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第一章『忍び寄る影編』

第十九話 こころ愛し【後】

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「ここに、俺の子を」

 死刑宣告にも等しい横暴に違いないのに、なぜだろう。
 祈りにも似た、一音一音を噛みしめるつぶやきを、跳ねのけることができない。

梅雪メイシェ……梅雪」

 単調につむがれていた声音は、いまや内なる熱に震え、水の膜が張った藍玉の瞳は、目下の少女しか映そうとしない。

「おまえがいとしくて、たまらないよ……梅雪……俺はおまえが、」

 言葉の終わりを、紫月ズーユェ自身がさえぎる。

「んっ……にいさま、待っ……」
「待つのはもういた」

 噛みつくのではなく、そっとついばまれ。
 一度、二度とふれた唇が、深くかさなる。
 口内に吐息を吹き込まれたら、もう。

 あまい口づけだった。絶えずぶつけられる熱情に、どうしたらよいのかわからない。
 紫月も浅く、深く、角度を変えて、夢中で唇をかさねていた。

 背を掬うように、抱き起こされる。
 脱力しきった身体はなすすべもなく、背筋をなぞって腰へ回る腕の感触を、どこか他人事のように思うことしかできない。

 拒むべきなのだろうか。
 それとも、受け入れるべきなのだろうか。
 なにが正解なんだろう。一体どうしたら。

 あぁ……頭が痛い。割れそうだ。

 しゅる、と帯がゆるめられ、えりがくつろぐ。
 あらわになった白い喉笛を、濡れそぼった赤い唇が点々と食む。

「あっ……あっ」

 そのたびに、鼻にかかった声がのどの奥からこぼれた。

「……猫よりい子だ」

 あまいかすれ声が、耳もとでささやく。
 いやでは、なかった。
 そう……最初から、おそれはあれど、嫌悪感はなかったのだ。

「紫月、兄さま……兄さま、きいて」

 きっと、梅雪じぶんは。

「あなたを疎ましく思ったこと、憎んだことなんて、ただの一度もないのです」

 そうだ、は。

「だからこそ、あなたに『愛している』と、伝えるわけにはいかなかった」

 いつしか苛むものはなくなり、冴えわたった脳裏によみがえる感情がある。

「あの曲のとおりだったのよ。私たちは……たがいを想うからこそ、すれ違ってしまったんだわ」
「……どういうことだ。俺を、憎んでない……? おまえはなにを言って」

 記憶が、流れ込んでくる。
 幼きころ、無邪気に遊び回った雪の日。
 琵琶を教えてもらったこと。
 楽しくて、楽しくて、かけがえのない日々で。

 そんな幸せが、跡形もなく崩れ去る恐怖。
 これは梅雪の記憶。

「紫月兄さま、あの曲には、続きが……うっ!」
「梅雪……どうした梅雪、しっかりしろっ!」

 崩れ落ちる妹の身体を、紫月は蒼白になって抱きとめる。

(……あれ、私は、どうして。勝手に、言葉が)

 ぼんやりと、ハヤメの意識が浮上する。
 見上げると、おのれを腕にかき抱いた紫月が、しきりに名をさけんでいる。

 泣かないでと言いたいのに、声にならない。
 はくはくと、口が開閉するだけだ。

 涙ながらにハヤメを揺すっていた紫月が、突然硬直する。
 まもなく藍玉の瞳に激情が燃えさかる。
 凝視していた先は、着物が乱れむき出しになった、ハヤメの右肩だ。

「なんだ、この傷は」

 当て布は取り払われ、患部がさらされている。

「獣の牙を突き立てられたような傷痕……おまえ、まさか、ラン族に噛まれたのか」

 紫月の声音が、みる間に抑揚と温度をなくしてゆく。

「あの糞餓鬼……殺してやる、殺してやるっ!」

 こんどは、ハヤメの血の気が引く番だった。

「やめ、て……憂炎ユーエンを、きずつけないで……!」
「ふざけるな! 忘れたのか、俺たちの『氷毒ひょうどく』が、なぜ狼族だけには効かないのかを!」

 やっとの思いで声を絞りだすも、激高した紫月の前では無意味で。

「噛まれたのはいつだ」
「……みっか、まえ」
「あぁくそ……時間がない」

 低くうなって舌打ちをした紫月は、ふところから『なにか』を取りだし、口に含む。
 すかさずハヤメへ口づけ、その『なにか』を舌先で押し込んできた。
 無味無臭の、飴玉のようなものだった。つばとともに、反射的に飲み下す。

「俺の作った霊薬だ。『千年翠玉せんねんすいぎょく』には遠くおよばないが……一時的に緩和くらいはできるだろう」

 咽頭をすべり落ちたものが、胃の噴門部ですぅ、と溶けだす感覚をおぼえる。

 異様に火照った身体が、すこしだけすっきりしたような感じがする。
 と同時に、ひどい眠気にみまわれた。

「こんな状態のおまえを、置き去りにしたくない……だが」

 もやがかかったように曖昧な意識のなか、ぎゅっと抱きしめる腕のぬくもりだけは、わかる。

「今晩までには。すぐに戻るから、それまで眠っていろ、梅雪」

 ひとたびほほをなぞった指が、離れてゆく。
 ろくに焦点も結べない視界では、伸ばした手はなにもつかむことができず。

 糸が切れたように、ハヤメの意識は暗転した。
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