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第一章『忍び寄る影編』

第二十話 柘榴は輝く

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 梅姐姐メイおねえちゃん、とかすかなつぶやきが、暗く沈んだ意識へひとすじの光をもたらす。

 かっとまぶたをひらいた視界へ、夕照せきしょうに染まる天井が映る。
 直後、息をふき返したように呼吸の仕方を思いだした。

「ここは……っつ!」

 上体を跳ね起こし、突如襲った頭痛に腰を折る。

「起きちゃダメ! お熱がでてるんだよ!」

 華奢な少年の力に肩を押され、あっけなく天井をあおがされてしまう。
 かじりつくようにしてのぞき込んでくる柘榴ざくろのゆらめきを目にして、寝かされていたのだと思い知った。

憂炎ユーエン……私は」
「おしぼりを取りにいって、なかなかもどってこないなって思ってたら……灰色の髪で、水色の目の男のひとが、つれてきた」
「灰色の髪で、水色の目の……」

 紫月ズーユェのことだ。そうだ、紫月。
 脳内で反芻はんすうし、しだいに断片的な記憶をつなぎ合わせることができる。

「ねぇ、あのひと、きのう路地裏で会ったひとだよね。梅姐姐と似てるにおいがしてた。それで……『俺は梅雪メイシェの兄だ』って」

 憂炎はラン族だ。人間より嗅覚がすぐれている。
 紫月と紫霞ズーシャが同一人物だと、においでわかったのだろう。

 眉間をおさえる。いまだ続く頭痛のせいではない。

「ほかに、なんて言われたんだい?」
「……いろいろ」

 決まりだ。
 何様俺様紫月様は、高圧的な態度で憂炎に食ってかかったらしい。
 ぼそりと濁された返事を受け、ため息がおさえきれない。
 いたいけなこどもに、おとなげのないこと。

 かといって、紫月の理不尽を責めることはできない。
 彼の行動には筋が通っていると、もう知らないハヤメではないから。

 黙り込むハヤメになにを思うたか。どこか沈んだ様子の憂炎が、ぽつりぽつりと話しだす。

 ──とても危険な状態だ、だれかさんのせいでな。
 ──俺の妹だ、俺が助ける。
 ──だからか弱い坊ちゃんは、すっこんでろ。

 戸惑う憂炎へ一方的にまくし立てた紫月は、最後にこう結んだらしい。

 ──すこしでも腹を立てる元気があるなら、この部屋にだれも近づけさせるな、と。

明林ミンリンの姿が見えないのも、そのためか?)

 梅雪への過保護を思えば、憂炎に無理を通してでも押しかけてきそうなものだが。

「おれの、せいだよね……おれが、梅姐姐に噛みついたから……」
も、きいたのか?」

 きゅっと口を真一文字に結んだ憂炎が、力なく首を縦にたおす。

「おれも毒をもってるんだって。狼族はみんなもってて、これより強い毒はどこにもない……だから、ほかのどんな毒も『ころす』ことができるんだって、いわれた」

 ──忘れたのか、俺たちの『氷毒ひょうどく』が、なぜ狼族だけには効かないのかを!

 怒号ともとれる絶叫に対するこたえが、ここに在った。

 ザオ一族のもつ毒は、血をたちまちに凍てつかせるもの。
 一方で狼族のもつそれは、主に唾液中に含まれ、牙による刺傷で相手をしとめる。
 獲物の体内でじりじりとくすぶり、突然に燃えさかって、なにもかもを灰にしてしまうのだ。

灼毒しゃくどく』──別名『王毒おうどく』。
 この猛毒におかされた者は、迫りくる死の業火から決して逃れることはできない。
 火刑に処されたかのような血の沸騰に、死ぬまでさけび苦しむほかに、なすすべはない。

(……酩酊めいてい、しているようだ)

 頭痛とめまいのせいで、平衡感覚が危うい。
 きわめつけに異様な発熱を自覚したならば、『灼毒』による前駆症状を網羅だ。

(私は……死ぬのか)

 意外にも、恐れはなかった。
 ただすこし、さびしいと思う。

「ごめんね、梅姐姐……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいっ!」

 だけれども、わっと泣きだす憂炎の月白げっぱくの頭を、穏やかな気持ちでなでることができる。

「いいんだよ。憂炎は私をいじめようとしたわけじゃないんだから、あやまらなくていい」

 大丈夫だよと、うそでも口にできたらよかったのに。
 そうしたら、心やさしい少年の涙を、止めることができたかもしれないのに。

(梅雪が憂炎によって命を落とす運命ストーリーは、変わらない……か)

 まぁ、それもそうだろう。
 しょせん自分は脇役で、主役も悪役もつとまりはしないのだ。
 がすぐそこまで近づいているのが、なによりの証拠。

(ごめんね、梅雪……私なんかに身体を乗っ取られたせいで)

 まっさらな少女のいのちを、みだりに散らしてしまう。
 なるほど、地獄を永遠にさまようことでしか償えない罪だ。
 ならば、甘んじて裁かれようと思う。
 この物語に、ほんのすこしでも爪痕を、生きた証を遺せたのだから。

「憂炎、おいで」
「梅おねえちゃあん……!」

 ぽたぽたと敷布ににじむもようから、顔を上げる。
 おぼつかない足取りでやってきた憂炎のことは、袖と袖で閉じ込めてやろう。

「憂炎は憂炎のままでいて」

 弟ができたみたいだった。
 本当の家族のように、他愛もない日々をすごせた。
 それ以上に尊いことなど、あるものか。

「どんな理不尽があっても、ほかのだれになんと言われても、私は君の味方だから」

 言いながら、笑ってしまった。
 遺言のようだ。いや、そのままか。

「あいしてる」

 吐息のようなつぶやきに、しゃくり上げる憂炎の呼吸が止まった。

「これはね、『だいすき』よりも『だいすき』って気持ち。だから憂炎も、自分を嫌っちゃだめ。憂炎がえがおになれない場所は、憂炎の居場所じゃない」

 とめどなくこぼれる雫を、手のひらで受け止める。
 呆けたように見上げてくる柘榴の瞳は、どこまでも透きとおった赤で、吸い込まれてしまいそうだった。

「生きて。君の物語は、君がつむぐんだよ、憂炎」

 伝えたいことは、ぜんぶ伝えた。
 雨上がりのように、こころは晴れやかだ。

『あいしてる』を知った憂炎が、これからどう生きてゆくのか。
 悪役のままだろうか。それとも原作とは違う行動を取るだろうか。
 もしそうなら、話が違ってくるだろうって?
 おおいに結構。どうぞ脱線させまくってくれ。

 そんな運命ストーリーも、面白いだろう?

(悪役? いいや、君はヒーローだ)

 ハヤメの物語に色を与えてくれた、ハヤメだけの、特別な主役ヒーロー

「……おれ、もう泣かない」

 ぐしぐし、と袖で涙をぬぐった憂炎が、ぐっと前を向く。
 一等星のようにたしかな輝きを宿した柘榴の瞳に、しばし時を忘れて魅入ってしまう。

「梅姐姐、あそぼうよ。それか、おはなしする? きょうは夜ふかししても、いいよね」

 涙のすじが残る顔で、無邪気にはにかむ。
 なんて気丈な子だろう。
 いまだけはその気遣いに、甘えさせてほしい。

「そうだなぁ……」

 やり残したことは、ないとは思うけれど。
 きょろりと部屋を見わたして、みつけた。

「紙と、墨と、筆を持ってきてくれるかい?」

 ひとつだけ叶えたい、わがままがある。
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