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第二章『瑞花繚乱編』
第六十七話 満月の逢瀬【前】
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今日も今日とて、早梅の姿は瓏池のほとりにあった。
金玲山では陽が落ちない。夜が来ないため、時間の流れがひどくゆるやかに感じる。
ここへ来て何日が経ったのか。黒皇にたずねて指折り数えるのも、両手が使えなくなるからやめた。
「あの曲を──『白雪小哥妹』をね、弾けるようになりたいんだ」
しきりに、そう黒皇へ話した。
あの曲の結末は、悲劇などではない。
兄が妹を、妹が兄を想う、真実の愛の物語なのだ。
「途絶えさせてはいけない。私がつなぐ」
哀しみに暮れ、取り憑かれたようにただ琵琶を奏でていたあのころとは、違う。
しゃんと背を伸ばした後ろ姿は、もう頼りない少女のものではなかった。
白魚のごとき指が、白琵琶にぴんと張った銀色の弦を爪弾く。
一音一音が、透明な水面に波紋をひろげる。
そのたびに水底の宝玉がこすれ合い、鈴のごとく澄んだ音色で共鳴する。
早梅は知らないのだろう。
このところ、瓏池がざわめいてやまないのを。
ひびきわたる旋律が煌めく氷の結晶をまとい、この世に唯一の光景を生みだしていることを。
「ちょっと疲れちゃった。えへへ」
息の仕方も忘れて魅入る黒皇をふり返り、早梅がおどけてみせる。
「へいふぁーん」と幼子のように抱きついてくる早梅を受けとめた黒皇は、くすりと笑みをもらし、ひざへかかえ上げた。
「ねむいー……」
「拙がおりますから、おやすみくださいませ」
「んー……」
聞いているのか、いないのか。
生返事をこぼす早梅の背をなでるうちに、瑠璃の瞳がうつらうつらとしてくる。
やがて白琵琶を抱いたまま、寝息を立てはじめる早梅。
「よい夢を」
やわらかいほほに親愛の口づけを落とし、黒皇は濡れ羽の翼で、だれよりも愛しい少女を包み込んだ。
* * *
リン、リンと、鈴虫が鳴いている。
まったく見おぼえのない暗い森のなかに、早梅はたたずんでいた。
「ここは……どこだ?」
冬の終わりに金玲山へ入ってから、そう何か月も経ってはいないはず。
真白い景色しか知らない早梅は、物珍しい心境であたりを見わたす。
夏だろうか、秋だろうか。
蒸し暑さも肌寒さも感じない。
そのうちに、これは夢なのかもしれないなぁ、という結論に至った。
夢ならば、あてもなくぶらついても、黒皇のお叱りを受けることはないだろう。
生来の楽観的な思考に決着した早梅は、後ろ手に指を組み、思いつきの音階を口ずさみながら、気ままな夜の散歩へとくりだした。
「満月の夜だ……」
空をあおぎ、感嘆をもらす。
曖昧な夢の景色で、遥か頭上の白い月だけが、鮮明に網膜へ焼きつく。
心地よい鈴虫の音にいざなわれ、歩を進めていた早梅の視界が、ふいに拓ける。
はっと息をのんだ。
月の美しさに感動したばかりだというのに、瑠璃のまなざしは、いともたやすく奪われた。
蛍が飛び、小川のせせらぐ場所で、月明かりよりも白い毛並みの狼が、その身を横たえていたからだ。
とたん、脳裏によみがえる面影がある。
(いや、そんなはずは、ない……)
だってあの子は、まだまだ幼い子狼だ。
目前の白狼は、記憶のものよりひと回りは大きい。
(もう、行こう……)
ふらつくようにして、きびすを返す。
だが、注意が散漫になっていた。
小枝をふみ折る音が、静寂をゆらす。
ぴくりと、大きな白い三角の耳が反応する。
夜空を見上げていた白狼が、こちらを返り見た。
早梅をとらえたのは、熟れた柘榴のような灼眼。
はじかれたように、白狼が四つ足で立ち上がる。
どくり、と脈動する心臓。
早梅は声をもらしそうになる口もとを押さえ、身をひるがえしていた。
けれども、逃げだすことは叶わない。
金玲山では陽が落ちない。夜が来ないため、時間の流れがひどくゆるやかに感じる。
ここへ来て何日が経ったのか。黒皇にたずねて指折り数えるのも、両手が使えなくなるからやめた。
「あの曲を──『白雪小哥妹』をね、弾けるようになりたいんだ」
しきりに、そう黒皇へ話した。
あの曲の結末は、悲劇などではない。
兄が妹を、妹が兄を想う、真実の愛の物語なのだ。
「途絶えさせてはいけない。私がつなぐ」
哀しみに暮れ、取り憑かれたようにただ琵琶を奏でていたあのころとは、違う。
しゃんと背を伸ばした後ろ姿は、もう頼りない少女のものではなかった。
白魚のごとき指が、白琵琶にぴんと張った銀色の弦を爪弾く。
一音一音が、透明な水面に波紋をひろげる。
そのたびに水底の宝玉がこすれ合い、鈴のごとく澄んだ音色で共鳴する。
早梅は知らないのだろう。
このところ、瓏池がざわめいてやまないのを。
ひびきわたる旋律が煌めく氷の結晶をまとい、この世に唯一の光景を生みだしていることを。
「ちょっと疲れちゃった。えへへ」
息の仕方も忘れて魅入る黒皇をふり返り、早梅がおどけてみせる。
「へいふぁーん」と幼子のように抱きついてくる早梅を受けとめた黒皇は、くすりと笑みをもらし、ひざへかかえ上げた。
「ねむいー……」
「拙がおりますから、おやすみくださいませ」
「んー……」
聞いているのか、いないのか。
生返事をこぼす早梅の背をなでるうちに、瑠璃の瞳がうつらうつらとしてくる。
やがて白琵琶を抱いたまま、寝息を立てはじめる早梅。
「よい夢を」
やわらかいほほに親愛の口づけを落とし、黒皇は濡れ羽の翼で、だれよりも愛しい少女を包み込んだ。
* * *
リン、リンと、鈴虫が鳴いている。
まったく見おぼえのない暗い森のなかに、早梅はたたずんでいた。
「ここは……どこだ?」
冬の終わりに金玲山へ入ってから、そう何か月も経ってはいないはず。
真白い景色しか知らない早梅は、物珍しい心境であたりを見わたす。
夏だろうか、秋だろうか。
蒸し暑さも肌寒さも感じない。
そのうちに、これは夢なのかもしれないなぁ、という結論に至った。
夢ならば、あてもなくぶらついても、黒皇のお叱りを受けることはないだろう。
生来の楽観的な思考に決着した早梅は、後ろ手に指を組み、思いつきの音階を口ずさみながら、気ままな夜の散歩へとくりだした。
「満月の夜だ……」
空をあおぎ、感嘆をもらす。
曖昧な夢の景色で、遥か頭上の白い月だけが、鮮明に網膜へ焼きつく。
心地よい鈴虫の音にいざなわれ、歩を進めていた早梅の視界が、ふいに拓ける。
はっと息をのんだ。
月の美しさに感動したばかりだというのに、瑠璃のまなざしは、いともたやすく奪われた。
蛍が飛び、小川のせせらぐ場所で、月明かりよりも白い毛並みの狼が、その身を横たえていたからだ。
とたん、脳裏によみがえる面影がある。
(いや、そんなはずは、ない……)
だってあの子は、まだまだ幼い子狼だ。
目前の白狼は、記憶のものよりひと回りは大きい。
(もう、行こう……)
ふらつくようにして、きびすを返す。
だが、注意が散漫になっていた。
小枝をふみ折る音が、静寂をゆらす。
ぴくりと、大きな白い三角の耳が反応する。
夜空を見上げていた白狼が、こちらを返り見た。
早梅をとらえたのは、熟れた柘榴のような灼眼。
はじかれたように、白狼が四つ足で立ち上がる。
どくり、と脈動する心臓。
早梅は声をもらしそうになる口もとを押さえ、身をひるがえしていた。
けれども、逃げだすことは叶わない。
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