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第三章『焔魔仙教編』

第百四十四話 疾風迅雷【中】

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「その男を捕縛する! 無関係の者はさがるように!」

 警吏が駆けつけた。
 手足を地面に投げだし失神した窃盗犯へ縄をかけ、ふたりがかりで連行している。
 ひったくりに遭った女性は、べつの警吏から簡単な事情聴取を受けたのち、すぐに解放された。

 事後処理はすみやかにおこなわれ、よどみない人の行き来が再開する。
 日常にもどった民衆たちは、白練色の外套をはためかせて現場をあとにした少年のことなど、気にもとめないだろう。

 能ある鷹は爪を隠す。
 窃盗犯の男を一瞬で仕留めておきながら、偶然居合わせた通行人をよそおう少年の後ろすがたは、早梅はやめの脳裏に鮮烈な記憶として焼きついた。

(稲妻のようだった)

 少年の武功、そして仁徳に見惚れた、という表現がただしいだろう。
 無意識下でその背を追っていた早梅だが、仰天の光景を目にしてしまう。

「……っ」

 件の少年が、突然苦しげにからだを折ったのだ。

梅雪メイシェさん、どちらへ!?」

 じぶんを呼ぶ一心イーシンの声が、雑踏にはばまれてくぐもる。夢中で駆けだしていたのだ。
 少年は人目を避けるかのごとく、往来の隅へ身を寄せ、石造りの壁づたいにずるずるとうずくまる。そして。

「……うぇ、きもちわっる」

 と地面に言葉を吐きだした。

「あー腹立つ……こちとら船酔いがまだおさまってないんだぞ。ぎゃあぎゃあわめき散らして刺激すんなよ、あのひったくり野郎マジでふざけるんじゃねぇ……」
 
 もはや怨念の声音である。
 はたと思考と足をとめた早梅は、しばしの思案をへて、思わずえがおになってしまった。
 つまりは、だ。少年はいま現在、体調不良によってご機嫌がたいへん麗しくなく、そこで騒ぎ立てた窃盗犯が腹いせにぶっ飛ばされた、ということだろうか。
 少年は八つ当たりをしただけで、人助けをしたとは認識していないのだ。

 実力はたしかなのだろうが、それ以上にお茶目な一面があるらしい。そう解釈した早梅は、あと三歩までにせまった距離を軽快にうめた。

「君、具合が悪そうだね。立てる?」
「大丈夫です、お気になさらず──」

 条件反射だったのだろう。硬い声音で返答しかけた少年は、ゆらりと早梅のほうを振り向き、はっと息をのんだ。

「この街には来たばかり? 船酔いならいいものを持ってるよ、はい、あげる」

 早梅はふところから巾着の小物入れを取りだし、あるものを差しだす。手のひらには、懐紙のつつみがのっている。

「おじいさまが作ってくれた、船酔い用の丸薬が入ってるんだ。飴玉みたいに舐めるといいよ」

 慣れぬ船旅になると聞き、燈角とうかくをおとずれる以前に晴風チンフォンからもらったものだが、早梅は使うことがなかった。それが、こんなところで役に立つとは。

「酔ってからも効くらしいよ。おじいさまのお薬はほんとうにすごいんだから。騙されたと思って使ってみて!」
「え、ちょっと……」
「うん?」
「なっ、なっ……えぇええっ!!」
「おっとぉ!?」

 こちらまでひっくり返りそうな絶叫をひびかせる少年。
 突然あらわれて、突然得体の知れないモノを押しつけたのだ。おどろかせてしまったのだろうか。
 そう考えると、なんだか急激に申し訳なくなってきた早梅である。

「ごめん! 辛そうだったからつい……いきなり迷惑だったよね」

 笑ってごまかしながら、差しだした手を引っ込めようとしたそのとき、がしりと手首をつかまれる。

「うん? この手はなにかな?」
「……」
「えっと」
「…………」
「あのう?」
「………………」

 見られてる。超見られてる。

 こちらに向き直り、微動だにしない少年を前に、たらたらと冷や汗が止まらない。
 早梅がうずくまった少年をのぞき込んだかたちであるが、薄暗い道端であるせいか、まぶかにかぶった外套の帽子フードが影となり、やはり少年の素顔にはお目にかかれない。
 ただ、かろうじてのぞいた鼻筋はすっと通っており、髪は艶のある漆黒。どうやら美少年の香りがただよう。

「そりゃ見つからないわけだ……なんつー格好してんですか」
「えっ、なになに?」

 ぼそぼそとつぶやかれた言葉がよく聞きとれないからと、軽率に聞き返してしまったのが悪かった。

「おひさしぶりです。やっと……やっと見つけましたよ」
「えぇっとぉ……」

 たらり。ひときわ大粒の冷や汗が、こめかみをつたう。
 ここまで来れば、さすがの早梅もおかしいことに気づく。
 少年の口もとはゆるりと笑みを浮かべているが、こちらへ浴びせる言葉がなんともおだやかではないのだ。

(もしかして……結構、やばい子?)

 ぎりり、と手首をつかんできて薄ら笑いを浮かべている時点で、もしかしなくてもそうである。

「お、面白いことを言うねぇ! はじめましてのはずなんだけどなぁ!」
「──は?」
「ひぃ……」

 すこぶる低い声を頂戴した。
 なんだろう、反論できない空気をビンビンに感じる。
 そしてに、妙に既視感があるような…… 

「はじめまして? そんなわけないだろ」

 逃げ腰の早梅が一歩あとずされば、苛立ちを隠しもしない少年が、一歩をふみ込む。

「あぁでも、あなたは知らないでしょうね。俺がどんな気持ちであなたをさがしていたのか!」

 少年が言を荒げ、さらに一歩をふみだそうとした、そのとき。

「──カァ! カァア!」

 警報のごとくけたたましく響きわたる鳴き声に、はっと我に返る早梅。
 夢中でふり仰いだ上空から、一羽の烏が濡れ羽色の翼を猛然とはばたかせ、すがたをあらわした。

「っ、こいつ!」

 つむじ風、乱れ舞う羽根に相次いで見舞われた少年は、瞬間的に距離をとることを余儀なくされる。
 早梅としても予想外の展開ではあったが、じぶんを守るように立ちまわる、いや飛びまわる烏といえば、心当たりはひとつしかなかった。
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