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本編

*45* 想いと愛

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 ふわり、ふわり。

 ──宙に浮いている?

 ぷかり、ぷかり。

 ──水中を漂っている?

 どちらとも取れない。ただただ静かな無の世界で、誰かに呼ばれた気がした。

「……リ…………セリ」

 投げ出した指先にぬくもりがふれた刹那、ぐっと意識を引き寄せられる。
 あたしは自らの足で佇んでいた。目の前には、ほっと息をつく少年の姿があった。

「……ジュ、リ……?」

「うん、オレだよ。よかった。成功だね」

 成功……? ジュリは何のことを言ってるんだろう。
 まだぼんやりと鈍い思考回路を動かし、直前までのことを思い返す。
 お昼を食べたらジュリの部屋でおしゃべりしていて、それから──

「闇魔法を使ったんだよ」

「そうだ、じゃあ、ここは」

「オレの精神世界。オレのすべてが詰まっている場所さ。母さんの精神だけを、ここに連れてきた」

 これが、精神に干渉する闇魔法。

 ぐるりと首を巡らせてみる。
 見渡す限りの真っ暗闇だった。あたしたちの周りのごくわずかな範囲のみが、淡く浮かび上がっているだけだ。
 光が射しているわけじゃない。視覚が順応したのだろう。

「行きながら説明するね。こっちだよ」

 現在地も方角もわからない。
 そんなことは、くいとあたしの手を引き、迷いのない足取りできびすを返したジュリにとっては、些末だったようだ。

 繋がれた右手をぎゅっと握り返し、歩み出した背に続く。
 靴底でしっかり捉えているはずなのに、見えない地面は感触がない。宙を歩いているみたいだ。
 空中散歩とは、このことを言うのかもしれない。

「マザーのことはマザーにしかわからない。だからオレは、こどものことを教えるよ」

「それが、ジュリが『見てもらいたい』って言ってたもの?」

「そういうこと。オレたちこどもはね、自分のマザーをはじめて目にした瞬間に、自我が形成されるんだ。そこから、人としての記憶を持ち始める。普通ならね」

 まるで、例外があるとでも言わんばかりだ。そのまさかだった。

「オーナメントは命の器。マザーの愛を受け入れるために、本来は空虚であるべきもの。だけどオレには、そのときの記憶がある」

「オーナメントのときの……?」

 あたしのいた世界でも、生まれて間もないと、お母さんのお腹にいたときのことを覚えている子もいるって聞いた気がする。それと似たようなことなんだろうか?

「普通ならあり得ないことだ。なのに何故オレには、生まれる前の記憶があるのか……それは、オーナメントに込められた『想い』が、強すぎたからなんだ」

 オーナメントを生み出す『想い』。
 それを満たすマザーの愛。
 このふたつが絶妙に合わさることで、新たな生命は誕生する。
 しかしながら、その均衡が崩れてしまった──

「込められた『想い』が、魔力が強すぎた。信じられないけど、マザーの神力に匹敵するほどに。そのためにオレは、自我を持たないながらも、あなたの愛を受ける前にオーナメントに宿ったんだ」

「……ちょっと、待って?」

 それはおかしくないだろうか。
 だってオーナメントに『想い』を込めたのも、愛を込めたのも、あたしのはずだ。
 あの七夕の夜に、『こどもがほしい』……って。

 そこまで考えて、ふと思い出す。
 あれ……オーナメントって、ブドウの粒くらいの大きさじゃなかった?
 だけどあの夜に目にしたものは、野球ボールほどに大きかった。
 それを酔っ払ったあたしは、

 ──成熟したオーナメントを祈りと共にセフィロトへ捧げることで、こどもが生まれるわ。

 オーナメントとは、母胎で育まれるもの。
 あのは、一体いつ、どこから現れた……?

 あたしの祈りが愛でしかなかったなら……
 あの種を生み出した『想い』は、一体誰が。

 果てしない暗闇の中、ふと『誰か』の気配を感じた。

「『イノセント・メア』は、記憶に干渉する闇魔法だ。過去に経験したその日、その瞬間の世界へ入り込むことができる。……それ以上の干渉は、できないけどね」

 ジュリの言葉を受け、ひとつまばたきを挟めば、一面の漆黒がフェードアウトする。
 やがて、月明かりを浴びる人影を認めた。

 細身ながらしっかりとした身体つき。
 しなやかな手足に、広い背。
 そして、濡れ羽色の癖毛。

「……ゼノ……?」

 自分で口にしておきながら、胸のざわめきがおさまらない。

「……実を言うとさ、屋敷の地下室でゼノをはじめて見たとき、オレも驚いたんだよ」

 ぽつりとこぼされる独白が、どこか遠い。

「なんでこんなに、見覚えがあるんだろうって」

 ジュリが何を見せ、何を伝えようとしていたのか。その答えが、今まさに目前にある。

「……ごめん」

 沈黙が打ち破られる。声の主はあたしじゃない。ジュリでもない。

「ごめんなさい……星凛」

 うわ言をこぼした青年が、膝から崩れ落ちる。
 モノクロで統一された部屋。見覚えなんて、ありすぎるくらいだ。
 夜の静けさに飲み込まれたその場所で、青年は蹲っていた。

 忘れるはずがない。
 その声、その姿を。

「僕は貴女と、一緒にいちゃいけない……」

 ──暁人。

 叫んでしまいたい名前が、声にならない。
 床に縫いつけられてしまったみたいに、足が動かない。
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