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第一章『忍び寄る影編』
第三十四話 明ける空は紫
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狼族の雄は番を見つけると、首筋に噛みついてしるしをつけるらしい。
これは本能によるもので、する、しないが自由に選択できる次元のお話ではない。
だから狼族のこどもを生めるのは狼族だけだと、大昔から決まっていた。
彼らほどではないが、猫族も、それなりに不便な獣人族のひとつだと思う。
猫族は女を大切にする。
女の数が、極端に少ないからだ。
その上、子を成しにくい種族とくれば、必然と力関係は定まる。
一妻多夫。猫族に生まれた女は姫のごとくもてはやされ、父親の違うこどもをたくさん生む。
そうした定めのもとに生まれた母は、なにを血迷ったのか、一族を飛びだした。
やがて生まれたのが自分。父親は、知らない。
「あなたは、まだ月が眠らない明け方に生まれたのよ、旭月」
旭と月。思い返せば、安直な名づけだと笑えてくる。
こんなに可愛いこどもに恵まれて幸せだと母はいうけれど、それならどうして、父の姿がどこにもないのだろう。
幼心に、さびしかった。
そして物心がつくころ、唯一の家族だった母が死んだ。
なんのことはない。
たまたま行商でおとずれた街で、たまたま裕福な屋敷の放蕩息子の目に止まってしまい、そいつがたまたま女好きで横暴で残虐な男だった。それだけ。
いろんな『たまたま』がかさなり、無残にも母のいのちは奪われた。
身勝手な人間に、殺されたのだ。
──逃げなさい、旭月!
──北へ! 北へ行くのよ!
非力なこどもでしかなかった自分は、言われるがままに逃げだすことしかできなかった。
昼は太陽を、夜は星の位置をたよりに、広大な地をがむしゃらに駆けた。
そうして、終わりのない道に、身もこころも疲れ果てたとき。
「にゃんにゃんだ!」
寒い寒い山奥で、あの子に、出会ったのだ。
* * *
多くの種族と民が暮らす央原において、あきらかに一線を画した地が存在する。
西北の翠海。その最北端に位置する百杜に住まう一族は、外界とのいたずらなつながりを嫌う。
そのため、古くから謎多き秘境とつたえられてきた。
そんなおとぎ話のような土地に、たどり着いたなんて。
粉雪のふりしきる山にて。
疲労と空腹で行き倒れた旭月を見つけたのは、くりくりとした瑠璃の瞳の女の子だった。
めずらしい錫色の毛並みと、藍玉のような瞳をした子猫を、たいそう気に入ったらしい。
「にゃんにゃんもいくのー!」と駄々をこねて、頭をかかえた大人たちが渋々聞き入れていた。
(おれは、どうなるんだろう……)
獣人と知られることの危険を嫌でも痛感していたのに、衰弱した旭月は、ある失態をおかした。
(ただの猫のふりをすれば、すこしはましになるかな……)
そう考えていたことを、口にだしてしまっていたのだ。
はっと我に返ったとき、終わった、と思った。
そんな旭月の絶望などくずかごへ放り投げるように、幼い女の子は無邪気に手をたたいて喜んだ。
「旭月」
「じゅーゆぇ!」
「シューユェ」
「じゅう、ゆぇ!」
「……もういいよ、それで」
二、三歳くらいだろうか。根負けして名前を教えても、発音があやしい。
そんなに踏んばらなくてもいいだろうに。早い段階で訂正をやめた。
この子の名前は、梅雪というらしい。大の大人たちがへこへこと頭を下げて敬っている、とんでもない『お嬢さま』だ。
だが、甘やかされて育ったわがままな『お姫さま』かというと、それも違う。
「じゅーゆぇも、たべゆ?」
梅雪は、旭月のことをむやみに言いふらす真似をしなかった。
(なんで?)
子猫が人の言葉をしゃべることを、だれにも話さなかった。
(なんで……)
そればかりか、世話係の目を盗んで、自分の食事だとか点心を、こっそりわけてくれた。
卑しい獣でしかない旭月の目線までかがんで、友として見てくれたのだ。
(……こんな人間が、いるなんて)
旭月に食べるものの半分をわけていた梅雪は、年のわりにからだがちいさくて。
無性に泣きだしてしまいたくなった。
そんな旭月とは正反対に、梅雪は笑みをたやさない子だった。
「ずーゆぇ! ずーゆぇ! みてー!」
ちょっとは進歩したけれど、やっぱり舌足らずな梅雪。
なにやら得意げに紙きれを見せられて、不覚にも笑ってしまった。
ミミズみたいな墨で書かれていたのは、かろうじて読める『紫月』のふた文字。
空があからむ明け方は、月もあかいというけれど。
この子にとっての旭は、むらさきいろに見えたのかもしれない。
「梅梅がいうなら、それでいいよ。それがいい」
そうして『旭月』は、『紫月』となったのだ。
いつの間にか冬を越え、ふくらんだ蕾がほころぶ季節をむかえていた。
* * *
早いもので、四年もの月日が流れる。
梅雪とは仲睦まじくすごしていた。
あの日までは。
「あぁもう、うるさいっ!」
その日は、すこぶる虫の居所が悪かった。
いつもは鈎状に垂れたしっぽをぴんと立て、錫色の毛を逆立てた紫月に、梅雪は肩をびくつかせて右手を引っ込める。
「さわるなよ、あっちに行けよ!」
良家のお嬢さまが可愛がる猫として、ふさわしく振る舞ってきたつもりだった。
だからこんな癇癪も、はじめてだ。
(なんで……なんでなんでなんで!)
おまえが駄々をこねるから、ここに来たのに。
おまえが寒いと言うから、夜は丸まって一緒に寝ているだろう。
おまえが気持ちよさそうに毛をなでるから、本当は苦手だけど、一緒に湯だって浴びられる、なのに!
(梅梅が、おれじゃない猫をだきしめて、なでてた……!)
それがどうしようもなく、腹立たしかった。
「紫月……」
「うるさいうるさいっ! あいつのところに行けばいいだろ、ばかっ!」
聞く耳は持ってやらない。
わっとまくし立てた紫月のほうが、たまらなくなって、室を飛びだした。
「なんでだよ……おれには、梅梅しかいないのに……」
ひとときの激情が冷めてしまうと、あとには虚しさだとか、後悔だけが残る。
「……おれ以外のやつと、なかよくしてほしくない……」
嫌いになりたいと思えば思うほど、梅雪の笑顔が浮かぶ。
はじめて知る感情に戸惑うその日、百杜の地にきて、はじめて独りの夜をすごした。
凍えて凍えて、どうにかなりそうだった。
自分勝手に飛びだした手前、のこのこと戻るのはためらわれる。
けれど、すこしだけならと、翌日こっそり屋敷に忍び込んで、それで。
「薬草が足りない! とりに行くんだ、早く!」
寝台に横たわった梅雪の、変わり果てた姿を目の当たりにしてしまう。
──その瞬間、世界のなにもかもが色をうしない、ぼろぼろとくずれ落ちる音を聞いた。
これは本能によるもので、する、しないが自由に選択できる次元のお話ではない。
だから狼族のこどもを生めるのは狼族だけだと、大昔から決まっていた。
彼らほどではないが、猫族も、それなりに不便な獣人族のひとつだと思う。
猫族は女を大切にする。
女の数が、極端に少ないからだ。
その上、子を成しにくい種族とくれば、必然と力関係は定まる。
一妻多夫。猫族に生まれた女は姫のごとくもてはやされ、父親の違うこどもをたくさん生む。
そうした定めのもとに生まれた母は、なにを血迷ったのか、一族を飛びだした。
やがて生まれたのが自分。父親は、知らない。
「あなたは、まだ月が眠らない明け方に生まれたのよ、旭月」
旭と月。思い返せば、安直な名づけだと笑えてくる。
こんなに可愛いこどもに恵まれて幸せだと母はいうけれど、それならどうして、父の姿がどこにもないのだろう。
幼心に、さびしかった。
そして物心がつくころ、唯一の家族だった母が死んだ。
なんのことはない。
たまたま行商でおとずれた街で、たまたま裕福な屋敷の放蕩息子の目に止まってしまい、そいつがたまたま女好きで横暴で残虐な男だった。それだけ。
いろんな『たまたま』がかさなり、無残にも母のいのちは奪われた。
身勝手な人間に、殺されたのだ。
──逃げなさい、旭月!
──北へ! 北へ行くのよ!
非力なこどもでしかなかった自分は、言われるがままに逃げだすことしかできなかった。
昼は太陽を、夜は星の位置をたよりに、広大な地をがむしゃらに駆けた。
そうして、終わりのない道に、身もこころも疲れ果てたとき。
「にゃんにゃんだ!」
寒い寒い山奥で、あの子に、出会ったのだ。
* * *
多くの種族と民が暮らす央原において、あきらかに一線を画した地が存在する。
西北の翠海。その最北端に位置する百杜に住まう一族は、外界とのいたずらなつながりを嫌う。
そのため、古くから謎多き秘境とつたえられてきた。
そんなおとぎ話のような土地に、たどり着いたなんて。
粉雪のふりしきる山にて。
疲労と空腹で行き倒れた旭月を見つけたのは、くりくりとした瑠璃の瞳の女の子だった。
めずらしい錫色の毛並みと、藍玉のような瞳をした子猫を、たいそう気に入ったらしい。
「にゃんにゃんもいくのー!」と駄々をこねて、頭をかかえた大人たちが渋々聞き入れていた。
(おれは、どうなるんだろう……)
獣人と知られることの危険を嫌でも痛感していたのに、衰弱した旭月は、ある失態をおかした。
(ただの猫のふりをすれば、すこしはましになるかな……)
そう考えていたことを、口にだしてしまっていたのだ。
はっと我に返ったとき、終わった、と思った。
そんな旭月の絶望などくずかごへ放り投げるように、幼い女の子は無邪気に手をたたいて喜んだ。
「旭月」
「じゅーゆぇ!」
「シューユェ」
「じゅう、ゆぇ!」
「……もういいよ、それで」
二、三歳くらいだろうか。根負けして名前を教えても、発音があやしい。
そんなに踏んばらなくてもいいだろうに。早い段階で訂正をやめた。
この子の名前は、梅雪というらしい。大の大人たちがへこへこと頭を下げて敬っている、とんでもない『お嬢さま』だ。
だが、甘やかされて育ったわがままな『お姫さま』かというと、それも違う。
「じゅーゆぇも、たべゆ?」
梅雪は、旭月のことをむやみに言いふらす真似をしなかった。
(なんで?)
子猫が人の言葉をしゃべることを、だれにも話さなかった。
(なんで……)
そればかりか、世話係の目を盗んで、自分の食事だとか点心を、こっそりわけてくれた。
卑しい獣でしかない旭月の目線までかがんで、友として見てくれたのだ。
(……こんな人間が、いるなんて)
旭月に食べるものの半分をわけていた梅雪は、年のわりにからだがちいさくて。
無性に泣きだしてしまいたくなった。
そんな旭月とは正反対に、梅雪は笑みをたやさない子だった。
「ずーゆぇ! ずーゆぇ! みてー!」
ちょっとは進歩したけれど、やっぱり舌足らずな梅雪。
なにやら得意げに紙きれを見せられて、不覚にも笑ってしまった。
ミミズみたいな墨で書かれていたのは、かろうじて読める『紫月』のふた文字。
空があからむ明け方は、月もあかいというけれど。
この子にとっての旭は、むらさきいろに見えたのかもしれない。
「梅梅がいうなら、それでいいよ。それがいい」
そうして『旭月』は、『紫月』となったのだ。
いつの間にか冬を越え、ふくらんだ蕾がほころぶ季節をむかえていた。
* * *
早いもので、四年もの月日が流れる。
梅雪とは仲睦まじくすごしていた。
あの日までは。
「あぁもう、うるさいっ!」
その日は、すこぶる虫の居所が悪かった。
いつもは鈎状に垂れたしっぽをぴんと立て、錫色の毛を逆立てた紫月に、梅雪は肩をびくつかせて右手を引っ込める。
「さわるなよ、あっちに行けよ!」
良家のお嬢さまが可愛がる猫として、ふさわしく振る舞ってきたつもりだった。
だからこんな癇癪も、はじめてだ。
(なんで……なんでなんでなんで!)
おまえが駄々をこねるから、ここに来たのに。
おまえが寒いと言うから、夜は丸まって一緒に寝ているだろう。
おまえが気持ちよさそうに毛をなでるから、本当は苦手だけど、一緒に湯だって浴びられる、なのに!
(梅梅が、おれじゃない猫をだきしめて、なでてた……!)
それがどうしようもなく、腹立たしかった。
「紫月……」
「うるさいうるさいっ! あいつのところに行けばいいだろ、ばかっ!」
聞く耳は持ってやらない。
わっとまくし立てた紫月のほうが、たまらなくなって、室を飛びだした。
「なんでだよ……おれには、梅梅しかいないのに……」
ひとときの激情が冷めてしまうと、あとには虚しさだとか、後悔だけが残る。
「……おれ以外のやつと、なかよくしてほしくない……」
嫌いになりたいと思えば思うほど、梅雪の笑顔が浮かぶ。
はじめて知る感情に戸惑うその日、百杜の地にきて、はじめて独りの夜をすごした。
凍えて凍えて、どうにかなりそうだった。
自分勝手に飛びだした手前、のこのこと戻るのはためらわれる。
けれど、すこしだけならと、翌日こっそり屋敷に忍び込んで、それで。
「薬草が足りない! とりに行くんだ、早く!」
寝台に横たわった梅雪の、変わり果てた姿を目の当たりにしてしまう。
──その瞬間、世界のなにもかもが色をうしない、ぼろぼろとくずれ落ちる音を聞いた。
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