上 下
150 / 264
第三章『焔魔仙教編』

第百四十六話 風雲急を告ぐ【前】

しおりを挟む
 水の都における朝は、夏季であっても窓辺の花瓶が結露するほどに肌寒い。

「どうしたものか……うぅ~ん」

 寝台からのそりと起床し、首を縮めながら手早く着替えをすませた早梅はやめではあったが、いまだ身支度を終えられずにいた。
 寝台横の卓の上には、花梨かりん紫檀したんを格子柄に組み合わせた、木製の小物入れがある。
 なかには、紅玉、黄玉、紫水晶に真珠と、宝玉であしらわれた四本の花簪がおさめられている。
 そのいずれにも手を伸ばせないまま、早十五分ほどが経過してしまった。

「ナァー」

 ふいに、耳にとどく鳴き声がある。水飴のようにとろけた猫なで声だ。

(猫ちゃん……!)

 とたん、動物好きな早梅の知能は急低下した。
 この屋敷がどこなのかも忘れ、興味本位のままに窓のすきまを押し広げる。
 と、十数センチほど開いた木枠のあいだからすべり込む影があり。
 栗色に白と黒の毛がまじった、三毛猫だった。

「ナァア──おはようございます、梅雪メイシェさん。よい朝ですね」
「……一心イーシンさま!」

 するりと卓へ降り立ち、行儀よく座り込んで可愛らしく鳴いてみせた三毛猫は、次いで若い男の声であいさつを口にする。

「朝早くからごめんなさい。黒皇がゆるしてくれないので、ちょっと忍び込ませていただきました」

 それで、わざわざ猫のすがたでやってきたということなのだろうか。

「すごいな……猫ってほんとうに液体なんだ」
「といいますと?」
「どこからでも入り込めるんだと、感心しているところです」
「そうでしたか。お褒めにあずかり、光栄です」
「なでてもいいですか?」
「もちろん」
「肉球さわりたいです」
「どうぞ、お気のすむまで」

 ふたつ返事で了承されたなら、遠慮はいらないだろう。

「はぁあ~……ふわっふわ、肉球ぷにぷに~! かわいい、かわいい……!」
「ウゥ……ふふ、くすぐったいです」

 早梅に抱き上げられ、ぎゅうと胸に抱かれた一心も、まんざらではなさそうだ。
 琥珀色の双眸をまぶしげに細め、上機嫌に首をかたむける。その拍子に、長いひげが揺れた。
 小動物を前にすると早梅が無防備になることは、おり込み済みの一心である。

「ずっと可愛がってもらいたいですが、がまんして、本題に入りますね」
「本題、ですか?」
「梅雪さんに、おわたししたいものがありまして」

 ひとしきりなでられ、一心も満足したのだろう。ふわりと風が吹き、早梅の腕からぬくもりが消える。
 代わりに、柔和な笑みをうかべた青年が、紅木の椅子に腰かけた早梅の目前にあらわれた。

「先日おさわがせしたお詫びもふくめて、贈り物です」

 若草色のたもとをさぐった一心が、そういって差しだしてきたのは、一本の簪だった。
 それ自体を枝に見立てた花簪であり、金の細枝には、透かし彫りの葉が一枚、二枚、三枚とつらなる。
 さらに黄金の葉のあいだからは、薄紅と緑がまだらに入り混じった、小ぶりの宝玉がのぞく。花翡翠はなひすいだ。
 これには、ぎこちない笑みしか返せない。

「みんなが簪を贈っているのに、僕だけ仲間はずれなのはどうかと思いまして。お気に召しませんでしたか?」
「きれいです。とても……私にはもったいないくらい」

 ため息が出るほど美しい花簪を贈られてなお、素直に喜べないじぶんは、薄情な女なのだろう。それでも。

「もったいなさすぎて、つけられません」

 花翡翠の簪に限ったことではない。
 どれかひとつを身につけるということは、その簪を贈った相手を贔屓するということだ。
 八藍バーラン九詩ジゥシー六夜リゥイ五音ウーオン、一心。
 惜しみない愛を示してくれる彼らには悪いが、早梅がいだいている感情は親愛の情であり、だれかひとりをえらぶことなどできない。

「君は純粋でやさしいひとですね。難しく考えなくて大丈夫」

 けれども、早梅がうんと思い悩んでいたことさえ、一心のひと言で一蹴されてしまう。
 花翡翠の簪を手に、うつむく早梅の手を、そっとつつみ込む手のひら。

マオ族の男が女性に簪を贈るのは、『この簪で着飾ったあなたが、髪をふり乱すさまを見たい』という意味があります。要するに、夜のお誘いですね」
「へっ……」

 とっさに引っ込めようとしたが、遅い。
 つつみ込まれた右手はびくともせず、ゆるりと三日月を描いた唇が耳もとへ寄せられる。

「僕らは、全身全霊で君を愛します。君から欲しがってくれるように。ですから、夜伽をご所望のときは、その相手の花簪を髪に飾ってくださいね」
「なっ……なぁあ……!」
「あぁもちろん、一本と言わず、何本でもかまいませんよ? 君は僕たちのお姫さま。えらばれた全員で、悦んでいただけるよう、ご奉仕いたします」
「私そんなに、節操なしじゃないですぅっ!」
「ははは、複数で『する』のは、猫族ではわりと主流なんですけどね。そのほうが妊娠させやすいって統計もあるんです。六夜と五音がいい例で」
「聞きたくなかった……っ!」

 にこにこと人畜無害そうな顔をして、とんでもないことをいう。
 子を成しにくい種族であるがゆえに、子孫繁栄のために腐心してきた影響がその独特な貞操観念につながっているのだろうが、早梅にとっては赤面ものでしかない。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

娼館で元夫と再会しました

無味無臭(不定期更新)
恋愛
公爵家に嫁いですぐ、寡黙な夫と厳格な義父母との関係に悩みホームシックにもなった私は、ついに耐えきれず離縁状を机に置いて嫁ぎ先から逃げ出した。 しかし実家に帰っても、そこに私の居場所はない。 連れ戻されてしまうと危惧した私は、自らの体を売って生計を立てることにした。 「シーク様…」 どうして貴方がここに? 元夫と娼館で再会してしまうなんて、なんという不運なの!

王女、騎士と結婚させられイかされまくる

ぺこ
恋愛
髪の色と出自から差別されてきた騎士さまにベタ惚れされて愛されまくる王女のお話。 性描写激しめですが、甘々の溺愛です。 ※原文(♡乱舞淫語まみれバージョン)はpixivの方で見られます。

ヤンデレ旦那さまに溺愛されてるけど思い出せない

斧名田マニマニ
恋愛
待って待って、どういうこと。 襲い掛かってきた超絶美形が、これから僕たち新婚初夜だよとかいうけれど、全く覚えてない……! この人本当に旦那さま? って疑ってたら、なんか病みはじめちゃった……!

冷徹義兄の密やかな熱愛

橋本彩里(Ayari)
恋愛
十六歳の時に母が再婚しフローラは侯爵家の一員となったが、ある日、義兄のクリフォードと彼の親友の話を偶然聞いてしまう。 普段から冷徹な義兄に「いい加減我慢の限界だ」と視界に入れるのも疲れるほど嫌われていると知り、これ以上嫌われたくないと家を出ることを決意するのだが、それを知ったクリフォードの態度が急変し……。 ※王道ヒーローではありません

獣人の里の仕置き小屋

真木
恋愛
ある狼獣人の里には、仕置き小屋というところがある。 獣人は愛情深く、その執着ゆえに伴侶が逃げ出すとき、獣人の夫が伴侶に仕置きをするところだ。 今夜もまた一人、里から出ようとして仕置き小屋に連れられてきた少女がいた。 仕置き小屋にあるものを見て、彼女は……。

愛する殿下の為に身を引いたのに…なぜかヤンデレ化した殿下に囚われてしまいました

Karamimi
恋愛
公爵令嬢のレティシアは、愛する婚約者で王太子のリアムとの結婚を約1年後に控え、毎日幸せな生活を送っていた。 そんな幸せ絶頂の中、両親が馬車の事故で命を落としてしまう。大好きな両親を失い、悲しみに暮れるレティシアを心配したリアムによって、王宮で生活する事になる。 相変わらず自分を大切にしてくれるリアムによって、少しずつ元気を取り戻していくレティシア。そんな中、たまたま王宮で貴族たちが話をしているのを聞いてしまう。その内容と言うのが、そもそもリアムはレティシアの父からの結婚の申し出を断る事が出来ず、仕方なくレティシアと婚約したという事。 トンプソン公爵がいなくなった今、本来婚約する予定だったガルシア侯爵家の、ミランダとの婚約を考えていると言う事。でも心優しいリアムは、その事をレティシアに言い出せずに悩んでいると言う、レティシアにとって衝撃的な内容だった。 あまりのショックに、フラフラと歩くレティシアの目に飛び込んできたのは、楽しそうにお茶をする、リアムとミランダの姿だった。ミランダの髪を優しく撫でるリアムを見た瞬間、先ほど貴族が話していた事が本当だったと理解する。 ずっと自分を支えてくれたリアム。大好きなリアムの為、身を引く事を決意。それと同時に、国を出る準備を始めるレティシア。 そして1ヶ月後、大好きなリアムの為、自ら王宮を後にしたレティシアだったが… 追記:ヒーローが物凄く気持ち悪いです。 今更ですが、閲覧の際はご注意ください。

【完結】お世話になりました

こな
恋愛
わたしがいなくなっても、きっとあなたは気付きもしないでしょう。 ✴︎書き上げ済み。 お話が合わない場合は静かに閉じてください。

私の愛する夫たちへ

エトカ
恋愛
日高真希(ひだかまき)は、両親の墓参りの帰りに見知らぬ世界に迷い込んでしまう。そこは女児ばかりが命を落とす病が蔓延する世界だった。そのため男女の比率は崩壊し、生き残った女性たちは複数の夫を持たねばならなかった。真希は一妻多夫制度に戸惑いを隠せない。そんな彼女が男たちに愛され、幸せになっていく物語。 *Rシーンは予告なく入ります。 よろしくお願いします!

処理中です...