57 / 261
第一章『忍び寄る影編』
第五十三話 風にさらわれる【中】
しおりを挟む
「早梅雪よ。私を『悪なる者』だと称すが、それならば私のこころを掻き乱すそなたは、『絶世の悪女』とでも呼ぼうか?」
「……ロリコンかよ」
「それは褒め言葉か」
「最上級の罵詈雑言ですわ、くそ野郎」
仮にも三十路すぎの子持ちが。
顔がよければなにをしても許されると?
そんなのは少女漫画のなかだけ。
犯罪は犯罪だ。
「女に暴言を吐かれたのも、はじめてだ」
「そりゃそうでしょうよ」
早梅のような命知らずでなければ、だれだってわが身は惜しいだろう。
言いたい放題に煽りまくったのだ。飛龍の機嫌をそこねることくらい、覚悟はしていたが。
「だがその鈴の声音は、嫌いではない」
もっとも恐れていたことが、現実となってしまった。
「んぅうっ!」
懲りずに投げつけようとしていた悪態ごと、呼吸を奪われたのだ。
反射的に歯を立て、がり、とにぶい音の直後、ほろ苦い鉄錆の味が口内へひろがる。
「……はっ」
やっとの思いで胸を押し返した早梅を、冷めた血色の双眸が見下ろす。
「私から視線をそらすことは、まかりならんぞ」
冷えきっているのに、その奥には底知れない熱情が燻っているような、低いひびきをもった声音だった。
「いやっ……ふぁっ、んんっ!」
無情にも押しつけられる唇。
ぬるりと入り込んできたものが、血の絡んだ唾液をかき混ぜ、口内を蹂躙する。
「……女に口づけをしたのも、はじめてだ」
くつくつと、喉の奥を鳴らすような笑い声が聞こえる。
「早家の血がなじむと甘く感じるという話は、本当のようだな?」
……そんな、まさか。
「どうやら私とそなたは、たいそう相性がいいらしい」
そんなことが、あっていいものか。
「ふ……そう怖がらずとも、そなたのことはもう殺すまい。そなたの血がなければ、私は生きてゆけぬからだとなってしまったのだからな」
目をつむり、耳をふさいでしまいたい。
しかし手足は動かず、呆然と固まる早梅をあざ笑うかのごとく、耳朶へ熱い吐息が吹き込まれる。
「あぁ……こんなに食指が動くのもはじめてだ。はやく連れ帰ってしまおう」
これが『愛』なのか、わからない。
即座に否定できなくなっていることに、早梅はひどく混乱していた。
「勝負をしよう、早梅雪。そなたが私を殺すのが先か、私がその憎悪を『愛』で塗りつぶすのが先か」
「睦言のようなことをおっしゃって……飽きたら、殺すのでしょう」
「殺すのは簡単だが、そんなことはあり得ないと断言できるな。不思議なことに」
早梅へさらさらと言葉を返す唇が、めじりを、ほほを、口の端をくすぐる。
「なぜなら私は、そなたを孕ませてやりたいとすら思っているのだからな。女を抱きたいと思うのもはじめてだ。まったく、おどろかせてくれる」
ぞわり、と肌が粟立つ。
美しすぎる笑みに、嫌悪感しかない。
死とは違う恐怖にさらされ、全身を掻きむしりたくなるような、えも言われぬ感覚にみまわれる。
(……『氷毒』を克服した? 『千年翠玉』の力もない、ただの人間の飛龍が?)
あり得ない。
だが、それでは飛龍がいまだ死に至らぬことの説明がつかない。
もし、それが事実だとするなら……
勝てるのか、飛龍に。
「急におとなしくなったな。疲れたか? どれ、私が運んでやろう」
両足が地面をはなれる。
姫のごとく早梅を抱き上げた飛龍は、やはり笑っていた。
「梅雪」
「っ……!」
名を呼ばれた。それだけでうろたえてしまう。
そんな早梅に気づいていないのか。
いや、気づいているからこそか、飛龍はさらに笑みを深める。
「今宵は月が美しいな、梅雪」
だめだ、聞くな。
こころを動かされるな。
この男は憎むべき仇なのだ。
感情を凍らせろ。
(あぁ……でも、『愛される』のも悪くないかもしれない)
もうひとつ、思いだしたのだ。
『氷花君子伝』の梅雪が、どうやって飛龍を毒殺するに至ったのか。
その方法を、思いだした。
後宮で地位を築いた梅雪は閨に呼ばれ──情事のさなかに、おのれの血を大量にまぜた酒を、飛龍に口移しで飲ませていたのだ。
復讐のために、純潔を捧げる。
まさに、執念。
(梅雪だってやり遂げた。私にもできないはずはない)
否、これは早梅にしかできないことだ。
どうせこの手は血に濡れている。
いまさらうしなうものは、ないだろう。
「……陛下」
月を背に闇夜を歩んでいた飛龍が、ふと立ち止まる。
「殺したいほど、あいしています」
氷の笑みを浮かべ、ほほを包み込む。
迷いが生まれる前に、唇を押しつけた。
紫月が相手だと思えば、いくらか楽になれた。
「あぁ。その憎悪ごと愛している、梅雪」
顔を胸へ押しつけられるままに、ほほをすり寄せる。
この世でもっとも憎い男に抱きしめられながら、早梅は薄く笑っていた。
こころをわたすくらいなら、壊してしまおう……と。
飛龍と密着してなお凍える早梅のそばで、ヒュルリと、風が啼く。
悲鳴のようにかん高い風音が、谷間にこだました。
「風が強いな──」
何気なく独りごちた飛龍であったが、はっと息を飲む。
がしかし、時すでに遅し。
身をひるがえしたその先で、突如巻き起こった風が、竜巻となって牙をむいたのだ。
女子供ならたちまちに吹き飛ばされてしまうほどの豪風。
平生であればお得意の手掌術で内功をぶつけ、相殺する飛龍であるが、両の腕で早梅を抱いているため、それが叶わない。
そしてこの場は崖にかこまれた高地。
退避できる場所もない。
「……ロリコンかよ」
「それは褒め言葉か」
「最上級の罵詈雑言ですわ、くそ野郎」
仮にも三十路すぎの子持ちが。
顔がよければなにをしても許されると?
そんなのは少女漫画のなかだけ。
犯罪は犯罪だ。
「女に暴言を吐かれたのも、はじめてだ」
「そりゃそうでしょうよ」
早梅のような命知らずでなければ、だれだってわが身は惜しいだろう。
言いたい放題に煽りまくったのだ。飛龍の機嫌をそこねることくらい、覚悟はしていたが。
「だがその鈴の声音は、嫌いではない」
もっとも恐れていたことが、現実となってしまった。
「んぅうっ!」
懲りずに投げつけようとしていた悪態ごと、呼吸を奪われたのだ。
反射的に歯を立て、がり、とにぶい音の直後、ほろ苦い鉄錆の味が口内へひろがる。
「……はっ」
やっとの思いで胸を押し返した早梅を、冷めた血色の双眸が見下ろす。
「私から視線をそらすことは、まかりならんぞ」
冷えきっているのに、その奥には底知れない熱情が燻っているような、低いひびきをもった声音だった。
「いやっ……ふぁっ、んんっ!」
無情にも押しつけられる唇。
ぬるりと入り込んできたものが、血の絡んだ唾液をかき混ぜ、口内を蹂躙する。
「……女に口づけをしたのも、はじめてだ」
くつくつと、喉の奥を鳴らすような笑い声が聞こえる。
「早家の血がなじむと甘く感じるという話は、本当のようだな?」
……そんな、まさか。
「どうやら私とそなたは、たいそう相性がいいらしい」
そんなことが、あっていいものか。
「ふ……そう怖がらずとも、そなたのことはもう殺すまい。そなたの血がなければ、私は生きてゆけぬからだとなってしまったのだからな」
目をつむり、耳をふさいでしまいたい。
しかし手足は動かず、呆然と固まる早梅をあざ笑うかのごとく、耳朶へ熱い吐息が吹き込まれる。
「あぁ……こんなに食指が動くのもはじめてだ。はやく連れ帰ってしまおう」
これが『愛』なのか、わからない。
即座に否定できなくなっていることに、早梅はひどく混乱していた。
「勝負をしよう、早梅雪。そなたが私を殺すのが先か、私がその憎悪を『愛』で塗りつぶすのが先か」
「睦言のようなことをおっしゃって……飽きたら、殺すのでしょう」
「殺すのは簡単だが、そんなことはあり得ないと断言できるな。不思議なことに」
早梅へさらさらと言葉を返す唇が、めじりを、ほほを、口の端をくすぐる。
「なぜなら私は、そなたを孕ませてやりたいとすら思っているのだからな。女を抱きたいと思うのもはじめてだ。まったく、おどろかせてくれる」
ぞわり、と肌が粟立つ。
美しすぎる笑みに、嫌悪感しかない。
死とは違う恐怖にさらされ、全身を掻きむしりたくなるような、えも言われぬ感覚にみまわれる。
(……『氷毒』を克服した? 『千年翠玉』の力もない、ただの人間の飛龍が?)
あり得ない。
だが、それでは飛龍がいまだ死に至らぬことの説明がつかない。
もし、それが事実だとするなら……
勝てるのか、飛龍に。
「急におとなしくなったな。疲れたか? どれ、私が運んでやろう」
両足が地面をはなれる。
姫のごとく早梅を抱き上げた飛龍は、やはり笑っていた。
「梅雪」
「っ……!」
名を呼ばれた。それだけでうろたえてしまう。
そんな早梅に気づいていないのか。
いや、気づいているからこそか、飛龍はさらに笑みを深める。
「今宵は月が美しいな、梅雪」
だめだ、聞くな。
こころを動かされるな。
この男は憎むべき仇なのだ。
感情を凍らせろ。
(あぁ……でも、『愛される』のも悪くないかもしれない)
もうひとつ、思いだしたのだ。
『氷花君子伝』の梅雪が、どうやって飛龍を毒殺するに至ったのか。
その方法を、思いだした。
後宮で地位を築いた梅雪は閨に呼ばれ──情事のさなかに、おのれの血を大量にまぜた酒を、飛龍に口移しで飲ませていたのだ。
復讐のために、純潔を捧げる。
まさに、執念。
(梅雪だってやり遂げた。私にもできないはずはない)
否、これは早梅にしかできないことだ。
どうせこの手は血に濡れている。
いまさらうしなうものは、ないだろう。
「……陛下」
月を背に闇夜を歩んでいた飛龍が、ふと立ち止まる。
「殺したいほど、あいしています」
氷の笑みを浮かべ、ほほを包み込む。
迷いが生まれる前に、唇を押しつけた。
紫月が相手だと思えば、いくらか楽になれた。
「あぁ。その憎悪ごと愛している、梅雪」
顔を胸へ押しつけられるままに、ほほをすり寄せる。
この世でもっとも憎い男に抱きしめられながら、早梅は薄く笑っていた。
こころをわたすくらいなら、壊してしまおう……と。
飛龍と密着してなお凍える早梅のそばで、ヒュルリと、風が啼く。
悲鳴のようにかん高い風音が、谷間にこだました。
「風が強いな──」
何気なく独りごちた飛龍であったが、はっと息を飲む。
がしかし、時すでに遅し。
身をひるがえしたその先で、突如巻き起こった風が、竜巻となって牙をむいたのだ。
女子供ならたちまちに吹き飛ばされてしまうほどの豪風。
平生であればお得意の手掌術で内功をぶつけ、相殺する飛龍であるが、両の腕で早梅を抱いているため、それが叶わない。
そしてこの場は崖にかこまれた高地。
退避できる場所もない。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
60
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる