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第三章『焔魔仙教編』

第百二十五話 都合のいい夢【後】

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梅雪メイシェさん、きのうのお話、考えてくださいましたか?」

 露骨な圧力をかけられているというのに、よりにもよってその話題をにこにこともちだす一心イーシンは、相当強靭なメンタルのもち主であることがわかる。

「光栄なお話なのですが、どなたかと結婚までは、考えられなくて」
「さしつかえなければ、理由をお訊きしても?」
「……蓮虎リェンフーの父親が救いようのないクソ野郎で、まだ傷心中といいますか」

 悔しいが、飛龍フェイロンのせいで臆病になっていることは、ほんとうだ。
 彼のこどもを生んだ。その事実は、どこへ行こうとも付きまとう。
 出産したことに後悔はない。ただ。

(私が成そうとしていることは、小蓮シャオリェンから、父親を奪うこととおなじだ)

 ──わが子を前にして、彼がなにを思うのか。
 ──早梅わたしを愛していると言うのなら、この子はどうなのか。

 殺したいほどの憎悪より、そう問いただしたい感情が先行していることに、早梅はやめは人知れず困惑していた。

「だれだって悩んで、迷うものです。僕だってそうです」

 唇を噛んだ早梅の肩を、ふわりと若草色の袖がつつみ込む。
 条件反射で抗議しかけた晴風チンフォンも、思わず口をつぐむ。
 早梅を見つめる琥珀の瞳が、あふれんばかりの慈愛に満ちていたからだ。

「悩んで悩んで、その末に決めた答えなら、それがあなたにとっての正解だと思いますよ。だから、焦らずにゆっくり考えましょう。大丈夫」
「一心さま……お優しすぎませんか?」
「下心はあります。梅雪さんのことが好きなので」
「おれもー!」
「ぼくのほうがすきだもんー!」
「わわ!」

 一心が冗談めかすと、おさない少年たちまで声をあげる。
 一心に肩を抱かれ、八藍バーラン九詩ジゥシーに左右から抱きつかれ。

「猫まみれになってしまった」
「猫は甘え上手ですからね」

「もうひとつ、いいことを教えてあげましょうか」──一心はそういって、どこかいたずらっぽくはにかむ。

「僕たちは、甘やかし上手でもあるんです。梅雪さんを歓迎する準備は万端なので、どうぞ思いっきり飛び込んできてください」

 仮にそのとおりにしたら、一心は両腕いっぱいに抱きとめてくれるだろう。そう確信できるほどの、やさしいほほ笑みだった。
「もちろん、下心はありますけど」とわざわざ付け加えられるものだから、憎めそうもない。

「……ありがとう、ございます」

 たっぷりの沈黙を経て、やっと絞りだせたのは、震える声だった。

 一心の好意には感謝している。こみ上げてくる熱いものをこらえるのに必死で、こどもたちの前で泣いていられないと、しょうもないプライドがはたらいた。ただそれだけのことだ。

 泣きそうになりながら笑う早梅を目にして、それだけでも満足と、一心は琥珀の瞳を細め、翡翠色の髪へ指先をとおす。

(……やっちまった)

 完全に発言の機会をうしなってしまった晴風は、斜め上空を見上げながら閉口した。

 人の機微にさとい晴風だからこそ、いまの一心に口で言うほどの下心がないことも、なんとなく感じ取れてしまったのだ。
 ここで無理やりあいだに入ろうものなら、『ただの空気読めない人』になってしまう。最悪「フォンおじいさまきらい!」と言われかねない。とんだ被害妄想である。

 いっそ愚図ってくれれば、早梅の意識がこちらへ向くだろうに、肝心の蓮虎はすぴすぴと眠りこけている。そうだね、寝る子は育つね。ちくしょう。

「──お嬢さま!」

 慌ただしい足音が聞こえたのは、そんなときである。
 この場に女子はひとりしかいないし、早梅を「お嬢さま」と呼ぶ人物も、ひとりしかいない。

黒皇ヘイファン……? どうしたの、そんなにあわてて」

 めったなことでは取り乱さない黒皇が、声を張り上げ、屋敷の向こうから猛然と駆けてくるさまに、早梅は少なくない困惑をおぼえる。
 それは晴風も同様だった。おなじく「なになに?」と小首をかしげる八藍や九詩たちをよそに、一心だけが、笑みをくずさなかった。

「お嬢さま……」

 あと数歩のところまでやってきた黒皇が、何事かを言いかけて、唇を噛みしめる。
 黄金の隻眼はいまにも泣きそうで、なにかたいへんなことが起きていることは明白だった。

 にわかに走る緊張。
 なにがあったの、とふたたび問うより先に、呼ばれる名前があった。

「……梅雪か?」

 刹那、頭を殴られたような衝撃を受ける。
 早梅を呼んだのは、晴風とよく似た──いや、声音。
 だけれどちがう。そうではないのだ。晴風だって、ひどくおどろいた顔をしているのだから。
 声のぬしは、晴風ではない。だが。

「梅雪、なのか?」

 黙り込んだ黒皇が、そっとその場を退く。
 そこに、いたのは。
 黒皇と同様に、息を切らせながら駆けてきたのは。

「……おとう、さま?」

 翡翠の髪に、瑠璃の瞳。晴風よりもおとなびた、まったくおなじ外見の男性が、立ちすくんでいる。
 記憶のなかの父──桃英タオインにちがいなかった。

「っ……梅雪、あぁ梅雪、よかった!」

 茫然自失におちいった早梅は、まばたきのうちに腕をさらわれる。
 気づいたときには、きつい抱擁のさなかだった。

「私の可愛い娘……無事で、よかった……っ」

 桃英が、父がここにいる。

 これが都合のいい夢なのだとしたら、あぁ。
 どうしてこんなにも、抱きしめられて、痛いのだろう。

「……幽霊……?」
「ばかなことを言わないでくれ」

 背中にまわった腕が、より強く早梅をいだく。
 押しつけられた胸もとが、トクトクと、駆け足に鼓動している。
 きぬ越しに伝わるぬくもりも、あたたかなものだった。

「お父さま……なんですか」
「……あぁ」

 感嘆するように、返事がある。

「私はここだ」

 力強い言葉に、もう、否定しようもなかった。

 ──父が目の前にいる。生きている、と。
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