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第二章『瑞花繚乱編』
第八十六話 氷炎の恋情【中】
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最初に『お務め』を終えたときの熱気は、いまでも忘れられない。
慣れない陽功の使用により、疲労も相まって、とにかくからだが熱くて熱くて仕方がなかった。
そんな折、帰途で目にした瓏池は、まさに極楽のように思えた。
深く考えるまでもなく、とにかく熱を冷ましたい一心で、透きとおる水面へ飛び込んだ。
それが、すべてのはじまりだった。
「おや、こんなところに濡れ烏が。君はいつ見てもびしょびしょだねぇ」
はたと気がつくと、まったく身におぼえのない──いや、いまとなっては見慣れた場所にいた。
霧雨のふりしきる街で、ひとつの影が、泥濘にうずくまった黒皇へ近づく。
「ようし、今日も丸洗いの刑だ。覚悟はいいかね? わが友よ」
傘を差した人影が、細腕をのばし、黒皇を抱き上げる。
すぐに、やわらかい胸にいだかれる感触。
その女性は、夜色の髪に、瑠璃色の瞳をしていた。
彼女を目にしたとき、灰色の景色が輪郭をなし、一瞬にして色づくのだ。
彼女は袍のようなものを着ていたかと思えば、見たことのない真っ黒な衣装を身にまとっていることがある。主に、後者の頻度が高い。
腰には、剣をひと振り佩いていた。折れやしないかとはらはらする細身の刃だったが、これが恐ろしく強靭で、よく斬れた。
藁の案山子を一刀両断する彼女の稽古風景に、時を忘れて魅入るようになるのも、そう遅くはなかった。
彼女は『ツメエリ』と呼ばれる白い『シャツ』の上に、黒い上着をまとっていた。このいでたちを『グンプク』というらしい。
これが明らかに華奢な身の丈に合っていないのだが、わざとなのだそうだ。いわく「女だとばれてはいけないから」と。
言われてみれば、彼女は口調も男勝りだ。武官が女子を冷遇するのは、どこもおなじなのだろうか。
「失礼。そちらでなにをされているのでしょうか、閣下」
そんなとき、その声は聞こえた。
彼女がいる場所に、決まって現れる青年の姿がある。
「あぁ、こんなところで偶然だね。今日もいい天気で」
「雨ですけどね。本日はおめでたい席にいらっしゃるはずでは?」
「お見合いのことかい? もちろん、丁重にお断りしてきたよ。美しく教養の高い有名な華族のお嬢さんなら、私なんぞよりもっといいご縁にめぐまれるさ」
「女性が女性を娶るわけにはいかないだろう?」というのが彼女の本音だが、それを青年が知るよしもない。
「そうですね。私も、閣下の手綱をきちんとにぎれる方がふさわしいと思います」
「なぜ私は、せっかくの休日にも部下にお小言を言われているんだ? さては君、私を上官だと思っちゃいないね?」
「まさか。こころから敬愛申し上げておりますよ、雪平陸軍少佐閣下」
「感情がこもってない!」
「そんなことより、またそいつですか。落ちている烏をほいほい拾うのはやめてくださいませんか。どんな病気をもっているか、わかったもんじゃない」
彼女とおなじ黒い服をまとった若い男は、あからさまに顔をしかめる。なにも、今日がはじめてのことではない。
温厚な黒皇ではあるが、こう何度も辛辣な言葉を浴びせられては、むっとしてしまうというもの。
「口を慎みたまえ、松波君」
けれど、青年が軽口を叩けるのもそこまでだった。
「忘れたかね。彼は私の友だと言ったはずだ。わが友に対する侮辱は、私に対する侮辱だ」
そこでようやく、青年が口をつぐむ。
にわかに態度を一変させた彼女の気迫に、圧倒されたのだ。
「……閣下の御身に大事があってはならぬと思い、過ぎた真似をいたしました。申し訳ございません」
「わかってくれたら、いいんだよ」
腰を折って頭を垂れる青年に、彼女はいつもの笑みをぱっとはじけさせる。
「貴重な休日をおじゃましてしまいました。職務にもどります。失礼いたします」
「あぁ、励んでくれたまえ」
平静を装って別れを告げる青年ではあるが、黒皇はわかっていた。
彼が謝罪したのは彼女に対してであって、じぶんではないこと。
そして去り際、キッと睨みつけるようなまなざしを、彼女の知らない一瞬のうちに向けられたことも。
青年はいつもそうだ。彼女といる黒皇を、恨めしげに睨みつける。
(私より、あなたさまのほうが、いつもいっしょにおられるではありませんか)
黒皇にとっては、青年のほうがうらやましくてたまらないというのに。
「さてと、帰るとするか。泥を落としたら、そのふわっふわな羽毛で私の抱き枕になってもらうからね」
つかの間のわだかまりも、彼女が笑みを咲かせるだけで吹き飛んでしまう。
黒皇の胸は、きゅっと甘酸っぱく締めつけられた。
慣れない陽功の使用により、疲労も相まって、とにかくからだが熱くて熱くて仕方がなかった。
そんな折、帰途で目にした瓏池は、まさに極楽のように思えた。
深く考えるまでもなく、とにかく熱を冷ましたい一心で、透きとおる水面へ飛び込んだ。
それが、すべてのはじまりだった。
「おや、こんなところに濡れ烏が。君はいつ見てもびしょびしょだねぇ」
はたと気がつくと、まったく身におぼえのない──いや、いまとなっては見慣れた場所にいた。
霧雨のふりしきる街で、ひとつの影が、泥濘にうずくまった黒皇へ近づく。
「ようし、今日も丸洗いの刑だ。覚悟はいいかね? わが友よ」
傘を差した人影が、細腕をのばし、黒皇を抱き上げる。
すぐに、やわらかい胸にいだかれる感触。
その女性は、夜色の髪に、瑠璃色の瞳をしていた。
彼女を目にしたとき、灰色の景色が輪郭をなし、一瞬にして色づくのだ。
彼女は袍のようなものを着ていたかと思えば、見たことのない真っ黒な衣装を身にまとっていることがある。主に、後者の頻度が高い。
腰には、剣をひと振り佩いていた。折れやしないかとはらはらする細身の刃だったが、これが恐ろしく強靭で、よく斬れた。
藁の案山子を一刀両断する彼女の稽古風景に、時を忘れて魅入るようになるのも、そう遅くはなかった。
彼女は『ツメエリ』と呼ばれる白い『シャツ』の上に、黒い上着をまとっていた。このいでたちを『グンプク』というらしい。
これが明らかに華奢な身の丈に合っていないのだが、わざとなのだそうだ。いわく「女だとばれてはいけないから」と。
言われてみれば、彼女は口調も男勝りだ。武官が女子を冷遇するのは、どこもおなじなのだろうか。
「失礼。そちらでなにをされているのでしょうか、閣下」
そんなとき、その声は聞こえた。
彼女がいる場所に、決まって現れる青年の姿がある。
「あぁ、こんなところで偶然だね。今日もいい天気で」
「雨ですけどね。本日はおめでたい席にいらっしゃるはずでは?」
「お見合いのことかい? もちろん、丁重にお断りしてきたよ。美しく教養の高い有名な華族のお嬢さんなら、私なんぞよりもっといいご縁にめぐまれるさ」
「女性が女性を娶るわけにはいかないだろう?」というのが彼女の本音だが、それを青年が知るよしもない。
「そうですね。私も、閣下の手綱をきちんとにぎれる方がふさわしいと思います」
「なぜ私は、せっかくの休日にも部下にお小言を言われているんだ? さては君、私を上官だと思っちゃいないね?」
「まさか。こころから敬愛申し上げておりますよ、雪平陸軍少佐閣下」
「感情がこもってない!」
「そんなことより、またそいつですか。落ちている烏をほいほい拾うのはやめてくださいませんか。どんな病気をもっているか、わかったもんじゃない」
彼女とおなじ黒い服をまとった若い男は、あからさまに顔をしかめる。なにも、今日がはじめてのことではない。
温厚な黒皇ではあるが、こう何度も辛辣な言葉を浴びせられては、むっとしてしまうというもの。
「口を慎みたまえ、松波君」
けれど、青年が軽口を叩けるのもそこまでだった。
「忘れたかね。彼は私の友だと言ったはずだ。わが友に対する侮辱は、私に対する侮辱だ」
そこでようやく、青年が口をつぐむ。
にわかに態度を一変させた彼女の気迫に、圧倒されたのだ。
「……閣下の御身に大事があってはならぬと思い、過ぎた真似をいたしました。申し訳ございません」
「わかってくれたら、いいんだよ」
腰を折って頭を垂れる青年に、彼女はいつもの笑みをぱっとはじけさせる。
「貴重な休日をおじゃましてしまいました。職務にもどります。失礼いたします」
「あぁ、励んでくれたまえ」
平静を装って別れを告げる青年ではあるが、黒皇はわかっていた。
彼が謝罪したのは彼女に対してであって、じぶんではないこと。
そして去り際、キッと睨みつけるようなまなざしを、彼女の知らない一瞬のうちに向けられたことも。
青年はいつもそうだ。彼女といる黒皇を、恨めしげに睨みつける。
(私より、あなたさまのほうが、いつもいっしょにおられるではありませんか)
黒皇にとっては、青年のほうがうらやましくてたまらないというのに。
「さてと、帰るとするか。泥を落としたら、そのふわっふわな羽毛で私の抱き枕になってもらうからね」
つかの間のわだかまりも、彼女が笑みを咲かせるだけで吹き飛んでしまう。
黒皇の胸は、きゅっと甘酸っぱく締めつけられた。
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