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第三章『焔魔仙教編』

第百四十一話 野良の本懐【前】

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 大衆の目からそそくさと逃げるように、往来から脇道へ駆け込む早梅はやめ
 人ひとり通るのがやっとなか細い路地裏を、道なりに突き進む。
 やがて視界がひらけ、小川のながれる閑静な場所へとたどり着いた。

 ぐるりと見わたし、腰を落ち着けるのに手頃な段差を指さす。

一心イーシンさま、あそこでちょっと座って待っててくれませんか?」
「……」

 目の届かない遠くへ行くわけでもないのに、一心は早梅の右手をはなそうとしない。
 むしろ指を絡め、頑として拒否を示す始末。

「うぅ……いっしょに行きましょうね」

 根負けした早梅は、一心と手をつないだまま、ゆるやかな河川敷をくだる。
 浅瀬のほうへやってくると、懐から手巾ハンカチを取りだし、小川のせせらぎに浸す。
 慣れない左手でなんとか絞り、冷えた布を、泣き腫らした一心の目もとへあてがった。

「よいしょっと……冷やしとかないと、たいへんですからね」

 ぽんぽん、と目もとをぬぐわれ、ようやく早梅の行動を理解したらしい一心が、絡めた指をほどく。
 代わりに、ぎゅううっと早梅を抱きしめ、その胸に顔をうずめる。

「わっと! 一心さま、大丈夫ですか?」
「……大丈夫ではないです」

 ひとしきり本音を吐露して、すこしは落ち着いたのだろうか。声音は硬いが、ふだんの一心の口調だ。

「……お見苦しいところをお見せしました。あんな情けないところ、あなただけには、知られたくなかった」
「一心さま……」
「でも、止められなかった。あなたを愛しく想う気持ちが洪水のようにあふれて、貪欲で意地汚い僕のすがたを、知られてしまった……」

 ──一心さまは、べつに私のことなんか、好きじゃないですよね。

 無知なひと言が、一心のなにかを壊した。
 それは彼が必死に堪えてきたものであり、ひた隠しにしてきたもの。

「好きです……ほんとうに、好きなんです。あなたが……君が」

 感嘆のような告白が、胸を締めつける。
 その言葉は、一心のこころそのものだ。

「ずっと君のことを想っていた。君以外のだれかを恋人にするなんて、考えられなかった。君ひとりに執着して、君がほかの男といると妬ましくて、はらわたが煮えくり返りそうで……そう、僕は異常なんです。えがおの裏で、君を独占することばかり考えていました。いっそのこと抱いてしまえばいいとさえ」

 だれかひとりを愛する。なるほど、一心はたしかに、マオ族としては異常な存在だったろう。

「……私のなにが、一心さまにそこまでさせたのでしょうか?」

 一か八か、大きな一歩をふみ込む。
 はは、と、力ないわらいがひびいた。

「……猫族の長になったのはここ数年のことで、それまでの僕は、各地を放浪していました。荒くれ者の野良。当時の僕は一族からも嫌われており、どこにも居場所がありませんでした」
「一心さまが……?」

 とてもそうは見えない、と目を白黒させる早梅の胸もとから顔をあげ、一心は自嘲気味にわらう。

「あてもなくさまよって、そのうちに、生きる意味さえ見失ってしまいました。だれからも愛されないなら、もう終わりにしようと。その日は雪が降っていたから、ただ身をまかせていれば、楽になれる……そう思っていたんです」

 でも、ちがった。

「凍え死ぬ寸前の野良猫を、おさない女の子が……君が、ひろってくれたんです」

 そういって早梅を映しだした琥珀の瞳は、それまでのたよりないものではない、たしかな輝きがやどっている。

「問答無用でお湯をぶっかけられて、危うく溺れ死ぬかと思いました」
「それは……ゴメンナサイ」

 桃英タオインをして「おてんば」と言わしめる梅雪メイシェだ。やりかねない。

「嫌がる猫を無理やり洗おうとするし、何度引っ掻かれてもめげないし、ほんとうに……君はおせっかいで、愛情深かった……」

 訥々とつとつと語る一心の声が、ふるえる。

「君は僕が凍えないように、抱きしめてくれました。君の体温は、あたたかかった……僕がずっと欲していたものを、愛情を、君がくれたんです。だから僕が君に恋をするのは、当然だった。十一年前のことです」
「十一年前……」

 梅雪が七歳のときだ。

「待って……一目惚れって、そのときのことなんですか?」
「はい。君の愛情にふれて、イチコロでしたね」
「あの、十一年前というと、私もだいぶおさなかったのですが」
「わかっています。僕の片想いだって」
「いやいやいや……」

 それはそうなのだが、そうじゃない。

「一心さまって、もしかして……幼女趣味?」
「ちがいますね。恋をした相手が幼女だっただけです」
「おぉうふ……」

 それを幼女趣味ロリコンっていうんだよ。

 と思わなくもない早梅だったが、根性で飲み込んだ。
 これ以上掘り下げたら、困るのはじぶんなので。

「君にひとときでも愛された僕は、愚かにもまた君を求めてしまった……君にはもう、飼い猫がいたのに」
「あ……」

 紫月ズーユェのことだ。
 まだ彼が飼い猫だったころ。
 十一年前、梅雪が七歳のとき。
 そのとき、ザオ家を震撼させた出来事がある。
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