39 / 264
第一章『忍び寄る影編』
第三十五話 秋風は涼やかに【前】
しおりを挟む
梅雪が毒の入った茶を飲まされた。
(世話係はなにをしていた!? 『ヒョウドク』? なんだそれは!)
邸宅を駆けずり回る使用人たちの叫び声は、断片的な情報しかもたらさない。
十になったばかりの紫月ではあったが、生まれつきの賢さで散らばった点と点をつなぎ合わせ、しだいに状況を把握する。
梅雪が口にするすべてのものには、毒がまぜられていた。
ここ早家では、そうして毒をすこしずつ体内に蓄積していくらしい。
だが無知で愚かな乳母が、致死量をはるかに超える毒の入った茶を、梅雪に飲ませてしまった。
これを受け、乳母、食事の管理をしていた厨係、その他すこしでもこの件にかかわった使用人は、すぐさま屋敷を追いだされたのだと。
梅雪と喧嘩をして紫月が飛びだした、一晩のうちの出来事だった。
腑に落ちると、今度は燃えさかるような怒りがわき上がる。
(梅梅に書を教えていた、あの乳母か……あいつ……殺してやろうか)
そんな考えがよぎったけれども、やめた。
なにより腹立たしい相手は。
第一に責めるべきは。
──ねぇ、旭月、あなたはすごい子なのよ。
ふいに、母の言葉がよみがえる。
──だからその力は、あなたが一番だいじだと思うひとのために、使いなさい。
そうだ、報復なんかしている場合ではない。
おのれには、やるべきことがある。
考えるまでもなく、紫月は駆けだした。
* * *
梅雪が床に伏して三度目の夜。
わずかに開いた窓のすきまからすべり込んだ紫月は、音もなく床へ降り立ち──二本足で、立ち上がった。
母と死別し、ただの猫のふりをして生きてきた紫月にとっては、最後に人の姿になったのがいつだったか、もう覚えていない。
「梅梅……」
寝台に横たわった梅雪の顔色は、真っ白だった。
唇は紫で、ひゅう、ひゅうと、ひどくゆっくりな呼吸を、やっと続けている状態。
思わず目を背けてしまいたくなる。そんな自分を叱咤し、唇を噛みしめた犬歯で──人のものよりするどい牙で、おのれの親指を噛み切った。
「口をあけて、梅梅」
うつろな瑠璃の瞳が、ふいの声の主を探し、闇をさまよう。
「だ、れ……なん、で……?」
「いいから! おねがいだから!」
紫月だと気づいていないのだ、ろくに見えず、聞こえてもいないだろう。
そんななか、弱々しい呼吸をくり返すちいさな唇が、すこしだけひらく。
すかさず紫月は親指を突っ込んだ。
「んぅうっ!」
驚きと息苦しさで、梅雪が口を閉じようとする。その拍子にガリ、と歯が食い込んだ。
(こんな痛み、梅梅にくらべたら……!)
紫月は奥歯を噛みしめて、異様な熱をもつ親指を梅雪の舌下へ押しつける。
噛み傷からあふれた紫月の血液が、毛細血管からみるみる吸収されてゆく。
どれだけ経っただろう。ふっと、親指の痛みが引く。
そっと引き抜けば、脱力した梅雪の寝顔が目に入った。
「……息、してる」
さきほどのたよりないものとは違う。
徐々にだが唇に赤みが差し、なにより苦悶にゆがんでいた表情が、おだやかだ。
とたん、眠る梅雪へ折りかさなるようにくずれ落ちた。
「ごめん……ごめんね、梅梅、おれがばかだったっ……!」
あのときしょうもない癇癪を起こさなければ。
梅雪のそばを離れなければ。
そうしていたら、この子はこんなに苦しまずにすんだかもしれない。
「……まもるから」
愚かな自分をゆるしてくれとは言わない、だから。
「おまえを傷つけるやつは、おれがやっつけてやるから」
もう離れない。離さない。
そのためなら、なんだって投げだしてやる。
「そこにいるのはだれだ! お嬢さまから離れろ!」
あぁ、だれかきた。
なんのために? だれのために?
口では梅雪を敬っていても、本心はどうだか。
この子の味方は、ここには、おのれだけだ。
「──うるさい。おまえが消えろよ」
深い眠りに沈む梅雪を抱きしめて、紫月の藍玉の眼光が夜闇にまたたいた。
(世話係はなにをしていた!? 『ヒョウドク』? なんだそれは!)
邸宅を駆けずり回る使用人たちの叫び声は、断片的な情報しかもたらさない。
十になったばかりの紫月ではあったが、生まれつきの賢さで散らばった点と点をつなぎ合わせ、しだいに状況を把握する。
梅雪が口にするすべてのものには、毒がまぜられていた。
ここ早家では、そうして毒をすこしずつ体内に蓄積していくらしい。
だが無知で愚かな乳母が、致死量をはるかに超える毒の入った茶を、梅雪に飲ませてしまった。
これを受け、乳母、食事の管理をしていた厨係、その他すこしでもこの件にかかわった使用人は、すぐさま屋敷を追いだされたのだと。
梅雪と喧嘩をして紫月が飛びだした、一晩のうちの出来事だった。
腑に落ちると、今度は燃えさかるような怒りがわき上がる。
(梅梅に書を教えていた、あの乳母か……あいつ……殺してやろうか)
そんな考えがよぎったけれども、やめた。
なにより腹立たしい相手は。
第一に責めるべきは。
──ねぇ、旭月、あなたはすごい子なのよ。
ふいに、母の言葉がよみがえる。
──だからその力は、あなたが一番だいじだと思うひとのために、使いなさい。
そうだ、報復なんかしている場合ではない。
おのれには、やるべきことがある。
考えるまでもなく、紫月は駆けだした。
* * *
梅雪が床に伏して三度目の夜。
わずかに開いた窓のすきまからすべり込んだ紫月は、音もなく床へ降り立ち──二本足で、立ち上がった。
母と死別し、ただの猫のふりをして生きてきた紫月にとっては、最後に人の姿になったのがいつだったか、もう覚えていない。
「梅梅……」
寝台に横たわった梅雪の顔色は、真っ白だった。
唇は紫で、ひゅう、ひゅうと、ひどくゆっくりな呼吸を、やっと続けている状態。
思わず目を背けてしまいたくなる。そんな自分を叱咤し、唇を噛みしめた犬歯で──人のものよりするどい牙で、おのれの親指を噛み切った。
「口をあけて、梅梅」
うつろな瑠璃の瞳が、ふいの声の主を探し、闇をさまよう。
「だ、れ……なん、で……?」
「いいから! おねがいだから!」
紫月だと気づいていないのだ、ろくに見えず、聞こえてもいないだろう。
そんななか、弱々しい呼吸をくり返すちいさな唇が、すこしだけひらく。
すかさず紫月は親指を突っ込んだ。
「んぅうっ!」
驚きと息苦しさで、梅雪が口を閉じようとする。その拍子にガリ、と歯が食い込んだ。
(こんな痛み、梅梅にくらべたら……!)
紫月は奥歯を噛みしめて、異様な熱をもつ親指を梅雪の舌下へ押しつける。
噛み傷からあふれた紫月の血液が、毛細血管からみるみる吸収されてゆく。
どれだけ経っただろう。ふっと、親指の痛みが引く。
そっと引き抜けば、脱力した梅雪の寝顔が目に入った。
「……息、してる」
さきほどのたよりないものとは違う。
徐々にだが唇に赤みが差し、なにより苦悶にゆがんでいた表情が、おだやかだ。
とたん、眠る梅雪へ折りかさなるようにくずれ落ちた。
「ごめん……ごめんね、梅梅、おれがばかだったっ……!」
あのときしょうもない癇癪を起こさなければ。
梅雪のそばを離れなければ。
そうしていたら、この子はこんなに苦しまずにすんだかもしれない。
「……まもるから」
愚かな自分をゆるしてくれとは言わない、だから。
「おまえを傷つけるやつは、おれがやっつけてやるから」
もう離れない。離さない。
そのためなら、なんだって投げだしてやる。
「そこにいるのはだれだ! お嬢さまから離れろ!」
あぁ、だれかきた。
なんのために? だれのために?
口では梅雪を敬っていても、本心はどうだか。
この子の味方は、ここには、おのれだけだ。
「──うるさい。おまえが消えろよ」
深い眠りに沈む梅雪を抱きしめて、紫月の藍玉の眼光が夜闇にまたたいた。
0
お気に入りに追加
65
あなたにおすすめの小説
皆で異世界転移したら、私だけがハブかれてイケメンに囲まれた
愛丸 リナ
恋愛
少女は綺麗過ぎた。
整った顔、透き通るような金髪ロングと薄茶と灰色のオッドアイ……彼女はハーフだった。
最初は「可愛い」「綺麗」って言われてたよ?
でも、それは大きくなるにつれ、言われなくなってきて……いじめの対象になっちゃった。
クラス一斉に異世界へ転移した時、彼女だけは「醜女(しこめ)だから」と国外追放を言い渡されて……
たった一人で途方に暮れていた時、“彼ら”は現れた
それが後々あんな事になるなんて、その時の彼女は何も知らない
______________________________
ATTENTION
自己満小説満載
一話ずつ、出来上がり次第投稿
急亀更新急チーター更新だったり、不定期更新だったりする
文章が変な時があります
恋愛に発展するのはいつになるのかは、まだ未定
以上の事が大丈夫な方のみ、ゆっくりしていってください
娼館で元夫と再会しました
無味無臭(不定期更新)
恋愛
公爵家に嫁いですぐ、寡黙な夫と厳格な義父母との関係に悩みホームシックにもなった私は、ついに耐えきれず離縁状を机に置いて嫁ぎ先から逃げ出した。
しかし実家に帰っても、そこに私の居場所はない。
連れ戻されてしまうと危惧した私は、自らの体を売って生計を立てることにした。
「シーク様…」
どうして貴方がここに?
元夫と娼館で再会してしまうなんて、なんという不運なの!
転生からの魔法失敗で、1000年後に転移かつ獣人逆ハーレムは盛りすぎだと思います!
ゴルゴンゾーラ三国
恋愛
異世界転生をするものの、物語の様に分かりやすい活躍もなく、のんびりとスローライフを楽しんでいた主人公・マレーゼ。しかしある日、転移魔法を失敗してしまい、見知らぬ土地へと飛ばされてしまう。
全く知らない土地に慌てる彼女だったが、そこはかつて転生後に生きていた時代から1000年も後の世界であり、さらには自身が生きていた頃の文明は既に滅んでいるということを知る。
そして、実は転移魔法だけではなく、1000年後の世界で『嫁』として召喚された事実が判明し、召喚した相手たちと婚姻関係を結ぶこととなる。
人懐っこく明るい蛇獣人に、かつての文明に入れ込む兎獣人、なかなか心を開いてくれない狐獣人、そして本物の狼のような狼獣人。この時代では『モテない』と言われているらしい四人組は、マレーゼからしたらとてつもない美形たちだった。
1000年前に戻れないことを諦めつつも、1000年後のこの時代で新たに生きることを決めるマレーゼ。
異世界転生&転移に巻き込まれたマレーゼが、1000年後の世界でスローライフを送ります!
【この作品は逆ハーレムものとなっております。最終的に一人に絞られるのではなく、四人同時に結ばれますのでご注意ください】
【この作品は『小説家になろう』『カクヨム』『Pixiv』にも掲載しています】
お腹の子と一緒に逃げたところ、結局お腹の子の父親に捕まりました。
下菊みこと
恋愛
逃げたけど逃げ切れなかったお話。
またはチャラ男だと思ってたらヤンデレだったお話。
あるいは今度こそ幸せ家族になるお話。
ご都合主義の多分ハッピーエンド?
小説家になろう様でも投稿しています。
今夜は帰さない~憧れの騎士団長と濃厚な一夜を
澤谷弥(さわたに わたる)
恋愛
ラウニは騎士団で働く事務官である。
そんな彼女が仕事で第五騎士団団長であるオリベルの執務室を訪ねると、彼の姿はなかった。
だが隣の部屋からは、彼が苦しそうに呻いている声が聞こえてきた。
そんな彼を助けようと隣室へと続く扉を開けたラウニが目にしたのは――。
キャンプに行ったら異世界転移しましたが、最速で保護されました。
新条 カイ
恋愛
週末の休みを利用してキャンプ場に来た。一歩振り返ったら、周りの環境がガラッと変わって山の中に。車もキャンプ場の施設もないってなに!?クマ出現するし!?と、どうなることかと思いきや、最速でイケメンに保護されました、
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる