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第二章『瑞花繚乱編』

第六十話 蒼天をつらぬく【後】

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梅雪メイシェお嬢さま、こちらでお待ちくださいませ」

 言い終わらぬうちに、ぐっと袖を引かれる。

「……どこに行くの?」

 むろん、早梅はやめだった。黒皇ヘイファンの袖を両手でつかみ、地面とも虚空ともつかぬ場所を見つめている。
 先ほどの笑顔を、一瞬にしてはがれ落ちさせて。
 これに黒皇は、閉口する。

 早梅は気丈にふるまっているけれども、心身ともに限界がおとずれているだろうことは、重々承知している。
 最愛の紫月ズーユェを亡くした早梅が、「大丈夫」なはずがないのだ。

 深谷しんこくの街を脱出してから十五日が経とうとしているが、この間早梅は、食事らしい食事をほとんど口にしていない。
 夜も独りきりになることを怖がり、黒皇の腕に抱かれていても、満足に眠れているとは言いがたいのが現状だ。

 そうなることがわかりきっていたからこそ、俗世をはなれ、ここへ連れてきたのだ。
 敬愛する彼女が、何者にも脅かされることのないように。
 だが、浅はかな考えだった。

「……せつは梅雪お嬢さまのものです。どこにも行きません」

 この方を、独りきりにしてはいけない。
 たとえ木の実をさがす、ひとときの間であっても。

 黒皇はひざをつき、うなだれた早梅のちいさな背へ両腕を回す。
 すすり泣く声は、袖のなかへ仕舞い込んでしまおう。

「──んっ!?」

 消え入りそうな静寂を、ふいの一声がゆるがす。
 とっさに早梅を胸へかばった黒皇だが、すぐに杞憂であることに思い至る。
 なぜなら、この金玲山こんれいざんに、不審な者などいるはずがないのだから。

「そこにいるのは、もしかしなくても黒皇か?」

 若い男の声だ。

「おまえなぁ! 連絡のひとつも寄こさねぇで、どこ行ってたんだよ! かと思ったら急に帰ってきやがって!」

 ざっ、ざっと、あわただしく草をふみしめる足音がある。
 黒皇の袖から顔をだした早梅は、次の瞬間、絶句する。
 大股で歩み寄ってきた『彼』の容貌を、目の当たりにして。

「……翡翠の髪に、瑠璃の、瞳……」
「んんっ!? うわぁ、びっくりしたぁ! 女の子! あの朴念仁ぼくねんじんの黒皇が、女の子連れてきたぁ!」

 なにやら叫ばれているが、早梅としてもそれどころではない。
 なんせ突如あらわれた青年に、見おぼえがありすぎるのだ。

「おとう、さま……お父さまぁっ!」
「へっ? んぇえええっ!?」

 もうたまらなかった。
 黒皇の腕を抜けだした早梅は、目前の青年へわっと抱きつく。

「お父さまっ、お父さまっ!」
「ちょっ、まてまてまてい、お嬢さん!」
「お嬢さんじゃありません、梅雪です!」
「そうかい、じゃあ梅雪ちゃん! ひとまずはなれてくれんかね! おらぁ君みたいに別嬪な娘さんを生んだおぼえはないよ!」
「そんなぁっ、うぅっ、ふぇええ!」
「あばばば……やべぇ泣かせちまった、よくわからんけどごめーーん!!」

 もう大号泣である。
 そんな早梅が引き剥がせないことを早々に悟った青年は、よく通る声で謝罪をひびかせながら、嗚咽にふるえる背を撫でくり回していた。

「どうした? 腹でも空いてんのかい? そうだ俺、茘枝ライチもってるよ。あまくてうんまいぞ~、これ食って元気だせ、なっ?」

 言うやいなや、丁寧に皮を剥かれた茘枝を唇へ押しつけられる。
 ぱくり、と反射的に口にしてしまった早梅は、もそもそと咀嚼をする。
 半透明の白い果肉はやわらかく、甘みとほどよい酸味をあふれさせて、つるりと咽頭をすべり落ちた。
 空っぽなからだから、疲労が一瞬にして消えうせる。

「おいしい……」
「だろー? やっぱな、疲れてるときは甘いもんが一番なんだよ。どうだい、落ち着いたかい?」
「はい……」

 我に返ると、とたんに居たたまれなくなる。

「ごめんなさい……父と、あまりに似ていたものですから」

 青年は、桃英タオインと瓜ふたつだったのだ。
 だが桃英は、どちらかといえばおだやかな気質で、口数の多いほうではない。
 そして青年は、よくよく見れば、桃英よりも早梅と近い年ごろのように思う。

(言葉は、百杜はくと訛りだけど……)

 それが余計に、早梅を混乱させるのだ。

「いいっていいって、気にすんな」

 桃英とおなじ面影で、おなじ百杜の言葉で、明朗にわらう十七、八歳ほどの若者。
 別人なのだと理解し、ふっとさびしく感じるのは、こちらの身勝手だ。

「おひさしゅうございます。青風真君せいふうしんくん

 だが続く黒皇の口上は、早梅へ衝撃をもたらすのに充分なものだった。

「しんくん……ちょっと、待って!」

『真君』──それは、苦行をたえた末に人としての境地に達し、不老不死を得た者にのみ与えられる呼称。つまり。

「仙人の方、ですか!?」
「俺はそういうの、堅っ苦しくてあんま好きじゃねぇんだけどなぁ……」

 言外の肯定だった。
 ぽりぽりと指でほほを掻いた桃英そっくりな青年は、さらなる衝撃でもって早梅を打ちのめす。

「気軽にフォンって呼んでくれ。むかしは晴風チンフォンってのが、俺の名前だったからな」

 ──ほほを引っぱたかれた心地というのは、このことを言うのだろう。
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