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第一章『忍び寄る影編』

第三十九話 神の子【前】

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 曇天の寒空に馬蹄ばていがとどろく。
 長弓を背負った紫月ズーユェが狩りから帰ると、ザオ家の邸宅は騒然としていた。
 ひとまず馬をもどさねば、と石畳を走れば、ちょうど厩舎きゅうしゃに人がたかっているではないか。

「何事だ!」

 高い男声とも低い女声ともとれる一声がひびき、木造の小屋の入り口を埋めつくしていた人の波が左右に割れる。
 馬上から飛びおりた紫月は、後頭でひとつに束ねたすず色の髪をたなびかせ、疾走した。
 軒下に、片ひざをついた桃英タオインの姿がある。

「紫月か」
「父上! これは一体……なっ」

 瑠璃るりのまなざしの先には、壁にもたれた人影が。五十すぎの、中肉中背の男だった。
 紫月の記憶によれば、馬の世話をしていた使用人のひとりだったはず。
 うなだれたその男のあまりに蒼白な顔色を目にすれば、多くを問うまでもない。
 桃英は男の首筋に当てた指をはなすと、静かに腰を上げる。

「遺族に弔いの銀子ぎんすを」
「はっ、かしこまりました!」
「おい、人を呼んでこい、男手が必要だ!」

 皮肉なことだ。一斉に散った男衆がどうするのか、容易に想像できてしまうとは。

「また急病ですって」
「今月に入って、ふたりめよ……」

 キッと藍玉らんぎょく一瞥いちべつを受けて、声をひそめていた女中たちがあわてて裾をひらめかせ、持ち場にもどる。

「不幸事がかさなれば、不安に思うこともあろう。あまり責めてやるな」

 この非現実のなかにあって、桃英の声音だけが変わらずにおだやかだ。
 紫月はぐっと口をつぐみ、深い深い息を吐きだした。

梅雪メイシェはどこに? あいつなら真っ先に飛んできそうなものですが」
へやに戻っている。さすがに、こたえたようだ」

 はたと呼吸を忘れた紫月は、一変。
 桃英の言わんとすることを理解し、瞬時に身をひるがえしたのだった。


  *  *  *


 今回急死した使用人、亞夢ヤーモンを発見したのは、ほかでもない梅雪だったらしい。
 寝台でひざをかかえていた梅雪は、足音に顔を上げた。

「おかえりなさい、紫月兄さま」

 そう言って笑おうとするので、紫月は先手をとってどかりと隣を陣取り、ちいさな肩を抱きよせた。

「今年はひときわ寒いからな、たまたまだ」

 寒さにより血管が収縮すると、心臓に負担がかかりやすくなる。そのため冬季は急病人が増える。
 それは百杜はくとの地で医療をになう早一族ならば、よく知っていることだ。
 立て続いたその急病人が、たまたま早家の使用人だったというだけ。

「亞夢はいま丁重に埋葬している。俺たちは、できることをやっているさ」
「そう、だよね」

 鈴の声音がふるえる。
 紫月はそっと、瑠璃の瞳ににじんだ朝露を唇で掬った。

(もっと、泣き叫べばいいのに)

 まだとおのこどもらしく、女中たちよりもよっぽど不安がって、しがみついてくればいい。
 けれど梅雪はどこかで一線を引いていて、こころの隙のすべてをさらけだしてはくれない。
 それがたまらなく、もどかしい。

(この身もこころも、全部おまえのものなのに)

 桃英に剣や弓を習い、桜雨ヨウユイからは薬草の扱い方や書を学んでいる。
 琵琶を弾き、髪や肌を美しくみがくことも忘れない。
 だがどれだけ価値のある存在になっても、この瑠璃の瞳に映らなければ意味などないのだ。

「梅雪、さっきでかいきじを狩ってきたから、今日は雉鍋だぞ」

 ──おまえはどこを見ているんだ?
 ──俺を見てくれ!

 叫んでしまうことは簡単だけれど。
 あまりに、みっともないだろう。

「夕餉までなにをしようか。琵琶でも弾くか」

 だから紫月は、猫をかぶる。
 じりじりと燻るほの暗い感情を胸の奥底にひた隠して、よい兄を演じる。

「琵琶のお稽古じゃなくて、お人形あそびがしたいです」

 そんなときに返ってきた言葉は、すこしばかり意外なもので。

 梅雪のいうお人形とは、艷やかな黒髪を結い上げ、色とりどりの衣裳をまとった、華やかな宮女の人形のことである。
 この『お人形遊び』の相手をするとき、紫月はいつも複雑な心境だった。

 相手をするといっても、紫月はただ見ているだけ。
 人形が一体しかないので、当然といえば当然なのだが……問題は、梅雪が動かす『宮女』の物語にある。

「あぁ、今日も陛下がきてくださらなかったわ。わたしが醜いせいなのかしら!」

 なぜだか『宮女』のもとには、待てども待てども皇帝がやってこないらしい。
 むろん『お人形』はたいそう美しい顔立ちにつくられているので、「醜いから」など理由にならない。

(いつにもまして馬鹿だな、陛下とやらは)

 こんなに健気な女が自分を待ちわびているなら、なによりも優先すべきだろうに。少なくとも紫月ならばそうする。
 もちろん、梅雪扮する『宮女』だからという偏見もあるが。

 だが、無性に胸をざわつかせるわけは、こうした『宮女』の『お人形あそび』を、最近になって梅雪がはじめたことにある。
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