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本編

*30* 霧雨の街で ネモSide

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 ──あれは、偶然だった。

 鋼の塊を背負い、夜通し駆けても乱れることのない呼吸が、短く途切れる。

 ──恐れ?
 ──驚き?
 ──怒り?

 そのいずれとも言い切れない。
 すべてを放り込んで滅茶苦茶に掻き回したものが、たった今目の当たりにした光景に対する心境なのだ。

「俺の……俺のオーナメントが……よくも……よくもォオ!!」

 馬上から飛び降りる。
 水溜まりを蹴り、霧雨の降りしきる鈍色の景色を駆け抜ける。

「ウィンローズ騎士団です、そこまでよ!」

 立ち上がる気力も残っていないだろうことは明らかだった。
 それでも容赦なく、非情に泥濘へ突き倒さねばならない理由があった。

「離せ……離せぇッ!!」

「大人しくしなさい!」

「がッ……!」

 延髄めがけ、手刀をひと太刀。
 どっと鈍い打撃音に身を強ばらせた男の腕が、糸の切れた人形のように崩れ落ち、水溜まりを叩いた。

 動くもののない静寂を、細かな雨音が埋め尽くす。
 組み敷いた男の上から退くと、遅れて右手が熱を宿す。

 ……肌を、人を打つ感触はいつになっても慣れない。手袋をしていても、生々しい摩擦を知らしめる。
 男の血走った、苔むした泥水のような色の瞳が、脳裏に焼きついて消えない。

「……連れて行くなら、早くして」

 霧雨に滲む街で、静寂は破られる。
 男の視線の先、私たちに背を向けるかたちで佇んでいた少年のものだ。

「失礼ながら、こちらの『色を失いし者』の関係者とお見受けします。お話を伺いたく、ご同行願いたいのですが」

「悠長なこと言ってる場合? 早くしないと死ぬよ、その人」

 少年は青藍の髪を雨風に吹かせるのみで、こちらを振り返ろうともしない。

「今死ぬか、後で死ぬかの違いだけどね」

『色を失いし者』──『濁眼クラウディ・アイ』。
 人の心を忘れ、道を誤ったがために神聖なる世界樹から罰を下された者の末路は、ことごとく終焉のみである。
 それがエデンの掟だ。だが彼が説いているのは、そういった次元の話ではない。

 私と言葉を交わす間もずっと、少年はその腕に『誰か』を抱きかかえていた。
 雨に晒されないよう外套に包み込まれたその人の詳細を、うかがい知ることはできない。
 ただ華奢な身体つきから、小柄な女性であるように思えた。

「──オレと母さんの平穏を、邪魔しないで」

 おもむろに振り返った少年へ、釘づけになる。
 まさか、そんな……けれど錯覚などではなかった。
 相対した少年が、濡れた夜空の双眸で私を捉えていたことは。
 はじめて目にする。それなのに、それが何を意味しているのかを、咀嚼して、嚥下できる。

 ──『夜眼ナイト・アイ』。

 吉兆を知らせる星が、何故だか私には、酷く哀しい色を帯びているように見えた。


  *  *  *


 故郷の地は、今日ものびやかな青空が広がり、うららかな風が草花をくすぐっていた。

「遠征お疲れさま、ネモ」

 厩舎きゅうしゃに相棒を送り届けたところで、視界を夕映え色が掠めた。
 いつも報告書に追われている妹が、今日に限ってはわざわざお出迎えしてくれるわけに、思い当たる節がないわけではない。

「今回も多かったでしょ、モンスター」

「いつも通りよ」

「例の彼は、ローゼリアン大聖堂に搬送してあるわ」

「えぇ」

「大丈夫よ。もう彼は独りじゃない。最期は、花が一緒だから」

「……そうね」

 彼と私たちは同じ大地を故郷としていた。だからこそ連れ帰ってきたというのに、胸に渦巻く感情は達成感とは程遠い。

 セントへレムとの地境からあふれ出たモンスターの討伐は、これまでも行ってきたことだ。今回もさほど難しくない任務のはずだった。
 それが……突如として感知された爆発的な魔力反応に、夢中で馬を走らせた結果が、こんな。

「お母様は?」

「今は落ち着いてる」

 簡潔な返事だけれど、パピヨン・メサージュを飛ばしてからの1週間が壮絶なものであっただろうことは、想像に難くない。

 我がウィンローズの民が、『濁眼クラウディ・アイ』として捕らえられたこと。
 そして……ひと粒のオーナメントが、萎れてしまったこと。
 この短期間で失われたものは大きすぎた。
 どうして神は、あんなにも心優しく愛情深いひとに、これほど残酷な運命を強いるのだろう。

「ヴィオ姉様が呼んでる。行ってあげて、ネモ」

 ふと落とされたペリドットのまなざしを受け、無意識のうちにこぶしを握りしめていたことに気づく。

「わかったわ、モネ」

 ひとつ呼吸をして、踵を返す。
 まとわりつく鬱々とした心境を振り払うように、ブーツを打ち鳴らして。
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