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第三章 交差
暖かな温もり
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部屋の静寂がまるで重たく覆いかぶさるように感じられる。夏目先生の冷たい手が、ゆっくりと知紘の頬から顎へと滑り落ちていく。知紘はその動きに抗うこともできず、ただ身を委ねていた。身体が麻痺したかのように、思考は霞み、何も考えられなくなる。恐怖を感じながらも、その恐怖を表現する術さえも失っていた。
「……知紘、怖くなんかないよ。そう、そうやって、大人しくしてればいいんだ。私にすべて委ねておけばいい……」
知紘の首筋に先生の顔が埋まる。優しいはずの声が媚薬を含んだように知紘の耳元を痺れさせた。
先生の顔が徐々に近づき、知紘の視界がその存在で埋め尽くされていく。心の奥底で、何かが強く警鐘を鳴らしていた。止めなくてはならない、このままではいけない――そう感じながらも、言葉は出ない。
「やめて……ください……先生……」
か細い声で抗うも、その言葉は空気の中で溶けていった。
――その瞬間。
部屋のふすまが乱暴に開け放たれた音が響き渡った。知紘の体がビクリと震え、夏目先生の手もピタリと止まる。二人の視線が一斉に入り口へ向かうと、そこには湊千影――先生が立っていた。普段の冷静さは影を潜め、その紫の瞳には怒りが宿っている。
「雪生、そいつから離れろ」
低く静かな声。それは抑えられた冷徹な怒りをはらんでいた。湊先生の鋭い視線が夏目先生を射抜くように睨みつけ、部屋の空気が一気に張り詰める。知紘はその姿を見て一瞬安堵を覚えたが、身体の震えは止まらない。どこかで、自分はもう「普通」には戻れないという直感があった。
夏目先生は知紘から手をゆっくりと離し、立ち上がる。そして、冷ややかな微笑みを浮かべたまま、湊先生に向き直った。
「千影、早かったね。ふっ、もう少しで知紘君の心に触れられたのに、残念だよ」
その言葉には挑発的な響きが含まれていた。湊先生は一歩、前に出た。その動きは鋭く、まるで獲物を追う狩人のような気配をまとっている。
「雪生……お前の相手は、俺だろう?」
低く吐き出されたその言葉には、冷たい怒りが籠っていた。その一言で、夏目先生の微笑みがふっと消える。二人の間に張り詰める緊張は、今にも切れそうな糸のように感じられた。知紘は息を呑んだまま、動けずにいる。
部屋全体が急に狭く感じられ、空気が重たくなっていく。まるで壁が知紘に向かってじりじりと迫ってくるような感覚だ。ふいに、海の波の音が耳に蘇る。それと同時に、冷たい水の感覚が肌を覆う。遠くから誰かの叫び声を聞いた気がした。
『ちか……ぼく、こわい』『ちひろ、逃げろ!』『ちかを離せ!』『早く! 逃げろ、ちひろ!』
頭の中に鋭い声が響き渡った。まるで何かが心の奥を引き裂くような感覚に、知紘は思わず体を丸めた。『ちひろ、逃げろ!』――その言葉が、幾度も繰り返される。
「うわぁ!」
知紘は思わず声をあげた。幼い声が脳内で繰り返され、現実が曖昧になっていく。体はガタガタと震え、冷たい感覚が全身に広がっていく。
「寒い……寒いよ、……ちか……」
無意識のうちに声が出る。唇は震え、涙が頬を伝い落ちる。その涙は止まることなく流れ続けた。
「影山!」
湊先生が焦ったように知紘の顔を覗き込んだ。心配そうな紫の瞳が揺れているのが見えた。湊先生は急いで着ていたジャケットを知紘の背中に掛け、震える体を懸命に摩ってくれる。それでも震えは止まらなかった。
「寒い、寒い……」
知紘の口から漏れ出すその言葉。これは、海の寒さ――「ちひろ」の記憶? それとも自分自身のものなのか?
「……ちか……寒い」
湊先生が優しく抱きしめ、知紘の体を温めようとしてくれる。彼は夏目先生に何かを言っていたが、その内容は知紘の耳にはもう届いていなかった。
「影山、大丈夫だ……もう、俺がいるから安心しろ」
優しい声に、知紘の心は少しずつ安らぎを感じた。
懐かしい響きが胸の奥で反響する。小さな声で「ごめんね、ちか」と呟く。意識が遠くなりながらも、湊先生の腕に力が入り、「影山、しっかりしろ」と自分の名を呼ぶ声が聞こえる。
先生の優しくて力強い声がまるで音楽のように響き、冷たい世界から救い出してくれる。知紘はその温もりに包まれながら、少しずつ意識が浮き上がるのを感じた。
うっすらと目を開けると、湊先生の優しい瞳が見つめ返していた。安心感に満ちたその光は、知紘の心の奥底に静かな波を立て、恐れや不安が次第に和らいでいくのを感じさせた。
「せん……せい?」
「……影山、気づいたか?」
ゆっくりと首を縦にふった。全身の力が抜けてしまったようで、とてもだるい。体を起こそうとすると、「じっとしてろ」と湊先生が囁いた。部屋を見渡すと夏目先生の姿が見当たらない。
「湊先生……夏目……先生は?」
「あいつは店の外で、救急車を待っている」
「ごめん……なさい」
「お前は悪くない。謝らなくていい。それより、もう寒くはないか?」
先生の手が額の汗を拭ってくれると、涙が自然と溢れてくる。この感触を自分は知っている。
「先生……ごめん……なさい」
「謝らなくていいって言ってるだろ。それに――」
自然と先生の首に手を回して、抱きついた。もっと早く気づけばよかった。
「先生……なんだよね……先生が……「ちか」なんでしょ?」
先生からの言葉はなかった。先生の顔を見ると紫の瞳は大きく見開かれ、動揺の色が揺れていた。
「……」
「先生……何か言って?」
先生は首を横に振り、沈んだ声で「違う……」と絞り出すように言った。
知紘には揺るぎない自信があった。キャンパスの森で湊先生が木から降りてきた時のこと。キアロ美術館でChihiroの描いたクスノキを見たとき思い出した前世のこと。そこには紛れもなく、いま抱きしめられている温もりがあった。
「先生のこの髪、……瞳、僕は……大好きだった……「ちか」が……大好きだった」
これは本当に自分が言っていることなのだろうか。知紘は一瞬、自信が無くなった。もしかしたら前世の自分が言っていることなのかもしれないと感じた。それでもなぜか怖くは無かった。
「……ちかともっと一緒に……いたかった……遊びたかった。ごめんね……ちかの絵にいたずらして……ごめんね……死んじゃって。ちか……」
知紘は湊先生の顔を両手で包み込む。先生の瞳に焦りの色が波打っていたが、そのままそっと顔を近づけ、軽く唇を合わせた。そして静かに呟いた。
「たんじょうび……おめでとう……ちか……げ」
救急車のサイレンが遠くで聞こえるが、それすらもぼんやりとした音に感じられた。知紘は今度こそ意識を手放し、温かな陽だまりの中へと吸い込まれていくようだった。
**
朝焼けの光が、カーテンの隙間から細い線となって差し込んでいた。知紘はベッドの上で静かに目を覚ましたが、昨夜の出来事が心を支配していた。特に、湊先生にキスをした瞬間が脳裏を離れない。
唇に残る微かな感触を確かめようと指でなぞる。キスしたこと自体、自分でも驚いたが、同時に懐かしさも覚えていた。まるで、それが「初めて」ではないかのように。昨日のあの瞬間、自分の中で何かが変わったのは確かだった。
「もしかして、これは前世の記憶……? 千影に……いや、湊先生に……キスをしたのは、そのせい?」
疑念が頭をよぎり、知紘は混乱した。自分の行動が、自分の意思だけではないように感じる。それはまるで、前世の「ちひろ」が背中を押したかのようだった。
「ちひろ……教えてくれよ。なぜ、僕は湊先生に……」
知紘は夢の中で「ちひろ」に問いかけるように、心の奥底で訴えかけた。しかし、返ってくるのは沈黙だけだった。答えはなくとも、知紘の中で前世の影が確実に色濃くなっていくのを感じていた。
「……知紘、怖くなんかないよ。そう、そうやって、大人しくしてればいいんだ。私にすべて委ねておけばいい……」
知紘の首筋に先生の顔が埋まる。優しいはずの声が媚薬を含んだように知紘の耳元を痺れさせた。
先生の顔が徐々に近づき、知紘の視界がその存在で埋め尽くされていく。心の奥底で、何かが強く警鐘を鳴らしていた。止めなくてはならない、このままではいけない――そう感じながらも、言葉は出ない。
「やめて……ください……先生……」
か細い声で抗うも、その言葉は空気の中で溶けていった。
――その瞬間。
部屋のふすまが乱暴に開け放たれた音が響き渡った。知紘の体がビクリと震え、夏目先生の手もピタリと止まる。二人の視線が一斉に入り口へ向かうと、そこには湊千影――先生が立っていた。普段の冷静さは影を潜め、その紫の瞳には怒りが宿っている。
「雪生、そいつから離れろ」
低く静かな声。それは抑えられた冷徹な怒りをはらんでいた。湊先生の鋭い視線が夏目先生を射抜くように睨みつけ、部屋の空気が一気に張り詰める。知紘はその姿を見て一瞬安堵を覚えたが、身体の震えは止まらない。どこかで、自分はもう「普通」には戻れないという直感があった。
夏目先生は知紘から手をゆっくりと離し、立ち上がる。そして、冷ややかな微笑みを浮かべたまま、湊先生に向き直った。
「千影、早かったね。ふっ、もう少しで知紘君の心に触れられたのに、残念だよ」
その言葉には挑発的な響きが含まれていた。湊先生は一歩、前に出た。その動きは鋭く、まるで獲物を追う狩人のような気配をまとっている。
「雪生……お前の相手は、俺だろう?」
低く吐き出されたその言葉には、冷たい怒りが籠っていた。その一言で、夏目先生の微笑みがふっと消える。二人の間に張り詰める緊張は、今にも切れそうな糸のように感じられた。知紘は息を呑んだまま、動けずにいる。
部屋全体が急に狭く感じられ、空気が重たくなっていく。まるで壁が知紘に向かってじりじりと迫ってくるような感覚だ。ふいに、海の波の音が耳に蘇る。それと同時に、冷たい水の感覚が肌を覆う。遠くから誰かの叫び声を聞いた気がした。
『ちか……ぼく、こわい』『ちひろ、逃げろ!』『ちかを離せ!』『早く! 逃げろ、ちひろ!』
頭の中に鋭い声が響き渡った。まるで何かが心の奥を引き裂くような感覚に、知紘は思わず体を丸めた。『ちひろ、逃げろ!』――その言葉が、幾度も繰り返される。
「うわぁ!」
知紘は思わず声をあげた。幼い声が脳内で繰り返され、現実が曖昧になっていく。体はガタガタと震え、冷たい感覚が全身に広がっていく。
「寒い……寒いよ、……ちか……」
無意識のうちに声が出る。唇は震え、涙が頬を伝い落ちる。その涙は止まることなく流れ続けた。
「影山!」
湊先生が焦ったように知紘の顔を覗き込んだ。心配そうな紫の瞳が揺れているのが見えた。湊先生は急いで着ていたジャケットを知紘の背中に掛け、震える体を懸命に摩ってくれる。それでも震えは止まらなかった。
「寒い、寒い……」
知紘の口から漏れ出すその言葉。これは、海の寒さ――「ちひろ」の記憶? それとも自分自身のものなのか?
「……ちか……寒い」
湊先生が優しく抱きしめ、知紘の体を温めようとしてくれる。彼は夏目先生に何かを言っていたが、その内容は知紘の耳にはもう届いていなかった。
「影山、大丈夫だ……もう、俺がいるから安心しろ」
優しい声に、知紘の心は少しずつ安らぎを感じた。
懐かしい響きが胸の奥で反響する。小さな声で「ごめんね、ちか」と呟く。意識が遠くなりながらも、湊先生の腕に力が入り、「影山、しっかりしろ」と自分の名を呼ぶ声が聞こえる。
先生の優しくて力強い声がまるで音楽のように響き、冷たい世界から救い出してくれる。知紘はその温もりに包まれながら、少しずつ意識が浮き上がるのを感じた。
うっすらと目を開けると、湊先生の優しい瞳が見つめ返していた。安心感に満ちたその光は、知紘の心の奥底に静かな波を立て、恐れや不安が次第に和らいでいくのを感じさせた。
「せん……せい?」
「……影山、気づいたか?」
ゆっくりと首を縦にふった。全身の力が抜けてしまったようで、とてもだるい。体を起こそうとすると、「じっとしてろ」と湊先生が囁いた。部屋を見渡すと夏目先生の姿が見当たらない。
「湊先生……夏目……先生は?」
「あいつは店の外で、救急車を待っている」
「ごめん……なさい」
「お前は悪くない。謝らなくていい。それより、もう寒くはないか?」
先生の手が額の汗を拭ってくれると、涙が自然と溢れてくる。この感触を自分は知っている。
「先生……ごめん……なさい」
「謝らなくていいって言ってるだろ。それに――」
自然と先生の首に手を回して、抱きついた。もっと早く気づけばよかった。
「先生……なんだよね……先生が……「ちか」なんでしょ?」
先生からの言葉はなかった。先生の顔を見ると紫の瞳は大きく見開かれ、動揺の色が揺れていた。
「……」
「先生……何か言って?」
先生は首を横に振り、沈んだ声で「違う……」と絞り出すように言った。
知紘には揺るぎない自信があった。キャンパスの森で湊先生が木から降りてきた時のこと。キアロ美術館でChihiroの描いたクスノキを見たとき思い出した前世のこと。そこには紛れもなく、いま抱きしめられている温もりがあった。
「先生のこの髪、……瞳、僕は……大好きだった……「ちか」が……大好きだった」
これは本当に自分が言っていることなのだろうか。知紘は一瞬、自信が無くなった。もしかしたら前世の自分が言っていることなのかもしれないと感じた。それでもなぜか怖くは無かった。
「……ちかともっと一緒に……いたかった……遊びたかった。ごめんね……ちかの絵にいたずらして……ごめんね……死んじゃって。ちか……」
知紘は湊先生の顔を両手で包み込む。先生の瞳に焦りの色が波打っていたが、そのままそっと顔を近づけ、軽く唇を合わせた。そして静かに呟いた。
「たんじょうび……おめでとう……ちか……げ」
救急車のサイレンが遠くで聞こえるが、それすらもぼんやりとした音に感じられた。知紘は今度こそ意識を手放し、温かな陽だまりの中へと吸い込まれていくようだった。
**
朝焼けの光が、カーテンの隙間から細い線となって差し込んでいた。知紘はベッドの上で静かに目を覚ましたが、昨夜の出来事が心を支配していた。特に、湊先生にキスをした瞬間が脳裏を離れない。
唇に残る微かな感触を確かめようと指でなぞる。キスしたこと自体、自分でも驚いたが、同時に懐かしさも覚えていた。まるで、それが「初めて」ではないかのように。昨日のあの瞬間、自分の中で何かが変わったのは確かだった。
「もしかして、これは前世の記憶……? 千影に……いや、湊先生に……キスをしたのは、そのせい?」
疑念が頭をよぎり、知紘は混乱した。自分の行動が、自分の意思だけではないように感じる。それはまるで、前世の「ちひろ」が背中を押したかのようだった。
「ちひろ……教えてくれよ。なぜ、僕は湊先生に……」
知紘は夢の中で「ちひろ」に問いかけるように、心の奥底で訴えかけた。しかし、返ってくるのは沈黙だけだった。答えはなくとも、知紘の中で前世の影が確実に色濃くなっていくのを感じていた。
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