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第三章『焔魔仙教編』

第百四十話 猫の誘惑【後】

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「あぁ、そうだ。ひとつ言いわすれていたことがありました」

 打って変わったように、朗らかな声をあげる一心イーシン
 なにを、と問おうとする唇に、やわらかいものがふれる。

「……んっ!?」

 気づけば、道端の石壁に背を押しつけられていた。
 若草色の袖につつまれ、長身の男の影にすっぽりとおおわれた早梅はやめから、往来をゆく人々のすがたと喧騒が薄れてゆく。

「一心さ……っは、ふぁ、んんっ……」

 しっとりと吸いつくような口づけが、立て続けに。早梅の呼吸を乱す、深い深いものだった。

「はっ……ふふ、口紅をとりたかっただけなのですが」

 舌と舌をつなぐ銀糸がぷつりと切れ、ほのかな桃色に色づいた自身の唇を、赤い舌で舐めとる一心。
 薄化粧とはいえ、紅をさしていたことをわすれていた早梅の失態だ。それにしたって、こんな。

「おや、今度はこちらに紅がさしましたね。お可愛らしい」

 濡れそぼった早梅の唇を親指でなぞった一心が、するりと指先でくすぐるように、ほほをつつみ込む。

梅雪メイシェさん、僕も、あなたに婚姻を申し込んだ男ですよ?」

 かぷり、と口唇を食まれる。思いのほか犬歯がするどく、わずかな痛みをともなう。
 いつも慈愛に満ちたまなざしを浮かべていた琥珀の瞳が、いまはじりじりと熱を燻らせていて。

「梅雪さん……」
「っ……!」

 なおもふれようとする唇を、とっさにかわした。
 が、顔をそむけたばかりに、れろり、と耳を舐め上げられてしまい。

「ひゃあっ……!」
「ふふ、可愛いひと……こんなにいじらしいあなたを、黒皇ヘイファンは独り占めしているのですか。妬けるなぁ」

 耳朶に吹き込まれる吐息が、熱い。
 胸を押し返そうとした手首をさらわれ、正面を向かされた矢先に、こつりとひたいをくっつけられる。

「ねぇ、梅雪さん。きょうは『危険』ですね?」
「……なに、を、いって」
「僕たちマオ族の男はね、こうやって女性の体温と脈をはかって、月のものの周期を確認するんです」

 優しすぎるほどおだやかな声音が、早梅の鼓膜をふるわせる。
 間近にせまった吐息の熱が、思考をうばった。

「今夜抱いたら、赤ちゃんができてしまいますね?」

 ──決定的な言葉だった。
 一心が、欲情しているという。

「セクハラ、ですよ」
「おや、それはどういった?」
「褒め言葉ではないです」
「残念です」

 にこにこと、一心の笑みはゆるがない。
 琥珀の瞳の奥には、底知れないなにかがある。
 いっそ発狂できたなら楽だったろうに、一心の『本性』を目の当たりにした早梅は、不自然と冷静に、俯瞰的に物事を見つめることができた。

「一心さまは、べつに私のことなんか、好きじゃないですよね」
「心外ですね。なぜそう思われるのです?」
「なんていうか、『ほとばしる熱』が感じられないっていうか……フォンおじいさまじゃないですけど」

 を言語化するのはむずかしい。
 ただ、ひとつわかったことがあるとするなら。

「一心さまが私と結婚したいのは、猫族のためですよね。こどもを生んでくれる女性は、貴重だから」

 猫族は極端に女性がすくない。
 獣人に好意を示す人間はめずらしいから、早梅のような存在は、まさに猫族にとって救世主だったろう。
 それでも、早梅には早梅の感情がある。

「一心さまにも、いろんな事情があるんだと思います。でも、このままなし崩し的に結婚しても、幸せになれませんよ。私も、一心さまも」

 こころを鬼にして、告げる。

「使命感とかなしにして、私、一心さまには、こころから笑ってほしいです」

 そのために、一線は越えさせないと。
 ながいながい沈黙が、あたりをつつみ込む。

「……なにを言いだすのかと思えば……っくく」
「一心さま?」
「僕の気持ちも知らずに残酷なことだ! あはははっ!」
「いッ……!?」

 高らかと、壊れたようにわらい声をあげる一心。
 ぎりぎりと、握りしめられた手首の骨がきしむ。

「僕がこれまでどうして妻をむかえ入れなかったか、教えてあげようか」

 この男は、だれだ。
 一心の顔を声をした、まったくの別人ではないか。
 けれども混乱する早梅のために、時が止まってくれなどくれない。

「一目惚れだったと言っただろう? あれはうそでも、冗談でもない」

 あぁでも、と続ける声音は、可笑しげにふるえている。
 
は、教えていなかったね?」
「……そ、れは、どういう」
「僕と君はずっとむかしに出会ったことがある。から、僕はずっとずっと君の虜で……君に恋をしていた」

 まったく身におぼえがない。
 彼は、なにを言っている?

「けれど僕は、君を想うあまり、罪をおかした。決してゆるされぬ大罪だ。愛するひとを傷つけるなら、愛することをやめよう。君の前から消えて、孤独のまま朽ち果ててもかまわないと、それが贖罪しょくざいなのだと言い聞かせていたのに……君はまた、僕のもとにやってきた……その声を、そのえがおを向けられたら、どうにもならないじゃないか! 僕の覚悟なんて簡単に砕いて、押し込めた僕の欲を刺激して!」

 矢継ぎ早に言葉を発する声音が、ふるえる。

「『熱が感じられない』? そうだろうね。この気持ちを必死に抑えていたんだから、また君を壊してしまわないように、猫をかぶっていたんだから!」

 青年は三毛をふり乱しながら、半狂乱になって叫ぶ。

「この想いを知られてしまったなら! 僕のこころを暴いたなら! 僕のものになってよ! そばにいて、僕を愛してよ!」

 琥珀の双眸から、とめどない雫があふれている。
 それは、魂の叫びだった。

「僕は君を、君だけを、だれよりも愛すから……おねがい……っ」

 壊したくないと言いながら、骨がきしむほどに抱きすくめる彼が、なにを背負っているのかはわからないけれど。

(私が拒絶したら、彼はきっと、壊れてしまう)

 その直感が、早梅に重い口をひらかせた。

「あの……ごめんなさい。なに言ってるのか、ちょっとよくわからないです」
「っ……そん、なぁ!」
「あああ待って待って、最後まできいてください!」

 くしゃり、と悲痛に顔をゆがめられたので、大慌てで補足する。嗚咽をもらす背をさすりながら、あわあわと。

「ここまでの人生いろいろいろいろありまして、それこそショッキング……衝撃的事件の満開全席で、なんていうかその、私、記憶がトんじゃってるとこがあるんですよね」

 うそは言っていない。梅雪への憑依は衝撃的だったし、記憶の引き継ぎがうまくおこなわれなかったのも事実だし。
 つまり一心が『面識がある』と言い張っているのは、早梅もすぐに記憶を取りだせない梅雪のことなのだろう。

「一心さまが『私のこと好きじゃない』みたいなことを言ったのは、完全に失言でした。謝罪します。ほんとうにごめんなさい」

 こちらの肩へもたれるようにうなだれた一心の表情は、よく見えない。
 沈黙する彼は、なにを思っているだろう。

「一心さまのお気持ちはわかったので、すんごい伝わってきたので、えと、こんなこと言うのは申し訳ないですけど、お話がしたいです。ちゃんと整理をして、お返事がしたいです……って感じの気持ちはあるので、その」

 しばしどもる早梅だったが、腹を決め、勢いよく挙手をする。

「とりあえず、落ち着いて話ができるところに行きませんか!?」

 おわすれだろうが、ここは往来。そう、たくさんよ人が行き交う道端なのである。
「なんだなんだ?」「痴話喧嘩?」と集まりつつある野次馬。その好奇の目を一身に受け、羞恥で駆けだしたい早梅の心情など、一心は知らなかっただろう。
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