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第三章『焔魔仙教編』

第百四十三話 疾風迅雷【前】

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 青く澄んだ空は、どこまでお見通しなのだろう。
 小川がせせらぐ川辺で、ふたり。
 これは、しばし抱擁を交わした一心イーシンが、感極まってこぼした台詞である。

「僕もう、死んでもいいです……」
「そんなこと言わないでください!?」
「無理です。大好きな梅雪メイシェさんが抱きしめてくれるだなんて、ときめきで昇天してしまいます……」
「一心さま死なないでー!」

 涙ぐんだ一心が、若草色の袖で顔を覆いながら縁起でもないことを口走っている。制止するのは当然だった。
 善良な人間なら、だれしも、だれかの死因にはなりたくないだろう。

「君のちょっとしたひと言で、一喜一憂してしまうんです。僕って、面倒くさいやつですよね」

 とりあえず、すこし背伸びをして三毛の頭をなでていると、琥珀色の瞳がさびしげに伏せられた。
 しゅんと垂れた猫耳としっぽの幻覚まで見える。

「一心さまは、ごじぶんが面倒くさいって思ってるんですか?」
「だってそうでしょう? 梅雪さんを手に入れるためならどんな手でも使おうって、六夜リゥイたちまでけしかけて、マオ族総出で囲おうとしたんですよ。そのくせ、いざ君を目の前にしたら、独り占めしたくてたまらないんです。今夜夜這いして一晩中抱いて、確実に孕まそうと思っていたくらいには。こどもの名前も男女別にしたためてあります」
「あっ、なるほどなるほど」

 良く言えば一途。悪く言えば盲目的。とくに想いを語る一心は、暴走しがちなたちであると見た。

「はーい一心さま、こっちおいでー、いいこですねー、よしよーし」
「梅雪さん……んん……」

 早梅はやめがだれを愛していてもいい。いやでも、『一番』はじぶんがいい、だれよりかまってほしい、と。
 興奮のあまり、支離滅裂になってしまっている一心のことは、手まねきをしてのどをなでてやれば、案外簡単に落ち着かせられる。
 早梅も学習したのである。

「そろそろ帰りましょうか。みんなが心配しますし」

 訳、はやく帰らないと後がこわい。だれがとは言わないが。

「……そうですね」

 ゴロゴロとのどを鳴らしてごきげんだった一心は、名残惜しげにからだをはなす。
 かと思えば、片ひざをつき、早梅の手を取るや、琥珀色の瞳で見上げてくるではないか。
 それまでとはあきらかに異なった真摯なまなざしを受け、知らず、身がまえてしまう。

「梅雪さん、またひとつ、君に謝らなければならないことがあります。申し訳ありません」
「一心さま……? 急にどうしたんですか?」

 ひとけのない河川敷に、そよ風が吹き抜ける。
 すぐに返事はなかった。

「……君のためを想っていましたが、それがただの傲慢であることを痛感しました」
「だから、さっきからなにを……」
ラン族のことです」
「狼族?」

 なぜここで、狼族が出てくるのか。脈絡もない話だ。

「先ほど、僕が狼族の族長さまにお会いしたと話しましたね。じつは、その族長さまというのが──」

 やけに神妙な一心の物言いに、固唾をのんで聴き入る早梅。

「きゃあああっ!」

 だが、言葉の続きを知ることは叶わない。
 突如として静寂を引き裂いた、悲鳴によって。

 かん高い女性の声は、街のほうから響きわたった。
 瞬時に身をひるがえす早梅。それは、一心も同様であった。

 もと来た道をたどり、細い路地を疾走する。
 ふたたび舞いもどった往来は、不自然な人の波で騒然としていた。

「一体なにが」
「あちらです、梅雪さん」

 早梅がぐるりと視線をめぐらせる間に、一心は現状を把握したようだ。
 琥珀のまなざしをたどったなら、道の中央に倒れ込んだ若い女性が、くり返し泣き叫ぶさまを認める。

「だれか捕まえてぇ! だれかぁ!」
「うるせぇなぁっ、どけどけどけぇッ!」

 花柄のつつみを脇にかかえた男が、怒鳴り散らしながら往来を爆走している。
 粗野なふるまいに、いかにも「ゴロツキです」と言わんばかりの厳つい人相だ。

「白昼堂々とまぁ……お手本のようなひったくりだな」
「か弱い女性をねらうとは、なんと卑劣でしょう」
「一心さま、燈角とうかくの保安事情はどうなっていますか?」
「優秀な警吏けいりが巡回していたかと。いくら名高い観光地でも、治安が悪ければ人はあつまりませんからね」

 そんな燈角で窃盗をおかすとは、よほど金に困っているのか、単なる愚か者か。
 放っておいても、御用になるのは時間の問題だろう。

 だがくしくも、窃盗犯の進行方向はこちらを向いている。
 ──おのが良心に恥ずべからず。
 早梅の選択肢など、はじめからあってなかったようなものだ。

(ここはひとつ、こらしめてやろうかね──)

 踏みだそうとした視界に、影が落ちた。
 早梅の行く手を、一心がさえぎったのである。

「待って」

 たったひと言。そうとだけ発した一心は、真横にぴんと張った腕で早梅を通せんぼうしている。
 彼の意識の半分は、ここにはない。彼方へそそがれた琥珀のまなざしは、すっと細められて。

 なぜ、止めるのですか。
 早梅が問うよりはやく、吹き抜ける一陣の風。

「はェッ!?」

 声をひっくり返した男が飛び上がり、足をもつれさせて、仰向けに転倒する。

「うぐっ、あがががっ……」

 後頭部をしたたかに打ちつけた男は、白目を剥いて大げさに四肢を暴れさせている。のたうち回る平らな地面には、小石ひとつ転がっていない。

「なんだ? あいつ」
「派手にすっ転んだぞ」

 一体なにが起きたのか。
 どよめく民衆たちとは裏腹に、瑠璃るりの瞳を見ひらいた早梅は、しばし絶句していた。

「……一心さま」
「えぇ、ごらんになられましたか」

 平生のほほ笑みをひそめた一心も、おどろきを禁じえないよう。
 ガクガクと手足を振戦しんせんさせ、いまだ焦点のさだまらない男。関節部の不自然な服の皺を見れば、おのずと男の容態をうかがい知ることができる。

(両肩は脱臼、両足首は骨折しているな)

 おそらく、筋肉の急激な収縮によるものだ。
 くわえて強烈な四肢の痙攣に、かすかにだが布が焼け焦げたようなにおいがあり。
 これらの状況から、導きだされる答えは。

「あの男……感電している?」

 それこそが、にわかには信じがたい事実だった。『電気』という概念を知る早梅だからこそ、いち早く察することができたのだ。

 むろん、古代中国に酷似した文明をもつ央原おうげんには、電柱だの送電線だのが存在するはずもない。
 だが早梅はた。瑠璃の瞳でしかと捉えたのだ。
 男をおそったものの正体を。

「大丈夫ですか?」
「えっ……あ、どうもありがとう」

 泡をふいて失神した男を、あっけにとられたようにながめていた女性へ、声をかける人影がある。
 腰をかがめ、地面にへたり込んだ女性へ花柄のつつみをさしだすその人影は、早梅とそう変わらない背丈のように見えた。
 高いとも低いともとれる特徴的な声音は、声変わりをしたばかりの少年のもののようだ。
 白練しろねり色の外套につつまれているせいで、その容貌をうかがうことは叶わない。
 仮にも夏場だというのにしっかりと帽子フードまでかぶって、洒落たものだ。

「なにが起きたのかしら……」
「さぁ。まぁもうじき警吏が来るでしょうから、そっちにまかせればいいと思いますよ」

 他人事のように言ってのける華奢な後ろ姿を、早梅は確信をいだいて見据えていた。

「あの少年──武功の使い手だな。それもかなりの」

 颯爽と駆け抜け、まばたきのうちに男を撃ち抜いたさまは、まさに、疾風迅雷のごとく。
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