思い悩んでいたことさえ、一心のひと言で一蹴されてしまう。
花翡翠の簪を手に、うつむく早梅の手を、そっとつつみ込む手のひら。
「猫族の男が女性に簪を贈るのは、『この簪で着飾ったあなたが、髪をふり乱すさまを見たい』という意味があります。要するに、夜のお誘いですね」
「へっ……」
とっさに引っ込めようとしたが、遅い。
つつみ込まれた右手はびくともせず、ゆるりと三日月を描いた唇が耳もとへ寄せられる。
「僕らは、全身全霊で君を愛します。君から欲しがってくれるように。ですから、夜伽をご所望のときは、その相手の花簪を髪に飾ってくださいね」
「なっ……なぁあ……!」
「あぁもちろん、一本と言わず、何本でもかまいませんよ? 君は僕たちのお姫さま。えらばれた全員で、悦んでいただけるよう、ご奉仕いたします」
「私そんなに、節操なしじゃないですぅっ!」
「ははは、複数で『する』のは、猫族ではわりと主流なんですけどね。そのほうが妊娠させやすいって統計もあるんです。六夜と五音がいい例で」
「聞きたくなかった……っ!」
にこにこと人畜無害そうな顔をして、とんでもないことをいう。
子を成しにくい種族であるがゆえに、子孫繁栄のために腐心してきた影響がその独特な貞操観念につながっているのだろうが、早梅にとっては赤面ものでしかない。
「どうしたものか……うぅ~ん」
寝台からのそりと起床し、首を縮めながら手早く着替えをすませた早梅ではあったが、いまだ身支度を終えられずにいた。
寝台横の卓の上には、花梨と紫檀を格子柄に組み合わせた、木製の小物入れがある。
なかには、紅玉、黄玉、紫水晶に真珠と、宝玉であしらわれた四本の花簪がおさめられている。
そのいずれにも手を伸ばせないまま、早十五分ほどが経過してしまった。
「ナァー」
ふいに、耳にとどく鳴き声がある。水飴のようにとろけた猫なで声だ。
(猫ちゃん……!)
とたん、動物好きな早梅の知能は急低下した。
この屋敷がどこなのかも忘れ、興味本位のままに窓のすきまを押し広げる。
と、十数センチほど開いた木枠のあいだからすべり込む影があり。
栗色に白と黒の毛がまじった、三毛猫だった。
「ナァア──おはようございます、梅雪さん。よい朝ですね」
「……一心さま!」
するりと卓へ降り立ち、行儀よく座り込んで可愛らしく鳴いてみせた三毛猫は、次いで若い男の声であいさつを口にする。
「朝早くからごめんなさい。黒皇がゆるしてくれないので、ちょっと忍び込ませていただきました」
それで、わざわざ猫のすがたでやってきたということなのだろうか。
「すごいな……猫ってほんとうに液体なんだ」
「といいますと?」
「どこからでも入り込めるんだと、感心しているところです」
「そうでしたか。お褒めにあずかり、光栄です」
「なでてもいいですか?」
「もちろん」
「肉球さわりたいです」
「どうぞ、お気のすむまで」
ふたつ返事で了承されたなら、遠慮はいらないだろう。
「はぁあ~……ふわっふわ、肉球ぷにぷに~! かわいい、かわいい……!」
「ウゥ……ふふ、くすぐったいです」
早梅に抱き上げられ、ぎゅうと胸に抱かれた一心も、まんざらではなさそうだ。
琥珀色の双眸をまぶしげに細め、上機嫌に首をかたむける。その拍子に、長いひげが揺れた。
小動物を前にすると早梅が無防備になることは、おり込み済みの一心である。
「ずっと可愛がってもらいたいですが、がまんして、本題に入りますね」
「本題、ですか?」
「梅雪さんに、おわたししたいものがありまして」
ひとしきりなでられ、一心も満足したのだろう。ふわりと風が吹き、早梅の腕からぬくもりが消える。
代わりに、柔和な笑みをうかべた青年が、紅木の椅子に腰かけた早梅の目前にあらわれた。
「先日おさわがせしたお詫びもふくめて、贈り物です」
若草色の袂をさぐった一心が、そういって差しだしてきたのは、一本の簪だった。
それ自体を枝に見立てた花簪であり、金の細枝には、透かし彫りの葉が一枚、二枚、三枚とつらなる。
さらに黄金の葉のあいだからは、薄紅と緑が斑に入り混じった、小ぶりの宝玉がのぞく。花翡翠だ。
これには、ぎこちない笑みしか返せない。
「みんなが簪を贈っているのに、僕だけ仲間はずれなのはどうかと思いまして。お気に召しませんでしたか?」
「きれいです。とても……私にはもったいないくらい」
ため息が出るほど美しい花簪を贈られてなお、素直に喜べないじぶんは、薄情な女なのだろう。それでも。
「もったいなさすぎて、つけられません」
花翡翠の簪に限ったことではない。
どれかひとつを身につけるということは、その簪を贈った相手を贔屓するということだ。
八藍、九詩、六夜、五音、一心。
惜しみない愛を示してくれる彼らには悪いが、早梅がいだいている感情は親愛の情であり、だれかひとりをえらぶことなどできない。
「君は純粋でやさしいひとですね。難しく考えなくて大丈夫」
けれども、早梅がうんと思い悩んでいたことさえ、一心のひと言で一蹴されてしまう。
花翡翠の簪を手に、うつむく早梅の手を、そっとつつみ込む手のひら。
「猫族の男が女性に簪を贈るのは、『この簪で着飾ったあなたが、髪をふり乱すさまを見たい』という意味があります。要するに、夜のお誘いですね」
「へっ……」
とっさに引っ込めようとしたが、遅い。
つつみ込まれた右手はびくともせず、ゆるりと三日月を描いた唇が耳もとへ寄せられる。
「僕らは、全身全霊で君を愛します。君から欲しがってくれるように。ですから、夜伽をご所望のときは、その相手の花簪を髪に飾ってくださいね」
「なっ……なぁあ……!」
「あぁもちろん、一本と言わず、何本でもかまいませんよ? 君は僕たちのお姫さま。えらばれた全員で、悦んでいただけるよう、ご奉仕いたします」
「私そんなに、節操なしじゃないですぅっ!」
「ははは、複数で『する』のは、猫族ではわりと主流なんですけどね。そのほうが妊娠させやすいって統計もあるんです。六夜と五音がいい例で」
「聞きたくなかった……っ!」
にこにこと人畜無害そうな顔をして、とんでもないことをいう。
子を成しにくい種族であるがゆえに、子孫繁栄のために腐心してきた影響がその独特な貞操観念につながっているのだろうが、早梅にとっては赤面ものでしかない。
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