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第一章『忍び寄る影編』
第五十一話 悪なる者【後】
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「クラマくん……」
君が愛してくれたであろう『ハヤメ』は、今ここで死ぬ。
じっと息を殺し、意識をこらす。
そうして早梅は、ゆっくりと振り返るのだ。
「……早梅雪」
なにもかもを見透かした偃月が、自分の背後をとった男を照らす。
黒ずくめの装束。しかし顔をかくしていた覆面は取り払われ、血のような緋色の瞳と、漆黒の髪があらわになっている。
年のころは三十前後。
整っていると言われる部類の顔立ちだろう。
おのずと、笑みがもれた。
さぁ、お待ちかねだ。
「今宵は月がきれいですね」
高い鈴の音が転がる。
美しいばかりの、冷えきった音色だ。
「もっとも、あなたさまには、風情を感じるこころ自体がないのでしょうが」
「……貴様」
あぁ、可笑しい。可笑しい。
「御前へお目にかかれまして光栄ですわ──皇帝陛下」
こんな馬鹿げたことこそ、滑稽と称するべきだろう。
* * *
紫月との過去を思いだした。
自分が雪平早梅という人間だったころの記憶を思いだした。
そして最後に思いだしたのは、『氷花君子伝』という小説のストーリー。
梅雪が後宮入りを強く望んだ、本当の理由。
これからの未来のことだ。
原作でも、早一族は何者かによってみな殺しにされている。
その詳細が、作中で語られることはない。
だが、知っている。
あの日、両親が殺された夜のことを、梅雪ははっきりとおぼえていた。
おびただしい血を吸ってきたような、緋色の瞳。
畏怖の念すらいだかせるその色彩は、ある血筋の者が受け継いでいる。
それこそが、皇室。そのなかでも嫡流の者。
皇室秘伝の『滅砕掌』によって、桃英、桜雨、そして紫月を殺害し、早一族を滅ぼしたのは。
(──現皇帝、羅飛龍)
名君子の皮をかぶり、獣人への迫害を助長させた悪役のひとり。
憂炎が人間たちへ激しい憎悪をいだくきっかけを生みだす、諸悪の根源だ。
梅雪が後宮入りを果たし、その美貌と教養の高さでまたたく間に地位を確立したころ、ねらったかのように崩御する運命にある。
当然だ。美しい姫の毒牙にかかってしまうのだから。
そう、梅雪が後宮に入った本来の目的は、一族の仇である飛龍もろとも、皇家の血を引くすべての者を『氷毒』によって暗殺することだったのだ。
だが梅雪は、飛龍の息子であり、この物語の主人公でもある皇子を愛してしまった。
迷いの生じた梅雪を、人間、そして皇室をただひたすらに憎む憂炎が利用する。
『氷花君子伝』は、そんな悲劇のストーリーだ。
「『千年翠玉』をわたせ」
「あれは口伝によって継承されるものです。製造法を知るわが両親はあなたさまが殺し、最後のひとつぶもわたくしが口にしてしまいました」
「では貴様を殺し、その血肉を食らってやろう!」
狂っている。まさに獣だ。
だが、刺客として寄こした男たちの首が飛ぼうが丸焦げになろうがまったく意に介さなかった飛龍が、こうも取り乱している理由に、気づかない早梅ではない。
「ご冗談を。わたくしを殺すより、陛下が果ててしまうほうが早いのではなくて?」
飛龍の右肩ににじむ赤黒いしみ。
黒装束の破れ方、傷口からして、紫月の鋼弦を食らったのだと容易に想像がつく。
紫月は血功の使い手。
くわえて彼は、桜雨から学んだ毒や医学の知識が豊富だ。
その血液は、時にどんな傷や病も治す霊薬となり、時にだれであろうと確実に息の根をとめる猛毒となる。
紫月の『氷毒』は、梅雪のそれをしのぐ。
あとは、言うまでもないだろう。
梅雪の血肉を食らおうなどと戯言をほざいているのも、早梅の体内にある『千年翠玉』を制することができると、愚かにも慢心しているためだ。
──わらわせてくれる。
「あなたは私の愛する人を殺し、傷つけた。たくさん……たくさん」
早梅の顔からは、一切の笑みがはがれ落ちる。
「なぜ紫月が、明林が……お父さまやお母さまが殺されなければいけなかったのか、なぜ憂炎が傷つけられなければいけなかったのか!」
早家の使用人。深谷の街の人々。獣人たち。
早梅が知らないだけで、もっと多くの尊いいのちが奪われてきたのだろう。
たかだかひとりの人間の、くだらない欲望のために。
「あなたは『悪なる者』だ。決して許さない!」
「ならば止めてみるがいい! この私を、殺してみろ!!」
美しい月夜を脅かす、血色の眼光がまたたいた。
君が愛してくれたであろう『ハヤメ』は、今ここで死ぬ。
じっと息を殺し、意識をこらす。
そうして早梅は、ゆっくりと振り返るのだ。
「……早梅雪」
なにもかもを見透かした偃月が、自分の背後をとった男を照らす。
黒ずくめの装束。しかし顔をかくしていた覆面は取り払われ、血のような緋色の瞳と、漆黒の髪があらわになっている。
年のころは三十前後。
整っていると言われる部類の顔立ちだろう。
おのずと、笑みがもれた。
さぁ、お待ちかねだ。
「今宵は月がきれいですね」
高い鈴の音が転がる。
美しいばかりの、冷えきった音色だ。
「もっとも、あなたさまには、風情を感じるこころ自体がないのでしょうが」
「……貴様」
あぁ、可笑しい。可笑しい。
「御前へお目にかかれまして光栄ですわ──皇帝陛下」
こんな馬鹿げたことこそ、滑稽と称するべきだろう。
* * *
紫月との過去を思いだした。
自分が雪平早梅という人間だったころの記憶を思いだした。
そして最後に思いだしたのは、『氷花君子伝』という小説のストーリー。
梅雪が後宮入りを強く望んだ、本当の理由。
これからの未来のことだ。
原作でも、早一族は何者かによってみな殺しにされている。
その詳細が、作中で語られることはない。
だが、知っている。
あの日、両親が殺された夜のことを、梅雪ははっきりとおぼえていた。
おびただしい血を吸ってきたような、緋色の瞳。
畏怖の念すらいだかせるその色彩は、ある血筋の者が受け継いでいる。
それこそが、皇室。そのなかでも嫡流の者。
皇室秘伝の『滅砕掌』によって、桃英、桜雨、そして紫月を殺害し、早一族を滅ぼしたのは。
(──現皇帝、羅飛龍)
名君子の皮をかぶり、獣人への迫害を助長させた悪役のひとり。
憂炎が人間たちへ激しい憎悪をいだくきっかけを生みだす、諸悪の根源だ。
梅雪が後宮入りを果たし、その美貌と教養の高さでまたたく間に地位を確立したころ、ねらったかのように崩御する運命にある。
当然だ。美しい姫の毒牙にかかってしまうのだから。
そう、梅雪が後宮に入った本来の目的は、一族の仇である飛龍もろとも、皇家の血を引くすべての者を『氷毒』によって暗殺することだったのだ。
だが梅雪は、飛龍の息子であり、この物語の主人公でもある皇子を愛してしまった。
迷いの生じた梅雪を、人間、そして皇室をただひたすらに憎む憂炎が利用する。
『氷花君子伝』は、そんな悲劇のストーリーだ。
「『千年翠玉』をわたせ」
「あれは口伝によって継承されるものです。製造法を知るわが両親はあなたさまが殺し、最後のひとつぶもわたくしが口にしてしまいました」
「では貴様を殺し、その血肉を食らってやろう!」
狂っている。まさに獣だ。
だが、刺客として寄こした男たちの首が飛ぼうが丸焦げになろうがまったく意に介さなかった飛龍が、こうも取り乱している理由に、気づかない早梅ではない。
「ご冗談を。わたくしを殺すより、陛下が果ててしまうほうが早いのではなくて?」
飛龍の右肩ににじむ赤黒いしみ。
黒装束の破れ方、傷口からして、紫月の鋼弦を食らったのだと容易に想像がつく。
紫月は血功の使い手。
くわえて彼は、桜雨から学んだ毒や医学の知識が豊富だ。
その血液は、時にどんな傷や病も治す霊薬となり、時にだれであろうと確実に息の根をとめる猛毒となる。
紫月の『氷毒』は、梅雪のそれをしのぐ。
あとは、言うまでもないだろう。
梅雪の血肉を食らおうなどと戯言をほざいているのも、早梅の体内にある『千年翠玉』を制することができると、愚かにも慢心しているためだ。
──わらわせてくれる。
「あなたは私の愛する人を殺し、傷つけた。たくさん……たくさん」
早梅の顔からは、一切の笑みがはがれ落ちる。
「なぜ紫月が、明林が……お父さまやお母さまが殺されなければいけなかったのか、なぜ憂炎が傷つけられなければいけなかったのか!」
早家の使用人。深谷の街の人々。獣人たち。
早梅が知らないだけで、もっと多くの尊いいのちが奪われてきたのだろう。
たかだかひとりの人間の、くだらない欲望のために。
「あなたは『悪なる者』だ。決して許さない!」
「ならば止めてみるがいい! この私を、殺してみろ!!」
美しい月夜を脅かす、血色の眼光がまたたいた。
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