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第一章『忍び寄る影編』
第二十二話 月夜に咲く梅花【前】
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風呂敷に包める程度の荷物をまとめ、憂炎へあずける。
みずからは長弓を提げ、矢筒を背負った。
足音を殺して階段をおりる。
と、むせ返るような香りが鼻についた。
金木犀を思わせる花の香りは、強烈にハヤメたちの進行方向からやってくる。
「まぁ梅雪お嬢さま、夕餉もまだですのに、どちらへ?」
だれにも見られてはいけない、という紫月の言いつけを、早くもやぶってしまった。
「……明林」
茶器をのせた盆をかかえた小柄な女性が、丸顔にえくぼを刻んでいる。
数刻前のハヤメなら、他愛もない雑談を振ろうという気にもなれただろう。
名を呼ぶのみにとどまってしまったのは、こそ泥のような真似をして申し訳ないだとか、おのれにやましいことがあるためではない。
「お茶でもお召し上がりくださいな。さぁさ、おかけになって」
朗々と声にした明林のほうへ踏みだす、小柄な影がある。
「鼻がまがりそうだ。おまえ、梅姐姐になにを飲ませるつもりなの」
憂炎だった。するどい牙をむき出し、柘榴の瞳を爛爛と燻らせている。
ハヤメに接するような無邪気さはどこにもない。
肌を刺すその気迫に、笑みをひきつらせた明林が一歩後ずさる。
「憂炎坊ちゃんたら、ひどいわ……わたしはただ、梅雪お嬢さまにおいしいお茶を召し上がってほしくて……」
震える語尾を徐々に消え入らせた明林が、緑漆の茶杯を乱暴に引っつかむ。
「させぬ!」
ハヤメの背後からおどりでた黒皇が、茶杯を握りしめて振りかぶった明林へ飛びかかった。
濡れ羽の翼に打ちひしがれ、かん高い悲鳴を上げて茶杯を取り落とす明林。
目もあやな茶器たちがしたたかに打ちつけられ、割れた破片が四方八方へ散乱する。
「ゆかれませ! 梅雪お嬢さま! 憂炎どの!」
なおもするどいくちばしで明林へ襲いかかりながら、黒皇がさけぶ。
「どうしてなの! どうしてわたしのお茶を飲んでくれないの! また!!」
後ろ髪が、引かれなかったわけではない。
「……ごめん、明林」
──私はもう、あなたを信じることができない。
その言葉は、かろうじて沈黙に打ち消せた。
足底に力を込め、駆けだす。振り返ることはしなかった。
やけに静かだとは思っていたが。
食堂へさしかかったとき、むせ返る花の香りが、鉄錆のにおいに塗りつぶされる。
ひっくり返った卓と料理。
片脚をもがれた椅子にもたれ、濁った目で天井をあおぐ、喉を掻き切られた男。
逃げまどっていたのか、背後から刺し貫かれ、壁へ磔にされた男。
床に折りかさなって事切れた男たちはあらぬ方向へ四肢がまがっており、ことごとくが恐怖に焼きついた顔で、物言わぬ人形と成り果て。
つい昼時までなじみの客でにぎわっていたそこは、文字どおり血の海と化していた。
とっさに憂炎の顔を袖で覆ったが、充満する死のにおいを完全には隠せない。
憂炎は「うっ……」と空えずき、よろよろとハヤメの袖から顔をだす。
「……おなじ人間なのに、なんで人間を殺すの……?」
答えることができなかった。
心底理解できない、と柘榴の瞳をゆらめかせるこの子のようにだれもが無垢であったなら、この世に争いなど存在しないだろうに。
ハヤメは押し黙ってかぶりを振るばかりで、憂炎の手を引き、孔雀緑の裾をひるがえす。
駆けて駆けて、ついに屋外へ。
すっかり陽の落ちきった外は暗く、冬の夜風が容赦なく肌を貫いた。
ひとつ深呼吸をしたハヤメは、後ろ手に矢羽をつかむ。
それから瞬時に振り返るや、カッと見ひらいた瑠璃の瞳でとらえた夜闇へ、引き絞った弦をはじく。
流星のごとく闇を裂く矢。
ぐっと低いうめき声ののち、屋根から男がひとりまろび落ちてきた。
視界のみ確保した覆面に、全身黒ずくめの服装。
「おや、顔まで隠してちゃ、いい男かどうかもわからないじゃないか。防寒にはよさそうだけど」
視線はそらさないまま、二本目の矢をつがえる。
「まったく、背後から襲おうなんて穏やかじゃない」
料理屋の女将でしかない小柄な明林が、大の男を何人も殺害できるとは思えない。
ほかに共犯者がいると仮定して警戒していたことが、功を奏したようだ。
現に、壁に磔にされた男を刺し貫いていたのは、クナイのような暗器だった。
料理包丁ならまだしも、善良な一般人が持っているような代物ではない。
黒ずくめの男が、左肩に刺さった矢を抜き捨て、立ち上がる。
ハヤメは毅然とした態度で、それに対峙した。
「念のためうかがおうか。人違いって線はないかい? だれをお探しかは知らないけれど」
「ふん、そういうのは、百杜訛りを隠してからいうものだ」
「なるほどね」
つまり男が探しているのは、百杜の地を生家とする梅雪そのひとだ、ということか。
「ご忠告ありがとう。そういうのは、都訛りを隠してからいうものだと思うけれどね」
「っ、貴様!」
放った二本目の矢は、抜きはらった剣にあっけなくはじかれた。
距離をつめられては、弓は役に立たない。
ハヤメは長弓を放ると、懐から小刀を取りだす。
護身用程度だろうが、ないよりマシだろう。
ハヤメの頸動脈を軌道にとらえた男が、水平に右腕を薙ぐ。
(遅い、紫月はもっと疾かった)
その紫月とおなじ血が、梅雪、いまのハヤメにも流れているのだ。
男の剣は、少女の翡翠の髪にふれることすら叶わない。
地面すれすれに伏せたハヤメは、しなやかな脚のバネでたちまちに男の懐へもぐり込む。
「はぁっ!」
目にも止まらぬ七連の刺突。それを、男はとっさに右腕で受け止めた。
「ハッ、蚊にでも刺されたか? しょせんは女の力、たわいない」
たいした流血沙汰にいたらなかったことを、男は鼻をならして嘲笑した。
が、ハヤメは慌てることなく、突きの姿勢から静かに小刀を引いた。
「わが早一族はその血筋ゆえ、医学、経絡学に精通した者が多い。そのことは知らなんだか?」
「なにを……ぐっ!?」
鈍い音とともに、男の右手をすべり落ちた鋼の塊が、地面をのたうち回る。
「肩からひじ、手甲にかけて、七ヶ所の穴道を遣っておいた。気の流れは絶たれ、まともに剣は握れまい」
しょせん女でしかないことは、ハヤメ自身がよくわかっている。
ゆえにこそ、これが賢い闘い方というものだ。
「早熟の青梅には毒があるのだよ。勉強になったな」
──女だからとて、侮るなかれ。
みずからは長弓を提げ、矢筒を背負った。
足音を殺して階段をおりる。
と、むせ返るような香りが鼻についた。
金木犀を思わせる花の香りは、強烈にハヤメたちの進行方向からやってくる。
「まぁ梅雪お嬢さま、夕餉もまだですのに、どちらへ?」
だれにも見られてはいけない、という紫月の言いつけを、早くもやぶってしまった。
「……明林」
茶器をのせた盆をかかえた小柄な女性が、丸顔にえくぼを刻んでいる。
数刻前のハヤメなら、他愛もない雑談を振ろうという気にもなれただろう。
名を呼ぶのみにとどまってしまったのは、こそ泥のような真似をして申し訳ないだとか、おのれにやましいことがあるためではない。
「お茶でもお召し上がりくださいな。さぁさ、おかけになって」
朗々と声にした明林のほうへ踏みだす、小柄な影がある。
「鼻がまがりそうだ。おまえ、梅姐姐になにを飲ませるつもりなの」
憂炎だった。するどい牙をむき出し、柘榴の瞳を爛爛と燻らせている。
ハヤメに接するような無邪気さはどこにもない。
肌を刺すその気迫に、笑みをひきつらせた明林が一歩後ずさる。
「憂炎坊ちゃんたら、ひどいわ……わたしはただ、梅雪お嬢さまにおいしいお茶を召し上がってほしくて……」
震える語尾を徐々に消え入らせた明林が、緑漆の茶杯を乱暴に引っつかむ。
「させぬ!」
ハヤメの背後からおどりでた黒皇が、茶杯を握りしめて振りかぶった明林へ飛びかかった。
濡れ羽の翼に打ちひしがれ、かん高い悲鳴を上げて茶杯を取り落とす明林。
目もあやな茶器たちがしたたかに打ちつけられ、割れた破片が四方八方へ散乱する。
「ゆかれませ! 梅雪お嬢さま! 憂炎どの!」
なおもするどいくちばしで明林へ襲いかかりながら、黒皇がさけぶ。
「どうしてなの! どうしてわたしのお茶を飲んでくれないの! また!!」
後ろ髪が、引かれなかったわけではない。
「……ごめん、明林」
──私はもう、あなたを信じることができない。
その言葉は、かろうじて沈黙に打ち消せた。
足底に力を込め、駆けだす。振り返ることはしなかった。
やけに静かだとは思っていたが。
食堂へさしかかったとき、むせ返る花の香りが、鉄錆のにおいに塗りつぶされる。
ひっくり返った卓と料理。
片脚をもがれた椅子にもたれ、濁った目で天井をあおぐ、喉を掻き切られた男。
逃げまどっていたのか、背後から刺し貫かれ、壁へ磔にされた男。
床に折りかさなって事切れた男たちはあらぬ方向へ四肢がまがっており、ことごとくが恐怖に焼きついた顔で、物言わぬ人形と成り果て。
つい昼時までなじみの客でにぎわっていたそこは、文字どおり血の海と化していた。
とっさに憂炎の顔を袖で覆ったが、充満する死のにおいを完全には隠せない。
憂炎は「うっ……」と空えずき、よろよろとハヤメの袖から顔をだす。
「……おなじ人間なのに、なんで人間を殺すの……?」
答えることができなかった。
心底理解できない、と柘榴の瞳をゆらめかせるこの子のようにだれもが無垢であったなら、この世に争いなど存在しないだろうに。
ハヤメは押し黙ってかぶりを振るばかりで、憂炎の手を引き、孔雀緑の裾をひるがえす。
駆けて駆けて、ついに屋外へ。
すっかり陽の落ちきった外は暗く、冬の夜風が容赦なく肌を貫いた。
ひとつ深呼吸をしたハヤメは、後ろ手に矢羽をつかむ。
それから瞬時に振り返るや、カッと見ひらいた瑠璃の瞳でとらえた夜闇へ、引き絞った弦をはじく。
流星のごとく闇を裂く矢。
ぐっと低いうめき声ののち、屋根から男がひとりまろび落ちてきた。
視界のみ確保した覆面に、全身黒ずくめの服装。
「おや、顔まで隠してちゃ、いい男かどうかもわからないじゃないか。防寒にはよさそうだけど」
視線はそらさないまま、二本目の矢をつがえる。
「まったく、背後から襲おうなんて穏やかじゃない」
料理屋の女将でしかない小柄な明林が、大の男を何人も殺害できるとは思えない。
ほかに共犯者がいると仮定して警戒していたことが、功を奏したようだ。
現に、壁に磔にされた男を刺し貫いていたのは、クナイのような暗器だった。
料理包丁ならまだしも、善良な一般人が持っているような代物ではない。
黒ずくめの男が、左肩に刺さった矢を抜き捨て、立ち上がる。
ハヤメは毅然とした態度で、それに対峙した。
「念のためうかがおうか。人違いって線はないかい? だれをお探しかは知らないけれど」
「ふん、そういうのは、百杜訛りを隠してからいうものだ」
「なるほどね」
つまり男が探しているのは、百杜の地を生家とする梅雪そのひとだ、ということか。
「ご忠告ありがとう。そういうのは、都訛りを隠してからいうものだと思うけれどね」
「っ、貴様!」
放った二本目の矢は、抜きはらった剣にあっけなくはじかれた。
距離をつめられては、弓は役に立たない。
ハヤメは長弓を放ると、懐から小刀を取りだす。
護身用程度だろうが、ないよりマシだろう。
ハヤメの頸動脈を軌道にとらえた男が、水平に右腕を薙ぐ。
(遅い、紫月はもっと疾かった)
その紫月とおなじ血が、梅雪、いまのハヤメにも流れているのだ。
男の剣は、少女の翡翠の髪にふれることすら叶わない。
地面すれすれに伏せたハヤメは、しなやかな脚のバネでたちまちに男の懐へもぐり込む。
「はぁっ!」
目にも止まらぬ七連の刺突。それを、男はとっさに右腕で受け止めた。
「ハッ、蚊にでも刺されたか? しょせんは女の力、たわいない」
たいした流血沙汰にいたらなかったことを、男は鼻をならして嘲笑した。
が、ハヤメは慌てることなく、突きの姿勢から静かに小刀を引いた。
「わが早一族はその血筋ゆえ、医学、経絡学に精通した者が多い。そのことは知らなんだか?」
「なにを……ぐっ!?」
鈍い音とともに、男の右手をすべり落ちた鋼の塊が、地面をのたうち回る。
「肩からひじ、手甲にかけて、七ヶ所の穴道を遣っておいた。気の流れは絶たれ、まともに剣は握れまい」
しょせん女でしかないことは、ハヤメ自身がよくわかっている。
ゆえにこそ、これが賢い闘い方というものだ。
「早熟の青梅には毒があるのだよ。勉強になったな」
──女だからとて、侮るなかれ。
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