共鳴の彼方

第五章 解放

心の距離

　キャンパスの森の木々が風にざわめき、夕暮れの空が赤く染まっていた。知紘は心臓が高鳴るのを感じながら、足を止めた。目の前には千影が立っている。無表情で、いつものように何もかもを見透かすような静かな眼差しを向けている。

　しかし、今の知紘にはその沈黙が耐えられなかった。遼からの告白が頭の中でぐるぐると回り、何が本当で何が嘘なのか、わからなくなっている。千影が何を考えているのか、なぜ彼はいつもこうして平然とした態度を取れるのか、すべてが不安を掻き立てた。

「どうして……ちか……お前は……」

　知紘は息を荒げながら口を開いた。声が震えているのが自分でもわかった。感情が胸の中で膨れ上がり、言葉を選ぶ余裕などなかった。

「どうして、お前は何も言わないんだ！」

　千影の眉が微かに動いたが、それ以上は反応しなかった。知紘はその無反応にさらに苛立ちを募らせた。

「お前は……お前はいつも、何も話さない。何か知っているはずなのに、僕がこんなに苦しんでるのに……！」

　声は次第に高まり、怒りが言葉に乗り移った。知紘は今、千影を責めずにはいられなかった。

「もう何もわからないんだ、何もかもが混乱してるんだ！　お前はなんでそんなに冷静なんだよ！　なぜ、何も感じてないみたいな顔をしてるんだ！」

　千影は知紘の言葉を黙って聞いていた。知紘の苛立ちは次第に高まり、涙が滲んできた。千影はどうして、何も言わずに立っているのか。その沈黙が、まるで自分を拒絶しているかのように感じられた。

「お前は、僕がこんなに崩れそうになってるのに、どうして何も言わないんだ！」

　知紘は拳を握りしめ、千影の胸に押し付けるように言葉をぶつけた。だが、千影は一歩も動かなかった。ただ静かに知紘を見つめていた。

「お前だって、逃げてるだろう？」

　その一言が、知紘の心に深く突き刺さった。千影の冷静な声は、まるで凍りついた刃のようだった。

「えっ……？」

「お前だって、自分から目を逸らしている。俺に怒鳴ってるのも、自分の苦しみを他人に押し付けたいだけじゃないのか？」

　千影の言葉は痛烈だったが、その目にはどこか哀しみがあった。知紘は一瞬、何も言い返せなかった。千影の言うことが的を射ているのだと、自分でも気づいていた。だが、それを認めたくなかった。認めてしまえば、もう自分が壊れてしまう気がした。

「そんなこと、言うな……！」

　知紘は声を震わせながら言い返す。

「僕は……僕はただ、お前に助けてほしかっただけなんだ……」

　その瞬間、千影の表情が微かに変わった。知紘の言葉が、彼の心に何かを呼び起こしたかのように見えた。

「助ける……？」

　千影は低く呟いた。その声には、いつもの冷静さではなく、何か奥深い感情が滲んでいた。

「俺だって……どうしたらいいのか、わからないんだ」

　それを聞いた瞬間、知紘の心の中で何かが崩れた。千影もまた、自分と同じように迷い、苦しんでいるのだと、初めてはっきりと理解した。

　二人の間に重苦しい沈黙が流れた。知紘は感情を吐き出しすぎて、もう何も言うことができなかった。千影もまた、言葉を失っているようだった。

　だが、その沈黙の中で、知紘は初めて千影の心に触れた気がした。千影もまた、自分の内面と向き合いながら、苦しんでいるのだということを。

「千影……」

　知紘は震える声で彼の名前を呼んだ。それだけで、今の自分には十分だった。千影もまた、静かに知紘の名前を呼んだ。

　二人は完全に和解したわけではない。しかし、心の奥底で互いを理解し合う小さな兆しが生まれた。

　キャンパスの森の木々たちさえも、二人の沈黙に共鳴したかのように静まり返っていた。

　知紘は千影の目をじっと見つめた。彼の心の中には、言葉にならない思いが渦巻いていた。二人の距離は、ほんの少しずつ縮まっているように感じられた。

「ごめん、……つい、言い過ぎて……」

　思わず口にしたその言葉は、千影に向けた素直な謝罪だった。知紘は自分の感情を抑えきれず、相手にぶつけてしまったことを反省した。千影の表情は変わらず冷静だったが、彼の目には少しだけ柔らかさが宿っているように見えた。

「大丈夫だ。お前の気持ちは、痛いほど分かる」

　その言葉は、知紘の心を温かく包み込んだ。千影は、いつも自分を見つめる眼差しを変えずに、内面を理解してくれているように感じた。

「僕は……もっと……知りたいんだ。千影のこと、知りたいんだ」

　言葉を絞り出すように、知紘は続けた。千影の反応を伺いながらも、恐れずに自分の気持ちを伝えることができたのだ。すると、千影は少し驚いたように目を大きくし、次第に微笑みを浮かべた。

「そうか。俺も、お前に知ってほしいことがある」

　その言葉に、知紘の心は高鳴った。お互いの心が通じ合おうとしている。この瞬間、少しずつ理解し始めていると感じられた。

「俺は、弟……千光のことを……お前が思っている以上に大切に思っている」

　千影がそう告げると、知紘はその言葉の重みを感じた。弟の存在が、千影にとってどれほど重要であるかが伝わってきた。
　
「千光が亡くなったこと、今でも俺の心に重くのしかかっている。それでも、前に進むためにはお前が必要だ」

　千影の声は、少し震えていた。知紘はその言葉を受け止め、千影の強さを改めて感じた。彼もまた、過去に縛られながらも、少しずつ歩き出そうとしているのだ。

「僕にとっても……千影が必要なんだ。千影だから、少しでも前に進める気がする」

　その言葉を聞いた瞬間の千影の笑みは、知紘が初めて見るものだった。心の奥で温かい感情が広がるのを感じた。千影と共に過ごすことが、自分の過去と向き合う一歩になるのかもしれないと、少しずつ思い始めていた。

「お前は、どんな未来を描いている？」

　千影が問うと、知紘は少し考えた。自分の未来を考えることが、どれほど難しかったか。だが、千影の存在が自分に希望を与えてくれる。

「未来か……今はまだ見えないけど、僕は千影と一緒にいたい」

　その言葉は、知紘の心から自然に湧き出た。千影は驚いたように知紘を見つめたが、次第に柔らかな表情に変わっていった。

「それなら、少しずつ進んでいこう」

　千影の言葉には、どこか決意が感じられた。知紘は微笑みを返し、二人の間に新たな絆が芽生え始めたのを感じた。