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第一章『忍び寄る影編』

第六話 凍てつく毒【前】

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 武侠ロマンスファンタジーである『氷花君子伝ひょうかくんしでん』の舞台、央原おうげんには、獣人じゅうじんなる種族が存在する。
 古くから亜人とさげすまれ、ひなびた地へ追いやられたり、人のふりをしたりして、罪人のような暮らしをしいられてきた。
ラン族』も、そうした獣人族のひとつだ。

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 よってこれは梅雪メイシェというからだにきざまれた、江湖こうこの常識となる。
 なんとも面白い。楽天家のハヤメですら、ぴくりともわらいが起きなかった。

(とくに『狼族』への迫害は、ひどいときく)

 腹を空かせて人里へおりたところで、奴隷商に目をつけられるか、力のないこどもであるのをいいことに、民衆からいわれのない暴行を受けるか。

 いや、愚問だった。
 憎悪にたぎる紅蓮の瞳は、そのすべてを目の当たりにしたものだ。
 ならば人であるハヤメを憎むのは、当然といえよう。

「私は君を傷つけないよ」
「うそをつけ! おまえたちはいつもそうだ、善人の皮をかぶったケダモノめ!」
「傷つけない。もう二度と」
「なっ……なにをするつもりだ! やめろ、来るな来るな来るなっ!」

 信じてくれなどと、おこがましいことは言うものか。
 だけれども、これだけは。

「……なぐってごめんね。突き飛ばして、ごめんね。痛かっただろう」

 これだけは、伝えさせてはくれまいか。

「おいで」

 倒れた少年の手をとる。
 努めてやさしく抱き起こしたやせっぽちのからだを、袖で包み込んだ。
 なすすべもなく胸もとへもたれた少年は、柘榴の瞳を見ひらく。

「な、にを……」
「こんなところで凍え死ぬのは嫌だからね」

 これは我が身かわいさにしていること。手前勝手な横暴。
 だからつべこべ言わずに体温をよこせと、有無を言わさずにかこい込む。

(怖いよね。たった独りで……寂しくないはずがないよね)

 自分がそうだったように。
 恩着せがましいことはしたくないから、少年の言ううそつきになる。
 ハヤメがわけてあげられるものなんて、ほんのすこしばかりの、ぬくもりしかないのだから。

 ながいながい静けさがあって、少年の肩がふるえだす。

「なん、で……おかしい……こんなの、しらない」

 嗚咽おえつによるものかと思ったが、それだけではなかった。呼吸の乱れが、腕のなかの体温の上昇が、異常だ。

「君──」
「その声、いやだ、あたま、へんになる、からだ、おかしくなる……あぁっ、あつい! はなせ、はなせぇッ!」

 咆哮ほうこうのような叫びが響きわたった刹那、ぐりんと視界がまわる。
 突き飛ばされたのだ。あの非力な少年に。
 かしいだ体勢のまま、虚空に手を泳がせることしかできない。

《まずいっ……ハヤメさん!》

 クラマの呼びかけにも、反応できなかった。
 闇に灼眼が燃え上がる。
 鋭利なものが、右肩へ食い込んだ。

「うぐっ……ぁ……!」

 皮膚を破られる感覚の直後に、熱の奔流が押し寄せる。
 突きたてられたのは、少年のするどい牙だった。なさけ容赦なく根もとまで抉り込まれる。
 どろりとあふれだしたものが、肩口から胸もとへかけて生成りを紅にぬりつぶした。
 本能的に突き飛ばし、再び床板へ打ちすえそうになるのを、今度はこらえた。

「……大丈夫、だ」

 静脈を突きぬけ、神経までやられたか。
 ばちりと脳内がはじけるようだ。激痛なんて言葉では生ぬるい。
 それでもなお、ハヤメは声をしぼりだした。

「大丈、夫……君の好きに、しなさい。これは、意味のある、ことだ」

 はーっ、はーっと荒れていた呼吸が、水を打ったように静まりかえる。
 おもむろに牙を抜かれ、うめき声をくぐもらせたハヤメは、崩れ落ちる拍子に後頭部を壁で打つ。

 痛みのあまり肩で息をすれば、傷口に響く。
 息をとめて耐えようとしたけれども、長くは続かず、かえってせき込む結果に終わった。

 ぱたり、ぱたり。

 霞む視界で無理やりに焦点をあわせる。
 口端から血をしたたらせる少年が、呆然と相対していた。

「ちが……おれは、こんなつもりじゃ……」

 か細い声がわなわなとふるえ、静寂に飲み込まれてしまう。
 そうだ。どんなに強がっていても、まだ幼いこどもなのだ。
 自分が誰かを傷つけたこと、それがこんなにも鮮烈な光景であることは、耐えがたいはず。

「……いたずらに傷つけあうことは、無意味だ。そのことに気づけたなら、君のしたことは、意味がある」

 魂が抜けたようにひざから崩れ落ちた少年へ、不思議とこぼれた笑みを贈る。

「これでおあいこにしよう」

 瑠璃色の瞳がほころんだ次の瞬間、はじかれたように手で床板を叩く少年。
 薄く笑いながら壁にもたれかかるハヤメへ飛びかかったが、それはとどめを刺すためではなく。

「とまれ!」

 肩口をかばうハヤメの左手を押しのけて、ひとまわりちいさな手のひらが押しつけられた。

「とまれ、とまれよ! おねがい、とまって……!」

 柘榴の瞳から大粒のしずくがあふれる。
 ろくに見えていないだろう。ガクガクとふるえる手つきで出血部位を押さえ込まれる。
 それは稚拙だけれど、ひたむきだった。
 少年は目を背けなかった。
 このときはじめて、ハヤメと向きあったのだ。

「血が、しんじゃう……!」
「はは、まだ殺さないでくれ」

 死ぬほど痛ければ見た目も派手だが、致死量ではないだろう。
 スパッとひと思いにやられたわけでもなし、牙で穴をあけられた程度だ。傷口そのものはちいさい。

「あんまり泣くと、そのきれいな柘榴石がとけてしまうよ」

 腕を持ち上げるのは億劫おっくうだった。
 だが、手を伸ばせばふれる距離に少年がいた。
 そっと背をなでる手をこばむものは、もうどこにもない。

「……へんなやつ」
「あらそう?」
「おまえみたいな人間……みたことない」
「ははは、さながら珍獣か。そりゃどうも」

 ハヤメはひそかに感動していた。
 なぜなら、会話ができている。これはすごいことだ。

「私はハヤ──こほん、梅雪という。君の名前は?」
「……憂炎ユーエン

 いまならお近づきになれるかもしれない。
 ダメもとでたずねたところ、ぼそりと返答あり。
 これには言い出しっぺながら、ぽかんとしてしまい。
 だがそこはポジティブ思考のハヤメ。

「そうかい。すてきな名前だねぇ、憂炎!」

 下心のしの字もないストレート投球を、少年あらため憂炎はまともに食らった。
 ふいとそっぽを向く憂炎を、ハヤメはほほ笑ましげにながめる。どうやらシャイな子のようだ。

《真っ白な髪に、赤い瞳の、憂炎……待てよ。待ってください、ハヤメさん、そのこどもは……!》

 上機嫌なハヤメは、急に声色を変えたクラマに気づかない。
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