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第一章『忍び寄る影編』
第十八話 こころ愛し【前】
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晴風と静燕は、仲むつまじい兄妹だった。
暮らしは貧しかったが、雪原を駆け回り、よく笑い、心豊かに幼少期をすごした。
やがて静燕は故郷一の美人に成長し、都へ行くことになる。宮仕えをするためだ。
晴風は別れを惜しみながら、妹を送りだした。
しかし何年待てども、静燕からのたよりがない。
娘を案じた父と母は病にたおれ、そのまま帰らぬ人となってしまう。
妹の身に、なにがあったのだろうか。
両親を亡くした悲しみに打ちひしがれながらも、晴風は都へと向かう。
そこで晴風が目にしたのは、きらびやかな宝玉と色とりどりの衣で着飾った美しい女、静燕だった。
きけば皇帝にみそめられ、妃となるのだという。
──どういうことだ。おまえのことを気に病んで、父も母も死んでしまった。
棺桶を買う金もなく、おれは髪を切り、それを売ってむしろに代えたのに。
晴風は涙ながらに訴えた。
──そんなことは知らない。
おまえのような小汚い坊主など、知らない。
出て行け、二度と姿を現すな!
心やさしい妹だった女は、金切り声を上げて晴風を追いだした。
人の欲にまみれ、静燕は変わってしまったのだ。
だれよりも愛していた妹の裏切りに、絶望した。
失意の果てに、晴風はただひとり、故郷にある雪山へ足を踏み入れる。
それから晴風の姿を見た者は、いない。
* * *
「梅雪──俺の妹。愛するおまえを、俺が殺してやるよ」
氷水で満たされた桶を、頭上でひっくり返されたかのような心地だった。
ぎりりと容赦ない拘束にきしむ、左手首の骨。
ハヤメはパッとひらいた左の手のひらを、右手で下から引っつかむ。
「おっと」
だが腕を大きく回すより先に、裾ごと足を払われてしまう。
視界に映った天井が急速に遠のく。
とっさに背を丸めた。わずかに首を右へかしげ、へそを見るように。
重力にしたがい、背が床板に叩きつけられるそのとき、ふわりと藤色の袖が視界をよぎる。
予想していた衝撃は、おとずれなかった。
「俺の手をはずそうとするだけでなく、受け身まで……ずいぶんと利口になったじゃないか」
先ほどより半音低くなった男の声が、頭上から注ぐばかり。
唇を噛む。あちらのほうが、一枚も二枚も上手だ。
じっと息を殺し、相手の出方をうかがう。
「利口で、健気で、愚かな妹だなぁ……」
衣ずれがきこえる。
腰から下ろされ、後頭に添えられた手をそっと抜かれる感触。
「俺がおまえを、傷つけるわけがないだろうに」
なにを言うか。
転ばせたくせに抱きとめて、姫のように横たえて。
かと思えば、殺すと告げた舌の根も乾かぬうちに、傷つけるわけがないとわらって。
ハヤメは腹の底からせり上がるものを感じた。
目の前の男がなにを考えているのか、まったく理解できない。
「我が愛しのお兄さまは、たいへん悪趣味でいらっしゃる」
それっきり沈黙するハヤメに、うっそりと笑みをたたえたままの紫月が、覆いかぶさってくる。
両手首は頭上でひとつにまとめ上げられ、膝を割り入れられているために足を動かすこともできない。
無抵抗な女と、それを組み敷く男。
今後の展開など、そう選択肢はないだろう。
「愛しい妹よ。俺がおまえを傷つけることはない。おまえが俺を傷つけなかったからな」
事あるごとに「愛しい」だとか「妹」だとかを強調する紫月は、自由な右手で、ハヤメのほほにかかる翡翠の髪を耳裏へ流した。
「正確には、俺のからだは、だが」
彼はなんのことを言っているのか。
思いだそうとすれば、こめかみのあたりがツキンと痛む。
「おまえは俺のからだに傷ひとつつけず、心をズタズタにしたのさ。だから俺も、おまえのからだにはかすり傷ひとつつけない。血の一滴も流させない」
あぁ、なるほど。
眉をひそめるハヤメのほほを、紫月はかまわず指の腹でなぞる。
ことさらゆっくり、何度も何度も。じっくりと獲物をなぶる、捕食者のようだった。
紫月は梅雪を憎んでいる。
けれど彼の目的は、梅雪を否定することではない。
「可愛い可愛い……俺の梅雪」
ほほの稜線をなぞる指が、おとがいに添えられる。
おのれを映す藍玉の瞳が、ふいにゆらいだ気がした。
「……俺にはおまえしかいなかったのに、幾度となくたしかめあった絆さえも、おまえはたやすく捨ててしまえるんだな」
「紫月兄さま、」
「だまれ」
ろくに発語もしないうちから、苛立ちを隠さない紫月の端正な顔が距離をつめる。
唇に唇が押しあてられ、やわく歯を突き立てられた。
頭が真白に染まる。
紫月はなにをしているんだ。
血を分けた梅雪の兄ではないのか。
なのにどうして、なぜなぜなぜ──
「にくい……おまえがにくいよ、梅雪……あぁ、愛い、愛い愛い愛い……」
重すぎる彼の感情は、実の妹に向けていいものではない。
「おまえに会えない六年の月日は、地獄のようだった!」
とたん硝子の瓶が割れたように、悲痛なさけびがほとばしる。
藍玉の瞳から、ぱたぱたと、雫がとめどなくしたたり落ちて。
「どうして突然、俺を突き放したんだ……俺が半端者の、獣だからか……なぁ教えてくれ、梅雪」
皮肉なことだ。
脳内は混乱真っ只中であるのに、その言葉の意味することを理解できてしまうなんて。
紫月はたしかに、梅雪を愛していたのだろう。
妹に対するものとしては歪んでいて、異性に対するものとしては真っ直ぐなこころで。
──兄妹だから、だめ。
そんな常識は通用しないことを、思いだした。
「……おまえの本意がどうであれ、俺を拒むことはできない。拒んではならない。俺のすべてを受け入れなければならないんだ──『氷毒』の継承のために。そうだろう?」
そう、そうだった。
早一族は、その類まれなる血筋の保存と継承のために、近親間での──年の近いきょうだいでの婚姻をくり返していた。
ならば、一族のほとんどが悲惨な死を遂げたいま、遺された紫月と梅雪が結ばれることは運命なのかもしれない。
紫月が人間の父と猫族の女性との間にうまれた、婚外子であったとしても。
「俺が憎いんだろう? それで俺を突き放したんだろう? だから俺はおまえを愛すんだよ。憎い俺に愛される屈辱を味あわせることこそ、おまえへの復讐なのさ。息もできないほど愛して愛して、骨の髄まで愛しつくしてやる。いっそ死にたくなるくらいおまえの心もズタズタに引き裂かれて、なくなってしまえばいい」
だから、と。
堰を切ったように押し寄せる言葉が、そこで途切れる。
薄い腹を、絹ごしになぞる指先がある。
「ここに、俺の子を」
暮らしは貧しかったが、雪原を駆け回り、よく笑い、心豊かに幼少期をすごした。
やがて静燕は故郷一の美人に成長し、都へ行くことになる。宮仕えをするためだ。
晴風は別れを惜しみながら、妹を送りだした。
しかし何年待てども、静燕からのたよりがない。
娘を案じた父と母は病にたおれ、そのまま帰らぬ人となってしまう。
妹の身に、なにがあったのだろうか。
両親を亡くした悲しみに打ちひしがれながらも、晴風は都へと向かう。
そこで晴風が目にしたのは、きらびやかな宝玉と色とりどりの衣で着飾った美しい女、静燕だった。
きけば皇帝にみそめられ、妃となるのだという。
──どういうことだ。おまえのことを気に病んで、父も母も死んでしまった。
棺桶を買う金もなく、おれは髪を切り、それを売ってむしろに代えたのに。
晴風は涙ながらに訴えた。
──そんなことは知らない。
おまえのような小汚い坊主など、知らない。
出て行け、二度と姿を現すな!
心やさしい妹だった女は、金切り声を上げて晴風を追いだした。
人の欲にまみれ、静燕は変わってしまったのだ。
だれよりも愛していた妹の裏切りに、絶望した。
失意の果てに、晴風はただひとり、故郷にある雪山へ足を踏み入れる。
それから晴風の姿を見た者は、いない。
* * *
「梅雪──俺の妹。愛するおまえを、俺が殺してやるよ」
氷水で満たされた桶を、頭上でひっくり返されたかのような心地だった。
ぎりりと容赦ない拘束にきしむ、左手首の骨。
ハヤメはパッとひらいた左の手のひらを、右手で下から引っつかむ。
「おっと」
だが腕を大きく回すより先に、裾ごと足を払われてしまう。
視界に映った天井が急速に遠のく。
とっさに背を丸めた。わずかに首を右へかしげ、へそを見るように。
重力にしたがい、背が床板に叩きつけられるそのとき、ふわりと藤色の袖が視界をよぎる。
予想していた衝撃は、おとずれなかった。
「俺の手をはずそうとするだけでなく、受け身まで……ずいぶんと利口になったじゃないか」
先ほどより半音低くなった男の声が、頭上から注ぐばかり。
唇を噛む。あちらのほうが、一枚も二枚も上手だ。
じっと息を殺し、相手の出方をうかがう。
「利口で、健気で、愚かな妹だなぁ……」
衣ずれがきこえる。
腰から下ろされ、後頭に添えられた手をそっと抜かれる感触。
「俺がおまえを、傷つけるわけがないだろうに」
なにを言うか。
転ばせたくせに抱きとめて、姫のように横たえて。
かと思えば、殺すと告げた舌の根も乾かぬうちに、傷つけるわけがないとわらって。
ハヤメは腹の底からせり上がるものを感じた。
目の前の男がなにを考えているのか、まったく理解できない。
「我が愛しのお兄さまは、たいへん悪趣味でいらっしゃる」
それっきり沈黙するハヤメに、うっそりと笑みをたたえたままの紫月が、覆いかぶさってくる。
両手首は頭上でひとつにまとめ上げられ、膝を割り入れられているために足を動かすこともできない。
無抵抗な女と、それを組み敷く男。
今後の展開など、そう選択肢はないだろう。
「愛しい妹よ。俺がおまえを傷つけることはない。おまえが俺を傷つけなかったからな」
事あるごとに「愛しい」だとか「妹」だとかを強調する紫月は、自由な右手で、ハヤメのほほにかかる翡翠の髪を耳裏へ流した。
「正確には、俺のからだは、だが」
彼はなんのことを言っているのか。
思いだそうとすれば、こめかみのあたりがツキンと痛む。
「おまえは俺のからだに傷ひとつつけず、心をズタズタにしたのさ。だから俺も、おまえのからだにはかすり傷ひとつつけない。血の一滴も流させない」
あぁ、なるほど。
眉をひそめるハヤメのほほを、紫月はかまわず指の腹でなぞる。
ことさらゆっくり、何度も何度も。じっくりと獲物をなぶる、捕食者のようだった。
紫月は梅雪を憎んでいる。
けれど彼の目的は、梅雪を否定することではない。
「可愛い可愛い……俺の梅雪」
ほほの稜線をなぞる指が、おとがいに添えられる。
おのれを映す藍玉の瞳が、ふいにゆらいだ気がした。
「……俺にはおまえしかいなかったのに、幾度となくたしかめあった絆さえも、おまえはたやすく捨ててしまえるんだな」
「紫月兄さま、」
「だまれ」
ろくに発語もしないうちから、苛立ちを隠さない紫月の端正な顔が距離をつめる。
唇に唇が押しあてられ、やわく歯を突き立てられた。
頭が真白に染まる。
紫月はなにをしているんだ。
血を分けた梅雪の兄ではないのか。
なのにどうして、なぜなぜなぜ──
「にくい……おまえがにくいよ、梅雪……あぁ、愛い、愛い愛い愛い……」
重すぎる彼の感情は、実の妹に向けていいものではない。
「おまえに会えない六年の月日は、地獄のようだった!」
とたん硝子の瓶が割れたように、悲痛なさけびがほとばしる。
藍玉の瞳から、ぱたぱたと、雫がとめどなくしたたり落ちて。
「どうして突然、俺を突き放したんだ……俺が半端者の、獣だからか……なぁ教えてくれ、梅雪」
皮肉なことだ。
脳内は混乱真っ只中であるのに、その言葉の意味することを理解できてしまうなんて。
紫月はたしかに、梅雪を愛していたのだろう。
妹に対するものとしては歪んでいて、異性に対するものとしては真っ直ぐなこころで。
──兄妹だから、だめ。
そんな常識は通用しないことを、思いだした。
「……おまえの本意がどうであれ、俺を拒むことはできない。拒んではならない。俺のすべてを受け入れなければならないんだ──『氷毒』の継承のために。そうだろう?」
そう、そうだった。
早一族は、その類まれなる血筋の保存と継承のために、近親間での──年の近いきょうだいでの婚姻をくり返していた。
ならば、一族のほとんどが悲惨な死を遂げたいま、遺された紫月と梅雪が結ばれることは運命なのかもしれない。
紫月が人間の父と猫族の女性との間にうまれた、婚外子であったとしても。
「俺が憎いんだろう? それで俺を突き放したんだろう? だから俺はおまえを愛すんだよ。憎い俺に愛される屈辱を味あわせることこそ、おまえへの復讐なのさ。息もできないほど愛して愛して、骨の髄まで愛しつくしてやる。いっそ死にたくなるくらいおまえの心もズタズタに引き裂かれて、なくなってしまえばいい」
だから、と。
堰を切ったように押し寄せる言葉が、そこで途切れる。
薄い腹を、絹ごしになぞる指先がある。
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