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第三章『焔魔仙教編』
第百三十四話 赤き珠玉の音色【前】
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最東端にある都、天陽のおひざもとからはじまり、央原を南北に二分する大河、志河。
陽北地域にあり、志河の分流が葉脈のごとく張りめぐらされている貴泉郡燈角は、別名『花緑青の街』とも呼ばれている。
鏡のごとく蒼天を映す、澄んだ水面。
萌える若葉、石畳の細路。
人と自然の共存する水郷が、ようやく眠りから覚めるかどうかという早朝。しゃらんと、鈴に似た音色が奏でられる。
「ご足労いただき、たいへん恐縮でございます。猫族長、一心さま」
四方を水流にかこまれた燈角へ入るには、街の観光組合が定時運行している船を使わねばならない。
が、始発の舵をとる船頭すらまだ顔をだしていない船着き場に、一心のすがたはあった。
しゃらん、しゃらん。
桟橋へ危うげなく降り立つ影がふたつ。
ひとつは、存在すら消し去るほどに息を殺している、黒髪の青年のもの。
そしてもうひとつは、未明の薄明るい景色のなか、まばゆいかがやきを放つ、月白の髪の青年のもの。
鈴のような音色は、ゆるりと笑みをたたえた白髪の青年が歩むたび、奏でられる。
その両耳を飾る柘榴石の珠玉がこすれ合い、彼という存在を主張する。
「こちらこそ。お初にお目にかかります、狼族長さま」
一心は細めた双眸でもって、にこやかに客人をむかえ入れる。
琥珀と柘榴。ほほ笑みのまなざしが交わり、ややあって、白髪の青年が紺青の大袖を合わせた。
「あらためまして。憂炎と申します。以後お見知りおきを」
* * *
数日前、伝書鷹がしらせを運んできた。
狼族の棟梁が、代替わりをしたらしい。しかもその新たな長というのが、弱冠十六の若者であると。
(狼族の男子は、十五で成人だったはず。それからわずか一年……早すぎる)
あまり馴れ合いを好まない種族のため、狼族については、ほかの『獬幇』支部もすべてを把握しきれていない面がある。
若すぎる狼族の長。その人となりがいかなるものか、一心は笑みの裏でじっと観察をする。
「街中を移動するのにも、小船を使うのですか? へぇ、ほんとうに大きな河ですねぇ。泳いでみたら気持ちいいだろうなぁ」
当の憂炎は、街の中央部へと移動する小船に揺られながら、ゆるやかにながれる景色をながめている。
見慣れない街並みに声色を半音高くするさまなどは、まだ幼さの抜けきれない、年相応の反応のように思う。
「憂炎さまは、面白いことをおっしゃいますね」
「おや? 一心さまは泳ぎたくなったり、しませんか」
「泳ぎはあまり。猫は水が苦手なので。おかげさまで操縦技術が身につきましたよ。小船でしたらだれでも自由に利用できますし、いくらでも練習できますからね」
「ははっ、そうでしたか。これは失礼しました」
とりとめのない会話。からからと笑い飛ばす憂炎を見るに、含みはないと思われる。
「そういうわけだから、船を揺らさないようにね、爽」
「かしこまりました」
舳先にたたずむ黒髪の青年は、簡潔に返答すると、身の丈をゆうに越す棹を水底へさし入れる。
追い風も相まって、ぐん、と前進するが、船体があばれることはない。
小船へ乗り換えるにあたって、「自分がやります」と申し出があったため、前方は任せたが。
「棹をさすのが、お上手ですね」
「でしょう? この子はなにをやらせても、器用にこなすんですよ」
後方で舵をとる一心をふり返り、憂炎がはにかむ。
「それに、いい風を呼んできます」
月白の髪をなびかせながら、憂炎の長い指先が、たゆたう水面をなでた。
おだやかな言動を目にするたび、一心の胸中では違和感がふくれ上がる。
──彼は異常だ、と。
根拠はいくつもあるが、あえて言及するならば、先日鷹がはこんできた彼直筆の書。
(狼族は、とくにひどい迫害を受けている。そのため学がない者がほとんどで、歴代狼族長のなかにも、字が読めない方はいらしたけれど……)
だが、憂炎は書ける。
書けるということは、読めるのだ。
そしてその筆運びは流麗で、見事なものだった。
教養のある狼族という矛盾。
彼の経歴を事細かに知る術はないが、ひとつたしかなことは。
(若くして、気性の荒い狼族の長の座についた。それは彼が、先代より『熾烈』であった証だろうね。武功の実力も、人格的にも)
殺伐とした実力主義の狼族を統べるとは、そういうことである。
(ならば、彼がいまこうして見せている無防備な表情は、まやかしか)
おそらく、杞憂ではないだろう。一心の長年の経験が、そう警告している。
陽北地域にあり、志河の分流が葉脈のごとく張りめぐらされている貴泉郡燈角は、別名『花緑青の街』とも呼ばれている。
鏡のごとく蒼天を映す、澄んだ水面。
萌える若葉、石畳の細路。
人と自然の共存する水郷が、ようやく眠りから覚めるかどうかという早朝。しゃらんと、鈴に似た音色が奏でられる。
「ご足労いただき、たいへん恐縮でございます。猫族長、一心さま」
四方を水流にかこまれた燈角へ入るには、街の観光組合が定時運行している船を使わねばならない。
が、始発の舵をとる船頭すらまだ顔をだしていない船着き場に、一心のすがたはあった。
しゃらん、しゃらん。
桟橋へ危うげなく降り立つ影がふたつ。
ひとつは、存在すら消し去るほどに息を殺している、黒髪の青年のもの。
そしてもうひとつは、未明の薄明るい景色のなか、まばゆいかがやきを放つ、月白の髪の青年のもの。
鈴のような音色は、ゆるりと笑みをたたえた白髪の青年が歩むたび、奏でられる。
その両耳を飾る柘榴石の珠玉がこすれ合い、彼という存在を主張する。
「こちらこそ。お初にお目にかかります、狼族長さま」
一心は細めた双眸でもって、にこやかに客人をむかえ入れる。
琥珀と柘榴。ほほ笑みのまなざしが交わり、ややあって、白髪の青年が紺青の大袖を合わせた。
「あらためまして。憂炎と申します。以後お見知りおきを」
* * *
数日前、伝書鷹がしらせを運んできた。
狼族の棟梁が、代替わりをしたらしい。しかもその新たな長というのが、弱冠十六の若者であると。
(狼族の男子は、十五で成人だったはず。それからわずか一年……早すぎる)
あまり馴れ合いを好まない種族のため、狼族については、ほかの『獬幇』支部もすべてを把握しきれていない面がある。
若すぎる狼族の長。その人となりがいかなるものか、一心は笑みの裏でじっと観察をする。
「街中を移動するのにも、小船を使うのですか? へぇ、ほんとうに大きな河ですねぇ。泳いでみたら気持ちいいだろうなぁ」
当の憂炎は、街の中央部へと移動する小船に揺られながら、ゆるやかにながれる景色をながめている。
見慣れない街並みに声色を半音高くするさまなどは、まだ幼さの抜けきれない、年相応の反応のように思う。
「憂炎さまは、面白いことをおっしゃいますね」
「おや? 一心さまは泳ぎたくなったり、しませんか」
「泳ぎはあまり。猫は水が苦手なので。おかげさまで操縦技術が身につきましたよ。小船でしたらだれでも自由に利用できますし、いくらでも練習できますからね」
「ははっ、そうでしたか。これは失礼しました」
とりとめのない会話。からからと笑い飛ばす憂炎を見るに、含みはないと思われる。
「そういうわけだから、船を揺らさないようにね、爽」
「かしこまりました」
舳先にたたずむ黒髪の青年は、簡潔に返答すると、身の丈をゆうに越す棹を水底へさし入れる。
追い風も相まって、ぐん、と前進するが、船体があばれることはない。
小船へ乗り換えるにあたって、「自分がやります」と申し出があったため、前方は任せたが。
「棹をさすのが、お上手ですね」
「でしょう? この子はなにをやらせても、器用にこなすんですよ」
後方で舵をとる一心をふり返り、憂炎がはにかむ。
「それに、いい風を呼んできます」
月白の髪をなびかせながら、憂炎の長い指先が、たゆたう水面をなでた。
おだやかな言動を目にするたび、一心の胸中では違和感がふくれ上がる。
──彼は異常だ、と。
根拠はいくつもあるが、あえて言及するならば、先日鷹がはこんできた彼直筆の書。
(狼族は、とくにひどい迫害を受けている。そのため学がない者がほとんどで、歴代狼族長のなかにも、字が読めない方はいらしたけれど……)
だが、憂炎は書ける。
書けるということは、読めるのだ。
そしてその筆運びは流麗で、見事なものだった。
教養のある狼族という矛盾。
彼の経歴を事細かに知る術はないが、ひとつたしかなことは。
(若くして、気性の荒い狼族の長の座についた。それは彼が、先代より『熾烈』であった証だろうね。武功の実力も、人格的にも)
殺伐とした実力主義の狼族を統べるとは、そういうことである。
(ならば、彼がいまこうして見せている無防備な表情は、まやかしか)
おそらく、杞憂ではないだろう。一心の長年の経験が、そう警告している。
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