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第一章『忍び寄る影編』
第十三話 薫風を聞く【前】
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脇役として、あまたの異世界をわたり歩くこと幾星霜。
「お嬢さま……梅雪お嬢さまじゃありませんか!」
悲願を果たすため、目的地へ向かう主人公。
対義語は、目的地がやってくる悪役だと、世紀の大発見をした。
* * *
憂炎が腹を空かせている。
これはゆゆしき事態だ。
粟粥をやっと食べていた子の食欲が増したのは喜ばしいことだが、同時に焦りをおぼえる。
育ちざかりのこどもだ。もっと力のつくものを食べさせなければ。
突然ほほを甘噛まれた理由を、空腹のあまり点心と錯覚されたからに違いないと、ハヤメは信じてやまない。
取り急ぎ手ごろな食事処を探し、さっと往来へ首をめぐらせたときのことである。
「お嬢さま! やっぱり梅雪お嬢さまだわ!」
雑踏の向こうから、名を呼ばれたのは。
人波をかきわけ、ととと、と駆けてきた小柄な中年女性には、不思議と見覚えがある。
「……明林?」
「はい、はい! 乳母をしていた明林ですよう! あぁ梅雪お嬢さま、よくぞご無事で!」
手をとり、はらはらと涙を流して再会を喜ぶ明林を前にして、嗚呼……と無性に胸が熱くなる。
彼女はすべてを知っている人だ、と。
「ところでお嬢さま、そちらの坊やは……あら」
ふと明林のまなざしが逸らされるも、それが件の少年へ届くことはない。
ハヤメは明林へ沈黙を返すと、しがみついてきた憂炎の月白の頭を右の袖で覆う。
「人見知りな子で」
あまり多くを語らぬほほ笑みに、なにを思うたか。
しばし目を白黒させていた明林は、ふっくらとした丸顔にえくぼを刻んだ。
「さぞお疲れでしょう。たいしたおもてなしはできませんが、我が家へおいでくださいな。料理屋を営んでおりますのよ」
* * *
煤竹で編まれた空の鳥かごが、軒先に吊るされている。
はたして明林にとっての幸運となれたかどうかはわからないが、ありがたい申し出を受け、キラキラとした金泥で『福音楼』と書写された扁額の下をくぐる。
自宅も兼ねているというその場所は、しがない食事処と呼ぶには横広く、縦長い邸宅だった。
聞けば食堂を主とし、客栈も営んでいるという。
(立派な建物だなぁ。ちょっとしたお屋敷だ)
昼時ということもあり、一階の食堂でははちきれんばかりの客で満席。
二階にある最奥の宿泊スペースに案内されたが、下の階から伝わるあまりの熱気に、足のしもやけも気にならなくなりそうだ。
「こちらの街の名物は、真っ赤な麻辣火鍋だとか?」
「えぇ、冬の寒い時期になりますとね、みんな食べたがるんですよ。お持ちしましょうか」
「それが、さっき一目見ただけで、不思議と胸がいっぱいになりましてね」
「でしょうねぇ。お嬢さまは辛味より甘味がお好きでいらっしゃいましたもの」
憂炎と向かいあうよう、紅木の椅子に腰かけてすこし。
会話の合間に、慣れた様子で明林が手を動かしていた。
何度かに分けてさまざまな器に注いではこぼすをくり返すうちに、深い赤みをおびた茶が、湯のみのように背の高い茶器に注がれる。
その上から椀型の茶杯をかぶせ、ひっくり返したものを、まだ熱の残る聞香杯とともに茶托に並べて卓へ置かれる。
緑が目にもあざやかな、漆製の茶器だった。梅花の蒔絵がなんとも繊細だ。
「青茶です。寒冷地でも育つ、珍しい翠薫肉桂の茶葉を使っておりますわ」
「ありがとう、いただきます」
まずもって、聞香杯で茶の余韻を聞く。
金木犀を思わせるかぐわしさが、すっと鼻腔に広がった。
次いで茶杯を手に取り、そっとふちに口づける。
強い香りのわりに甘さはひかえめで、じんわりと微熱をやどした舌に、水蜜桃のような瑞々しさがほのかに残った。
茶葉の質。淹茶の技術。どちらも身体の芯にしみわたる一級品だ。
「あたたまるねぇ。憂炎も飲んでごらん。熱いからゆっくりね」
こくりと首を縦にふった憂炎は、ふー、ふーと息をふきかけてから、ハヤメがしたように茶杯に口をつける。
人の身に慣れていないからか、ぎこちない手つきだ。
(まだ箸も苦手だもの、しばらくは手助けがいるなぁ)
いじらしい少年の悪戦苦闘を頬杖でながめる心境は、まんざらでもなかった。
はたから見てもほほ笑ましい姉弟のやりとりだろうと自負するハヤメながら、ふと見やった先の明林は、目じりの小じわが伸びるほど瞳をまあるくさせた。
「お嬢さま……なんだかちょっと、雰囲気が変わられましたね?」
来たか、と。
「お嬢さま……梅雪お嬢さまじゃありませんか!」
悲願を果たすため、目的地へ向かう主人公。
対義語は、目的地がやってくる悪役だと、世紀の大発見をした。
* * *
憂炎が腹を空かせている。
これはゆゆしき事態だ。
粟粥をやっと食べていた子の食欲が増したのは喜ばしいことだが、同時に焦りをおぼえる。
育ちざかりのこどもだ。もっと力のつくものを食べさせなければ。
突然ほほを甘噛まれた理由を、空腹のあまり点心と錯覚されたからに違いないと、ハヤメは信じてやまない。
取り急ぎ手ごろな食事処を探し、さっと往来へ首をめぐらせたときのことである。
「お嬢さま! やっぱり梅雪お嬢さまだわ!」
雑踏の向こうから、名を呼ばれたのは。
人波をかきわけ、ととと、と駆けてきた小柄な中年女性には、不思議と見覚えがある。
「……明林?」
「はい、はい! 乳母をしていた明林ですよう! あぁ梅雪お嬢さま、よくぞご無事で!」
手をとり、はらはらと涙を流して再会を喜ぶ明林を前にして、嗚呼……と無性に胸が熱くなる。
彼女はすべてを知っている人だ、と。
「ところでお嬢さま、そちらの坊やは……あら」
ふと明林のまなざしが逸らされるも、それが件の少年へ届くことはない。
ハヤメは明林へ沈黙を返すと、しがみついてきた憂炎の月白の頭を右の袖で覆う。
「人見知りな子で」
あまり多くを語らぬほほ笑みに、なにを思うたか。
しばし目を白黒させていた明林は、ふっくらとした丸顔にえくぼを刻んだ。
「さぞお疲れでしょう。たいしたおもてなしはできませんが、我が家へおいでくださいな。料理屋を営んでおりますのよ」
* * *
煤竹で編まれた空の鳥かごが、軒先に吊るされている。
はたして明林にとっての幸運となれたかどうかはわからないが、ありがたい申し出を受け、キラキラとした金泥で『福音楼』と書写された扁額の下をくぐる。
自宅も兼ねているというその場所は、しがない食事処と呼ぶには横広く、縦長い邸宅だった。
聞けば食堂を主とし、客栈も営んでいるという。
(立派な建物だなぁ。ちょっとしたお屋敷だ)
昼時ということもあり、一階の食堂でははちきれんばかりの客で満席。
二階にある最奥の宿泊スペースに案内されたが、下の階から伝わるあまりの熱気に、足のしもやけも気にならなくなりそうだ。
「こちらの街の名物は、真っ赤な麻辣火鍋だとか?」
「えぇ、冬の寒い時期になりますとね、みんな食べたがるんですよ。お持ちしましょうか」
「それが、さっき一目見ただけで、不思議と胸がいっぱいになりましてね」
「でしょうねぇ。お嬢さまは辛味より甘味がお好きでいらっしゃいましたもの」
憂炎と向かいあうよう、紅木の椅子に腰かけてすこし。
会話の合間に、慣れた様子で明林が手を動かしていた。
何度かに分けてさまざまな器に注いではこぼすをくり返すうちに、深い赤みをおびた茶が、湯のみのように背の高い茶器に注がれる。
その上から椀型の茶杯をかぶせ、ひっくり返したものを、まだ熱の残る聞香杯とともに茶托に並べて卓へ置かれる。
緑が目にもあざやかな、漆製の茶器だった。梅花の蒔絵がなんとも繊細だ。
「青茶です。寒冷地でも育つ、珍しい翠薫肉桂の茶葉を使っておりますわ」
「ありがとう、いただきます」
まずもって、聞香杯で茶の余韻を聞く。
金木犀を思わせるかぐわしさが、すっと鼻腔に広がった。
次いで茶杯を手に取り、そっとふちに口づける。
強い香りのわりに甘さはひかえめで、じんわりと微熱をやどした舌に、水蜜桃のような瑞々しさがほのかに残った。
茶葉の質。淹茶の技術。どちらも身体の芯にしみわたる一級品だ。
「あたたまるねぇ。憂炎も飲んでごらん。熱いからゆっくりね」
こくりと首を縦にふった憂炎は、ふー、ふーと息をふきかけてから、ハヤメがしたように茶杯に口をつける。
人の身に慣れていないからか、ぎこちない手つきだ。
(まだ箸も苦手だもの、しばらくは手助けがいるなぁ)
いじらしい少年の悪戦苦闘を頬杖でながめる心境は、まんざらでもなかった。
はたから見てもほほ笑ましい姉弟のやりとりだろうと自負するハヤメながら、ふと見やった先の明林は、目じりの小じわが伸びるほど瞳をまあるくさせた。
「お嬢さま……なんだかちょっと、雰囲気が変わられましたね?」
来たか、と。
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