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第一章『忍び寄る影編』
第二十九話 消えゆく鼓動【後】
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圧倒的。まさにそのひと言につきる。
十五の手練を一手に引き受けてなお、紫月の優勢であった。
見えないか鋼弦による猛攻は、何人たりとも寄せつけない。
荒れ狂う風を読み、それすらも味方につけて、男たちを切り裂き、着実に体力を削いでゆく。
目前でくり広げられる闘いを注視しながら、ハヤメの脳裏には、とある考えが浮かんでいた。
(ここで敵を倒してしまえば、街に戻れる。あの子を、探しにいける……!)
危険な行為であることは百も承知だ。
それでも、黙って指をくわえているわけにはいかなかった。
(私も、紫月に加勢を……!)
いまのおのれが成せることはなにか。
ハヤメの脳内は、その思考に埋めつくされていた。
ゆえに、背後からしのび寄る影に気づけなかった。
「っ、梅雪!」
つんざくような呼び声。瞬間的に意識を引き戻されるとともに、夢中で身をよじった。
ふり下ろされた刃が右ほほをかすめ、皮一枚を裂く。
すぐさま紫月が駆け寄ろうとするも、攻撃の手がゆるんだ隙を敵は逃さない。
懐へもぐり込んできた男のひとりに、紫月は抜き払った白銀の双手剣で応戦した。
(……間一髪だった)
ぴり、と痛みを訴える顔をしかめ、ハヤメは背後の闇に目をこらす。
そこで料理包丁を手に、わなわなと小柄な背を震わせていた女性は。
「……お嬢さまの、せいなんです……わたしは悪くない、わたしは悪くない……」
「明林!」
愕然とした。
殺されかけた恐怖よりも、心のどこかに残っていた希望を、踏みにじられたショックで。
「明林、どうして!」
「わたしを見捨てたのはお嬢さまだわッ!」
北風とともに、金切り声が吹き下ろす。
「わたしは……お嬢さまにお仕えできることになって、うれしかったんです。わが子を何度も流してしまったけれど、もしあの子たちが生きていたら、おなじくらいの年ごろだったかしら……って」
「うっ……!」
頭が、痛い。
痛みと引き換えに思いだされるのは、幼き日に梅雪が見上げていた、明林の表情だ。
そのどれもが、裏表のない笑顔だった。
「でも、お乳をあげるのは奥さまの役目で……乳離れをしても、食事は厨係が……わたしがゆるされたのは、書のお稽古だけ。ねぇ梅雪お嬢さま……乳母ってなんですか? あなたに、わたしは本当に必要でしたか?」
「……それ、は」
わからない。ハヤメは知らないことだ。
思いださなければ。梅雪が、明林をどう思っていたのか。
「お嬢さまは、わたしが疎ましかったのよ。だってわたしのお茶を飲んでくださらなかったわ。まるで毒が入っているみたいに毛嫌いして!」
明林の叫びがこだまする。
はたと瑠璃の瞳を見ひらいたハヤメは、それからしばらく呼吸の仕方を失念した。
(お茶……そうだ、明林のお茶は……!)
明林がなにを言っているのか。
なにをかん違いしているのか。
そして彼女に対する梅雪の感情を──思いだした。
「あなたのひと言ですべてを失ったの! 仕事も、夫も、なにもかも! 全部全部あなたのせいよッ!!」
半狂乱になって凶器をふり上げる明林。
その身体を突き飛ばし、凍てついた地面へ打ちすえることだってできた。
それなのに、ためらってしまった。
ハヤメは唇を噛みしめ、胸に抱いた黒皇へ覆いかぶさる。
駆け抜ける一陣の風。
どっと鈍い衝突音ののち、頭上にかかる影が消えうせた。
「きゃああっ!?」
ひびきわたった悲鳴は、いままさに自分へ襲いかかろうとしていた女のものだ。
はじかれたように視線を上げる。
ふいに雲間から射した白い月明かりが、突如割り入った小柄な影と、力まかせに突き飛ばされた明林を照らしだした。
「梅姐姐に、ちかづくな……」
月光をやどしたまばゆい髪と、燃える柘榴の瞳のもち主を、みまごうはずがない。
「憂炎! 憂炎なんだね!」
全身が煤にまみれてこそいるが、目立った怪我はなく。
無事でいてくれた。それ以上に尊いことがあろうか。
炎につつまれた街を目の当たりにし、恐ろしかったはず。
たった独りで、心細かっただろう。
まだ幼いこどもなのだからと、知った気になっていた。
名を呼ばれた憂炎が、ゆらりとハヤメをふり返る。
「血の、においがする……」
うわ言のようにつぶやく一方で、真紅の双眸が、爛爛と月光ごとこちらを射抜く。
「怪我してる……だれに、やられたの」
右ほほの切り傷のことを言っているのか。
かすり傷だ、問題ないと、普段なら笑い飛ばせたのに。
「おれの梅姐姐を傷つけたのは、おまえ?」
息を飲む。
ただならぬ空気、尋常ではない威圧感を発していたのは。
開ききった瞳孔で、尻もちをついた明林を見下ろしていたのは。
「……る、さない……ゆるさないゆるさないゆるさない」
こちらに背を向けた憂炎が、人の身からのぞかせた大きな三角の耳としっぽの毛を、ぶわりと逆立てる。
「──ころしてやる」
淡々とした声がひびきわたった刹那、信じられない光景を目にする。
少年のまわりに、ぼう、と灯る、烈火を。
十五の手練を一手に引き受けてなお、紫月の優勢であった。
見えないか鋼弦による猛攻は、何人たりとも寄せつけない。
荒れ狂う風を読み、それすらも味方につけて、男たちを切り裂き、着実に体力を削いでゆく。
目前でくり広げられる闘いを注視しながら、ハヤメの脳裏には、とある考えが浮かんでいた。
(ここで敵を倒してしまえば、街に戻れる。あの子を、探しにいける……!)
危険な行為であることは百も承知だ。
それでも、黙って指をくわえているわけにはいかなかった。
(私も、紫月に加勢を……!)
いまのおのれが成せることはなにか。
ハヤメの脳内は、その思考に埋めつくされていた。
ゆえに、背後からしのび寄る影に気づけなかった。
「っ、梅雪!」
つんざくような呼び声。瞬間的に意識を引き戻されるとともに、夢中で身をよじった。
ふり下ろされた刃が右ほほをかすめ、皮一枚を裂く。
すぐさま紫月が駆け寄ろうとするも、攻撃の手がゆるんだ隙を敵は逃さない。
懐へもぐり込んできた男のひとりに、紫月は抜き払った白銀の双手剣で応戦した。
(……間一髪だった)
ぴり、と痛みを訴える顔をしかめ、ハヤメは背後の闇に目をこらす。
そこで料理包丁を手に、わなわなと小柄な背を震わせていた女性は。
「……お嬢さまの、せいなんです……わたしは悪くない、わたしは悪くない……」
「明林!」
愕然とした。
殺されかけた恐怖よりも、心のどこかに残っていた希望を、踏みにじられたショックで。
「明林、どうして!」
「わたしを見捨てたのはお嬢さまだわッ!」
北風とともに、金切り声が吹き下ろす。
「わたしは……お嬢さまにお仕えできることになって、うれしかったんです。わが子を何度も流してしまったけれど、もしあの子たちが生きていたら、おなじくらいの年ごろだったかしら……って」
「うっ……!」
頭が、痛い。
痛みと引き換えに思いだされるのは、幼き日に梅雪が見上げていた、明林の表情だ。
そのどれもが、裏表のない笑顔だった。
「でも、お乳をあげるのは奥さまの役目で……乳離れをしても、食事は厨係が……わたしがゆるされたのは、書のお稽古だけ。ねぇ梅雪お嬢さま……乳母ってなんですか? あなたに、わたしは本当に必要でしたか?」
「……それ、は」
わからない。ハヤメは知らないことだ。
思いださなければ。梅雪が、明林をどう思っていたのか。
「お嬢さまは、わたしが疎ましかったのよ。だってわたしのお茶を飲んでくださらなかったわ。まるで毒が入っているみたいに毛嫌いして!」
明林の叫びがこだまする。
はたと瑠璃の瞳を見ひらいたハヤメは、それからしばらく呼吸の仕方を失念した。
(お茶……そうだ、明林のお茶は……!)
明林がなにを言っているのか。
なにをかん違いしているのか。
そして彼女に対する梅雪の感情を──思いだした。
「あなたのひと言ですべてを失ったの! 仕事も、夫も、なにもかも! 全部全部あなたのせいよッ!!」
半狂乱になって凶器をふり上げる明林。
その身体を突き飛ばし、凍てついた地面へ打ちすえることだってできた。
それなのに、ためらってしまった。
ハヤメは唇を噛みしめ、胸に抱いた黒皇へ覆いかぶさる。
駆け抜ける一陣の風。
どっと鈍い衝突音ののち、頭上にかかる影が消えうせた。
「きゃああっ!?」
ひびきわたった悲鳴は、いままさに自分へ襲いかかろうとしていた女のものだ。
はじかれたように視線を上げる。
ふいに雲間から射した白い月明かりが、突如割り入った小柄な影と、力まかせに突き飛ばされた明林を照らしだした。
「梅姐姐に、ちかづくな……」
月光をやどしたまばゆい髪と、燃える柘榴の瞳のもち主を、みまごうはずがない。
「憂炎! 憂炎なんだね!」
全身が煤にまみれてこそいるが、目立った怪我はなく。
無事でいてくれた。それ以上に尊いことがあろうか。
炎につつまれた街を目の当たりにし、恐ろしかったはず。
たった独りで、心細かっただろう。
まだ幼いこどもなのだからと、知った気になっていた。
名を呼ばれた憂炎が、ゆらりとハヤメをふり返る。
「血の、においがする……」
うわ言のようにつぶやく一方で、真紅の双眸が、爛爛と月光ごとこちらを射抜く。
「怪我してる……だれに、やられたの」
右ほほの切り傷のことを言っているのか。
かすり傷だ、問題ないと、普段なら笑い飛ばせたのに。
「おれの梅姐姐を傷つけたのは、おまえ?」
息を飲む。
ただならぬ空気、尋常ではない威圧感を発していたのは。
開ききった瞳孔で、尻もちをついた明林を見下ろしていたのは。
「……る、さない……ゆるさないゆるさないゆるさない」
こちらに背を向けた憂炎が、人の身からのぞかせた大きな三角の耳としっぽの毛を、ぶわりと逆立てる。
「──ころしてやる」
淡々とした声がひびきわたった刹那、信じられない光景を目にする。
少年のまわりに、ぼう、と灯る、烈火を。
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