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第三章 交差
光影庵の夜
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心の中で「ちか」という呼び名を知紘は繰り返していた。前世の兄を思い出そうとするが、その名前に込められた意味を掴むことができない。頭の中には幼い日の記憶が鮮明に浮かび上がるが、兄の姿がふとした瞬間に意識をかすめては、まるで霞のように掴みどころなく消えてしまう。知紘はそのたびに自分の無力さを痛感していた。
土曜日、知紘の誕生日がやってきた。気分を変えるため、親友の遼と街に出かけた。二人で歩きながら笑い声を交わしているのに、知紘の心の奥底には兄の存在が深く根を張り、影を落としていた。遼が祝ってくれているにもかかわらず、知紘はその楽しさを心から味わえない自分に気づいていた。
その時、ふと湊先生の顔が浮かんだ。先生の冷たくも暖かさを感じさせる紫の瞳、光に当たると青みがかかる艶やかな髪……。会いたい、と思ったが、今日は湊先生の弟さんの命日だ。きっと今ごろ、お墓参りをしているのだろう。
そんなことを考えていると、知紘の視界に夏目先生の姿が映った。すらっとした背丈、がっしりとした肩。どうすればあんな体型になれるのかと感心しながら、彼の立ち姿を見つめる。ダークグレーのスーツに身を包み、まるでモデルのように堂々とした佇まい。周りの人々も振り返り、その存在感に引き寄せられていた。やっぱりかっこいい、と知紘は改めて感じた。
「ごきげんよう、影山君、矢島君」
挨拶を先にされ、知紘と遼の間に一瞬の気まずさが流れたが、すぐに二人同時に挨拶を返す。
「今日は二人でデートかい?」
冗談交じりの質問に、「え? まあ、そんなところです」と遼が笑って答える。本当にこの二人はいいコンビだな、と知紘は心の中でつぶやいた。気づくと夏目先生が右手を差し出していた。
「そうだ影山君。お誕生日おめでとう」
「ありがとうございます」
先生と握手をしながらお礼を言う。
夏目先生が自分の誕生日を覚えていてくれたことに驚きつつも、心から喜べない自分がいた。今日は湊先生の弟さんの命日。自分だけが楽しんでいいのか、心の中で葛藤していた。
「先生、誰かと待ち合わせですか? もしや……彼女さんとですか?」
知紘の心の重さに気づいたのか、遼が軽口をたたいた。
「こら、遼!」
遼の気遣いが痛々しいほどに感じられ、知紘は少し苛立ちながら肘で彼をつついた。
「あは、残念だけど、彼女じゃないよ。千影を待っているんだ。さっきまで一緒に千影の弟さんのメモリアルに出席していてね。彼は今、両親を見送りに行っているところだよ」
「メモリアル……」
その言葉に知紘の胸が痛んだ。亡くなってから、今日で20年。時間は確かに流れているはずだが、遺族にとってその悲しみは昨日の出来事のように感じられるだろう。前世の兄もまた、自分――「ちひろ」を失ったことをどう感じているのだろうか。
「君たち、これからの予定は? もし良かったら一緒に食事でもどうかな? 影山君の20歳を祝いたいし、やっとお酒も飲めるようになったんだからね。もちろん、デートの邪魔はしないから、遠慮なく断ってもいいんだよ」
「先生、だからデートじゃないですよ!」
彼女経験のある遼はともかく、恋人がいない知紘にとって「デート」という言葉は照れくさい。しかも、公衆の面前でそれを言われ、顔が熱くなるのも無理はなかった。
「ごめん、ごめん。それで、予定はどうだい?」
「千紘がいいなら、俺は問題ないです。どうする、知紘?」
「え……でも……なんだか、申し訳なくて」
「もしかして、千影のことを気にしているのかい?」
知紘はコクッと頷いた。夏目先生の冷ややかな緋色の瞳が、優しげな光を帯びたように感じた。口元に優しい笑みが浮かび、静かに言葉を紡いだ。
「大丈夫だよ。今日は命日でもあるけど、千影の誕生日でもあるからね」
「えっ、誕生日? 湊先生の?」
「知らなかった?」
さっきまでの優しげな瞳に、一瞬の陰りが見えた。夏目先生が耳元でささやくように「だから君の誕生日も一緒に祝いたいんだ、知紘」と言った瞬間、知紘の体はビクリと震え、「はい」と小さな声で返事をした。
遼が「どうした?」と言わんばかりの表情を向けるが、知紘は顔が赤くなっているのを見られたくなくて、うつむいたままだった。
夏目先生が誰かと電話で話している声が聞こえた。会話が終わると、「千影は遅くなるらしいから、先に行っていよう」と言い、タクシーに乗り込んだ。
湊先生に会ったらなんて言おう。そのことばかりが知紘の頭から離れなかった。
タクシーが到着したのは、街から少し離れた小高い丘の上だった。車を降りると、眼下には広がる夜景が目に飛び込んできた。都会の喧騒から一歩離れたその場所は、まるで別世界に迷い込んだかのようだった。
「すげぇ……」
はしゃぐ遼の声が、静寂の中で響く。知紘は無言で夜景を見つめた。煌めくビルや家の灯り、道路を走る車のライトが、まるで宝石のように散りばめられている。不意に足元がふわりと浮いているような錯覚を覚え、感覚が少しずつ曖昧になっていく。
『ちひろ、来てごらん! 宝石みたいだよ!』
「えっ……?!」
突然聞こえた、子供の声。驚いて振り返るが、そこには誰もいない。目の前で楽しそうに笑う遼の声と重なり、知紘は眉をひそめた。
「知紘、すっげぇ綺麗だな!」
遼が興奮気味に話しかけてくるが、知紘はぼんやりと夜景を眺めたまま、胸の奥がざわつくのを感じていた。さっきの声は何だったのだろう。疲れているせいで幻聴でも聞いたのか、そう思って首を横に振る。
「二人とも、早くおいで」
夏目先生の落ち着いた声で我に返り、遼と一緒に歩き出した。
「ここは300年ほど前に建てられた古民家を改装した日本料理店なんだ。季節ごとの食材を使った懐石料理が有名でね。二人とも気に入ってくれると嬉しいな」
門には、木の看板が掛けられてあり、そこには「光影庵」と書かれていた。
「こうえいあん?」
遼が声に出して読んだ。
「ああ、このお店の名前だよ。光と影は互いを引きたてあう存在。料理のコンセプトになっているんだよ」
先生の説明に耳を傾けつつ、静かな庭を進む。古い木造の家が目の前に現れ、控えめな玄関は言われなければ見過ごしてしまいそうな佇まいだった。
一歩足を踏み入れると、時代を超えたような静かな和の空間が広がっている。庭を囲む木々の間に、淡い光が差し込み、敷石はしっとりとした輝きを放っていた。
「ここ、静かでいい雰囲気だな」
遼が周囲を見渡し、感心したように呟く。知紘も心地よい静けさに包まれながら視線を移した。
『ちひろ、走ったら危ないよ!』『でも、早く会いたいんだもん!』
「……また……?」
再び聞こえた子供の声に、知紘は立ち止まった。背後を振り返るが、そこに子供の姿はない。こめかみに手を当て、深く息を吐く。ここ最近、前世の記憶が断片的に夢に出てくるせいで、神経が張り詰めているのだろう。遼や夏目先生の笑い声が聞こえるのを耳にしながら、知紘は小さく頭を振った。
「走ったら危ないよ、矢島君」
「あ、すみません!」
夏目先生の指摘に、遼が慌てて立ち止まる。知紘はそのやり取りを聞きながら、再び気のせいだと自分に言い聞かせた。
進んでいくと、どこからか微かな香りが漂ってきた。お香の香りだった。決して嫌いな匂いではない。それどころか、普段なら心を落ち着かせるはずの香りなのに、今はなぜか胸がざわつく。気分が悪くなり、思わずその場に膝をついてしまった。
「知紘、大丈夫か?」
前を歩いていた遼が急いで駆け寄り、心配そうに顔を覗き込む。知紘は立ち上がろうとしたが、足元がふらつき、そのままよろけてしまった。夏目先生がすぐに支えてくれた。
「すみません……」
「無理しなくていい。部屋で少し休もう」
先生の腕に支えられながら、知紘はゆっくりと歩き出した。
部屋に通されると、畳の香りが漂っていた。中庭が見える窓から、遠くの夜景がぼんやりと輝いている。知紘は深く座椅子に腰を下ろし、少しの間目を閉じた。鼓動が速くなるのを感じ、深呼吸を繰り返す。
なぜこんなにも胸が高鳴るのか。初めて訪れた場所のはずなのに、なにか特別な意味でもあるような気がしてならなかった。ゆっくりと体が落ち着いてくると、ようやく視界がクリアになった。
「もう大丈夫だから」
心配そうな遼に、知紘は微笑んで答える。いつも気遣ってくれる彼がここへ来てからずっと楽しんでいたことを思い出し、帰ることを思いとどまった。それに、この場所が何かを知っているかのような漠然とした思いも、知紘の中にあった。
懐石料理が運ばれてくると、どれも美しく盛り付けられており、初めて飲む日本酒も香りが豊かだった。遼は「こんなお酒飲んだことない!」と何度も夏目先生にお酌を頼んでいた。先生はお酒をかなり飲んでいるにも関わらず、顔色ひとつ変えず、静かに知紘と遼に注ぎ続けた。
ちょうど体が酒で温まってきた頃、遼のスマホが鳴り響いた。電話に出た彼は、慌てて立ち上がり、「すみません! 俺、帰ります!」と突然言った。弟と妹との約束を忘れていたらしく、急いで帰ると言うのだ。
「それじゃ、僕も――」
「知紘は残ってろって。せっかくの誕生日なんだから」
「でも……」
「俺のことは気にすんなって」
遼は夏目先生に挨拶し、片手をあげて「じゃぁ」と言い残して部屋を出ていった。再びテーブルに腰を下ろすと、いつの間にか夏目先生が隣に座っていた。
「先生……?」
知紘が戸惑っていると、夏目先生が顎を軽く持ち上げ、耳元で囁いた。
「やっと二人きりになれましたね、知紘」
その言葉に息を飲む。先生の深紅の瞳に引き込まれ、逃げ出したい気持ちと抗えない魅力が交錯する。頭がぼんやりとして、考えることができなかった。
「綺麗な琥珀の瞳だ……」
先生の指が知紘の頬を優しく撫でる。その冷たさに不思議な安心感を覚え、心地よさが背中を伝う。指先が唇に触れると、知紘の背筋に冷たい震えが走った。
「……知紘」
甘く低い声が耳元をくすぐり、知紘の意識はその声に引きずり込まれていく。自分をコントロールできなくなった知紘は、目の前の夏目先生に心を奪われていた。
土曜日、知紘の誕生日がやってきた。気分を変えるため、親友の遼と街に出かけた。二人で歩きながら笑い声を交わしているのに、知紘の心の奥底には兄の存在が深く根を張り、影を落としていた。遼が祝ってくれているにもかかわらず、知紘はその楽しさを心から味わえない自分に気づいていた。
その時、ふと湊先生の顔が浮かんだ。先生の冷たくも暖かさを感じさせる紫の瞳、光に当たると青みがかかる艶やかな髪……。会いたい、と思ったが、今日は湊先生の弟さんの命日だ。きっと今ごろ、お墓参りをしているのだろう。
そんなことを考えていると、知紘の視界に夏目先生の姿が映った。すらっとした背丈、がっしりとした肩。どうすればあんな体型になれるのかと感心しながら、彼の立ち姿を見つめる。ダークグレーのスーツに身を包み、まるでモデルのように堂々とした佇まい。周りの人々も振り返り、その存在感に引き寄せられていた。やっぱりかっこいい、と知紘は改めて感じた。
「ごきげんよう、影山君、矢島君」
挨拶を先にされ、知紘と遼の間に一瞬の気まずさが流れたが、すぐに二人同時に挨拶を返す。
「今日は二人でデートかい?」
冗談交じりの質問に、「え? まあ、そんなところです」と遼が笑って答える。本当にこの二人はいいコンビだな、と知紘は心の中でつぶやいた。気づくと夏目先生が右手を差し出していた。
「そうだ影山君。お誕生日おめでとう」
「ありがとうございます」
先生と握手をしながらお礼を言う。
夏目先生が自分の誕生日を覚えていてくれたことに驚きつつも、心から喜べない自分がいた。今日は湊先生の弟さんの命日。自分だけが楽しんでいいのか、心の中で葛藤していた。
「先生、誰かと待ち合わせですか? もしや……彼女さんとですか?」
知紘の心の重さに気づいたのか、遼が軽口をたたいた。
「こら、遼!」
遼の気遣いが痛々しいほどに感じられ、知紘は少し苛立ちながら肘で彼をつついた。
「あは、残念だけど、彼女じゃないよ。千影を待っているんだ。さっきまで一緒に千影の弟さんのメモリアルに出席していてね。彼は今、両親を見送りに行っているところだよ」
「メモリアル……」
その言葉に知紘の胸が痛んだ。亡くなってから、今日で20年。時間は確かに流れているはずだが、遺族にとってその悲しみは昨日の出来事のように感じられるだろう。前世の兄もまた、自分――「ちひろ」を失ったことをどう感じているのだろうか。
「君たち、これからの予定は? もし良かったら一緒に食事でもどうかな? 影山君の20歳を祝いたいし、やっとお酒も飲めるようになったんだからね。もちろん、デートの邪魔はしないから、遠慮なく断ってもいいんだよ」
「先生、だからデートじゃないですよ!」
彼女経験のある遼はともかく、恋人がいない知紘にとって「デート」という言葉は照れくさい。しかも、公衆の面前でそれを言われ、顔が熱くなるのも無理はなかった。
「ごめん、ごめん。それで、予定はどうだい?」
「千紘がいいなら、俺は問題ないです。どうする、知紘?」
「え……でも……なんだか、申し訳なくて」
「もしかして、千影のことを気にしているのかい?」
知紘はコクッと頷いた。夏目先生の冷ややかな緋色の瞳が、優しげな光を帯びたように感じた。口元に優しい笑みが浮かび、静かに言葉を紡いだ。
「大丈夫だよ。今日は命日でもあるけど、千影の誕生日でもあるからね」
「えっ、誕生日? 湊先生の?」
「知らなかった?」
さっきまでの優しげな瞳に、一瞬の陰りが見えた。夏目先生が耳元でささやくように「だから君の誕生日も一緒に祝いたいんだ、知紘」と言った瞬間、知紘の体はビクリと震え、「はい」と小さな声で返事をした。
遼が「どうした?」と言わんばかりの表情を向けるが、知紘は顔が赤くなっているのを見られたくなくて、うつむいたままだった。
夏目先生が誰かと電話で話している声が聞こえた。会話が終わると、「千影は遅くなるらしいから、先に行っていよう」と言い、タクシーに乗り込んだ。
湊先生に会ったらなんて言おう。そのことばかりが知紘の頭から離れなかった。
タクシーが到着したのは、街から少し離れた小高い丘の上だった。車を降りると、眼下には広がる夜景が目に飛び込んできた。都会の喧騒から一歩離れたその場所は、まるで別世界に迷い込んだかのようだった。
「すげぇ……」
はしゃぐ遼の声が、静寂の中で響く。知紘は無言で夜景を見つめた。煌めくビルや家の灯り、道路を走る車のライトが、まるで宝石のように散りばめられている。不意に足元がふわりと浮いているような錯覚を覚え、感覚が少しずつ曖昧になっていく。
『ちひろ、来てごらん! 宝石みたいだよ!』
「えっ……?!」
突然聞こえた、子供の声。驚いて振り返るが、そこには誰もいない。目の前で楽しそうに笑う遼の声と重なり、知紘は眉をひそめた。
「知紘、すっげぇ綺麗だな!」
遼が興奮気味に話しかけてくるが、知紘はぼんやりと夜景を眺めたまま、胸の奥がざわつくのを感じていた。さっきの声は何だったのだろう。疲れているせいで幻聴でも聞いたのか、そう思って首を横に振る。
「二人とも、早くおいで」
夏目先生の落ち着いた声で我に返り、遼と一緒に歩き出した。
「ここは300年ほど前に建てられた古民家を改装した日本料理店なんだ。季節ごとの食材を使った懐石料理が有名でね。二人とも気に入ってくれると嬉しいな」
門には、木の看板が掛けられてあり、そこには「光影庵」と書かれていた。
「こうえいあん?」
遼が声に出して読んだ。
「ああ、このお店の名前だよ。光と影は互いを引きたてあう存在。料理のコンセプトになっているんだよ」
先生の説明に耳を傾けつつ、静かな庭を進む。古い木造の家が目の前に現れ、控えめな玄関は言われなければ見過ごしてしまいそうな佇まいだった。
一歩足を踏み入れると、時代を超えたような静かな和の空間が広がっている。庭を囲む木々の間に、淡い光が差し込み、敷石はしっとりとした輝きを放っていた。
「ここ、静かでいい雰囲気だな」
遼が周囲を見渡し、感心したように呟く。知紘も心地よい静けさに包まれながら視線を移した。
『ちひろ、走ったら危ないよ!』『でも、早く会いたいんだもん!』
「……また……?」
再び聞こえた子供の声に、知紘は立ち止まった。背後を振り返るが、そこに子供の姿はない。こめかみに手を当て、深く息を吐く。ここ最近、前世の記憶が断片的に夢に出てくるせいで、神経が張り詰めているのだろう。遼や夏目先生の笑い声が聞こえるのを耳にしながら、知紘は小さく頭を振った。
「走ったら危ないよ、矢島君」
「あ、すみません!」
夏目先生の指摘に、遼が慌てて立ち止まる。知紘はそのやり取りを聞きながら、再び気のせいだと自分に言い聞かせた。
進んでいくと、どこからか微かな香りが漂ってきた。お香の香りだった。決して嫌いな匂いではない。それどころか、普段なら心を落ち着かせるはずの香りなのに、今はなぜか胸がざわつく。気分が悪くなり、思わずその場に膝をついてしまった。
「知紘、大丈夫か?」
前を歩いていた遼が急いで駆け寄り、心配そうに顔を覗き込む。知紘は立ち上がろうとしたが、足元がふらつき、そのままよろけてしまった。夏目先生がすぐに支えてくれた。
「すみません……」
「無理しなくていい。部屋で少し休もう」
先生の腕に支えられながら、知紘はゆっくりと歩き出した。
部屋に通されると、畳の香りが漂っていた。中庭が見える窓から、遠くの夜景がぼんやりと輝いている。知紘は深く座椅子に腰を下ろし、少しの間目を閉じた。鼓動が速くなるのを感じ、深呼吸を繰り返す。
なぜこんなにも胸が高鳴るのか。初めて訪れた場所のはずなのに、なにか特別な意味でもあるような気がしてならなかった。ゆっくりと体が落ち着いてくると、ようやく視界がクリアになった。
「もう大丈夫だから」
心配そうな遼に、知紘は微笑んで答える。いつも気遣ってくれる彼がここへ来てからずっと楽しんでいたことを思い出し、帰ることを思いとどまった。それに、この場所が何かを知っているかのような漠然とした思いも、知紘の中にあった。
懐石料理が運ばれてくると、どれも美しく盛り付けられており、初めて飲む日本酒も香りが豊かだった。遼は「こんなお酒飲んだことない!」と何度も夏目先生にお酌を頼んでいた。先生はお酒をかなり飲んでいるにも関わらず、顔色ひとつ変えず、静かに知紘と遼に注ぎ続けた。
ちょうど体が酒で温まってきた頃、遼のスマホが鳴り響いた。電話に出た彼は、慌てて立ち上がり、「すみません! 俺、帰ります!」と突然言った。弟と妹との約束を忘れていたらしく、急いで帰ると言うのだ。
「それじゃ、僕も――」
「知紘は残ってろって。せっかくの誕生日なんだから」
「でも……」
「俺のことは気にすんなって」
遼は夏目先生に挨拶し、片手をあげて「じゃぁ」と言い残して部屋を出ていった。再びテーブルに腰を下ろすと、いつの間にか夏目先生が隣に座っていた。
「先生……?」
知紘が戸惑っていると、夏目先生が顎を軽く持ち上げ、耳元で囁いた。
「やっと二人きりになれましたね、知紘」
その言葉に息を飲む。先生の深紅の瞳に引き込まれ、逃げ出したい気持ちと抗えない魅力が交錯する。頭がぼんやりとして、考えることができなかった。
「綺麗な琥珀の瞳だ……」
先生の指が知紘の頬を優しく撫でる。その冷たさに不思議な安心感を覚え、心地よさが背中を伝う。指先が唇に触れると、知紘の背筋に冷たい震えが走った。
「……知紘」
甘く低い声が耳元をくすぐり、知紘の意識はその声に引きずり込まれていく。自分をコントロールできなくなった知紘は、目の前の夏目先生に心を奪われていた。
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