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第二章『瑞花繚乱編』

第九十六話 射陽【前】

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小慧シャオフゥイ、小慧、小慧ッ!」

 もう何度くり返したかもわからない名前を、黒皇ヘイファンは叫ぶ。
 しかし目の前には蒼い空がひろがるばかりで、こだまする黒皇の声に応えるものはない。

「どこにいるんだ小慧……小慧ッ!!」

 風が、びゅうびゅうと吹きすさぶ。
 黒皇の羽ばたきに合わせ、物悲しく啼いている。

 長く、遠くは飛べない幼い弟が、『七彩雲海しちさいうんかい』に落ちたなら、どうなるのか。それがわからない黒皇ではない。

(ばかなことは考えるな、あの子は生きている……ぜったいに!)

 絶望に思考放棄してしまいそうになる自身を叱咤し、黒皇は歯を食いしばって顔を上げる。
 そして、いま一度蒼天の彼方へ飛び立とうとした、そのとき。

「兄上」

 背後から、腕をつかんだのは。


  *  *  *


 全速力で駆けた晴風チンフォン瓏池ろうちのすぐそば、金玲山こんれいざんふもとへやってきたとき、すでに黒皇のすがたはなかった。
 彩雲のごとき七彩の雲海が、ながれるのみ。

「あのやろう、置いていきやがって……くそっ!」

 軽功けいこうを使えないことはない。が、木から木へ飛び移るのとはわけがちがう。
 翼をもたない晴風が崖から身を投じるのは、己がいのちを投げうつことと同義である。

「『七彩雲海』は、天界と下界をへだてる結界……」

 出入りする者があれば、術をほどこした金王母こんおうぼにも伝わるはず。

「けど、なんの音沙汰もねぇ。ばあちゃんはなんでなにも言わねぇんだ……? まさか」

 ──黒慧ヘイフゥイは、金玲山からでていない?

「まさか、そんなことは……」

 おのれの思考に半ば動揺する晴風の後ろで、がさりと、草をかき分ける音が。

「っ、だれだ!」

 過敏になっていた晴風が振り向きざまに声を荒らげる。
 すると、一瞬の静けさをはさんで、すすり泣くような声が聞こえた。

「……フゥイですぅ……ふぇっ」
「なっ……慧坊フゥイぼう!」

 信じられない。だが見間違いではなかった。
 青藍の長袍ちょうほうをひるがえして駆け寄った晴風は、黒慧の痛々しいすがたに顔をゆがめる。
 黒のきものはところどころが破け、ひざは擦りむき、右足は裸足だ。

「みんな心配してたぞ。無事でよかった」
フォンおじいさまぁ!」

 ひとまず、大事にいたる怪我はなしと判断した晴風は、ちいさなからだを抱きしめてやる。
 わっと泣きつく黒慧。その肩が小刻みに震えているのを、瑠璃るりの瞳は見逃さなかった。

「なにがあった、慧坊」

 黒慧が怯えている。その直感は正しかったと、すぐに知ることとなる。

「これ……」

 ぐすぐすと泣きじゃくりながら、黒慧がなにかを差しだしてくる。
 見るとそれは、折れた木の枝のようだったが、黄金に光り輝いていて。

「これは……翠桃の枝じゃねぇか!」

 こくこくとうなずく黒慧が、嗚咽をこらえながら話すには、こうだ。

 宴の準備が終わり、黒俊ヘイジュンに言われて『翠桃園すいとうえん』で休憩をしていた黒慧。
 はじまるまで時間があり、かといって残る雑用を片付けている兄たちに遊んでもらうのも気が引けて、果樹園内をひとりでお散歩していたのだそう。
 そこで、気づいた。なんとなくかぞえていた翠桃の木が、一本足りないことに。

「わるいやつが、ぬすもうとしてたんです! なにかあったらすぐにいいなさいって、あにうえたちにいわれてたけど、よびにいったら、にげられちゃうから……それで、慧……」

 なんということだ。
 晴風は頭をかかえる。

(なにを根拠に、『千百十九』が桃のを指してるんだって、思い込んでた……?)

 翠桃の収穫が無事終わったからと、安心していた。そう、油断していたのだ。だが違った。

 ──千百十九本。凶事を示すという奇妙な数は、が盗まれゆく未来を指していたのだ。

「でも慧、うまくできなくて、わるいやつ、にがしちゃいました……もものきも、おれちゃって……」
「大丈夫だ。翠桃は再生力が強い。根こそぎ掘り起こしても、枝の一部を植え替えたら、またすくすくそだつようになる」
「ほんとうですか!」
「本当だよ。黒皇がそう言ってたからな」
「よかったぁ……それじゃあ、慧、よくできましたか? えらいこですか? ファンあにうえにも、ほめてもらえますか?」
「そうだな。黒皇もいっぱい褒めてくれるさ」

 ふにゃりとほほをゆるめて安心する黒慧を抱き上げて、晴風はさっと周囲の様子をうかがう。

(……慧坊の言う『悪いやつ』は、まだいるのか?)

 すがたを見ていない以上、黒慧に恐れおののいたその不届き者が尻尾を巻いて逃げだした、などと結論づけることはできない。
 警戒をゆるめてはならない。まず、金王母に報告を。そしていまだ弟をさがしている黒皇を連れもどさなければ。

「……遅かったようね」

 だが、ため息にも似た声が、晴風の思考を吹き飛ばす。
 静燕ジンイェンだ。その面持ちは暗い。そして背後には、小柄な影があり。

燕燕イェンイェン……? それから、ばあちゃんも!」
「いきさつは把握しています。その上で申しますわ。小風シャオフォン、時間がありません。とても深刻な状況です」
「どういうことだ? なにを言って……」
「こちらをごらんなさい」

 金王母は口調こそおだやかなものではあったが、普段は愛らしい容貌を厳しくひそめている。
 そのさまたるや、研ぎ澄まされた刃のごとく。

 金王母、そして静燕がその場から一歩脇へ退くと、四肢を縄でつながれたわらわのすがたがあらわれる。

「ヒヒッ、カラス、カラス! あぁ可笑しいなァ! ヒャハッ!」

 つぎはぎだらけのみずぼらしい袍。見た目はおさないこどものようであるのに、乾燥でひび割れた唇から吐きだされる声は、しゃがれた老人のものだ。

「その野郎か」
「えぇ。ここに来る途中、草影で挙動不審だったところをつかまえたの」
「木を盗んで植えたら、翠桃が成るとでも思ったのか? とんだ短絡野郎だな」

 これは仙桃なのだ。盗みをはたらくような者の手もとで、翠桃がそだつはずがない。
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