共鳴の彼方

月柳ふう

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第二章 迷宮

象徴

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 学長室には誰もいなかった。そういえばここへは初めてかもしれない。調度品に目を向けると、マホガニーの家具が部屋全体を落ち着いた雰囲気にしていた。指紋のない磨き上げられたガラスの扉。中には、アンティークな置き時計や陶器が収められていた。学長は美術工芸に精通している人物と聞いたことがある。きっとChihiroの絵もコレクションの一つなのだろう。

「ふう」

 大きく深呼吸をして、Chihiroの絵が飾ってある部屋へと入った。初めて見た時に感じた圧倒的な存在感。それは二度目の今も変わらない。少し距離をおいて、絵の全体像を眺めた。眺めているうちに、潮の香り、優しい風、波の音が聞こえてくる気がした。

 静かに目を閉じた。さっき感じた感覚は変わらない。同時に、夢で見た情景が重なってきた。家族で行った海の風景と楽しそうに絵を描いている兄の姿。近づくと、大きな画用紙がいろんな青色に塗られていた。短くなったクレヨンが転がっていた。画用紙の中央にはヨットが描かれ、イルカが飛び跳ねていた。自分は鳥になったように真上からその景色を眺めていた。キラキラと輝く海。双子の子が聞こえてきそうだった。別の画用紙には文字か、線が書いてあり――。

「君!」

 声に驚き目を開けると、なぜか絵の真ん前にいて、もう少しで触れそうになっていた。

「触っちゃいかん!」

「あ、すみません」

 警備員に怒鳴られ、知紘は懸命に頭を下げて謝った。視線を絵に向けると、サインが書かれてあるのに気がついた。どこかで見たような懐かしい記憶が蘇る。

「あっ!」

 ひざまずいて、サインを確かめた。小さな文字で「Chikiro」と独特な筆記体で書いてある。

「Chikiro?」

 ChihiroではなくChikiroと書かれたサインに心がざわめく。独特な筆記体だからデザインの一部なのだろうと思ったが、この文字は先ほど見えた前世の記憶の中で、別の画用紙に書いてあったような――。

 全身の力が抜けていき、そのまま床にペタンと座り込んだ。

「君、大丈夫かい?」

 さっき怒鳴った警備員が心配そうに知紘の顔を覗き込んできた。強面の警備員の困った顔に、「大丈夫です」と言って、知紘は立ち上がり、学長室から足早に出ていった。

 頭の中で、サインの画像が浮かぶ。「Chikiro」という文字が、知紘の中で何かを動かし始めた。もう迷わない。自分の前世と向き合い、真実を知る決意を固めた。

「絶対に真実を明らかにするんだ」

 その決意を胸に、知紘は次の一歩を踏み出す準備を整えていた。
 
 **
 
 食堂の喧騒の中、知紘はトレイを片手に歩いていた。周囲では学生たちがテーブルを囲み、楽しそうに会話を交わしている。その光景は、日常の一部としていつも目にしていたが、知紘の心は別のところにあった。頭の中に渦巻いているのは、Chihiroのことだった。絵の中に残されたサインが、前世の記憶と不思議な形で結びつき、その存在が心から離れない。

「手がかりはやっぱり、学長か……」

 知紘は自分にそうつぶやいた。学長がChihiroの絵を所有している以上、何らかのつながりがあるはずだと考えたのだ。だが、どのように尋ねればいいのか、何から話し始めればいいのか、答えが出ないまま歩を進めていた。

 その時、ふと食堂の奥に座る一人の人物が目に留まった。学長だった。彼は一人、テーブルに座り、静かに食事をしている。穏やかな表情で周囲に気を配ることもなく、ただ自分の時間を過ごしているようだった。

 知紘の胸が高鳴った。この偶然を逃すべきではない、と直感したのだ。

 深呼吸をし、知紘は学長のもとへ歩み寄った。近づく気配に気づいた学長は、親しみ深い笑みを浮かべ、穏やかな声で問いかけた。

「私に何か御用かな?」

 一瞬、緊張が走ったが、知紘は自分の目的を思い出し、覚悟を決めた。

「2年の影山知紘です。心理学を専攻しています。先生、少しお話ししたいことがありまして……学長室に飾られているChihiroの絵についてです」

 学長の表情がわずかに変わった気がした。しかし、すぐに元の穏やかな顔になり、優しい眼差しを知紘に向けた。

「影山知紘君か。ここでは込み入った話はできないね。仮の学長室に行こうか」

 知紘は頷き、二人は食堂を後にした。道すがら、知紘の心は期待と不安で揺れていた。学長はChihiroについてどれほど知っているのだろうか――そんな問いが胸の奥にくすぶっていた。しかし、どんな結果になろうとも、自分が進むべき道は既に決まっていると、知紘は自らを奮い立たせた。

 *

 仮の学長室に足を踏み入れると、知紘は以前のことを思い出した。ここは、湊先生の会話を偶然聞いてしまった部屋だ。その時の罪悪感が、胸の中で再び疼いた。

 「影山君。聞きたいことがあると言っていたね」

 ソファに腰掛けた学長は、知紘に穏やかな目を向けながら問いかけた。その柔らかい視線が、知紘の心に決意を新たにさせた。

「単刀直入にお聞きします。先生は、Chihiroの正体……本名をご存知ですか?」

 学長はわずかに眉をひそめたが、すぐに小さく首を振った。

「申し訳ないが、知らないんだ」

 予想していた答えではあったが、やはり落胆の色は隠せなかった。知紘は深くため息をつき、肩を落とした。

「なにか特別な理由があるのかい?」

 学長の問いに知紘は驚いた。何かを隠しているというわけではないが、どこか寂しげな表情に思わず心が揺れた。

「大勢の人がChihiroの正体について私に聞いてくるんだ。だが君は……その人たちとは少し違うようだ。これでも教育者だ。人を見る目はあると思っている」

 その言葉に、知紘の胸に何かが込み上げてきた。今ここで、すべてを話さなければならない――その衝動が心を突き動かした。

 *

 どれほどの時間が経ったのだろうか。知紘は前世の夢とChihiroとの関係についてすべてを語り終えていた。学長の淹れてくれたコーヒーはすっかり冷めていたが、乾いた喉を潤すために一口飲んだ。

「……とても興味深い話だね。それで影山君は、お兄さんを探している……そういうことかね?」

 学長が真剣な眼差しで知紘を見つめた。知紘はその視線を受け止め、静かに頷いた。

「はい。ただ、謝りたいんです。それだけなんです」

 学長は長い間、何かを考えるように頭を組んだ手の上に乗せていた。知紘は兄との過去や、Chihiroの絵のサインについて語ったが、それがどれほど学長に響いたのかはわからなかった。

「君の名前をもう一度教えてもらえるかい?」

「影山知紘です」

「歳は?」

「19ですが、今度の土曜日で20歳になります」

 その瞬間、学長の目が僅かに見開かれた。

「土曜日か……」

 知紘は不意に思い出した。土曜日は湊先生の弟さんの命日だということを。気まずさが心に広がる中、学長は何も言わずに静かに考え込んでいた。

 「影山君、Chihiroの件は……触れない方がいいかもしれない。特に、君のようにその存在に強い感情を抱いている人間には」

 その言葉に知紘は戸惑った。何かを隠しているかのような学長の言葉は、彼がChihiroについて本当は知っていることを暗示しているように感じられた。

 「それでも、真実を知りたいです。何か知っていることがあれば教えてください」

 学長は静かにため息をつき、何かを決意したように見えた。「私が知っていることは、君には話せない。だが……」

 その言葉の続きは、知紘の心に重く響いた。

 学長の目が鋭くなり、「もし君が本当に探し続けるつもりなら、他の手がかりを見つけることが重要だ。自分自身の……前世も含めて」と告げた。

 知紘はその言葉を胸に刻みながら、次に何をすべきかを考え始めた。学長が何かを隠しているのなら、それを明らかにしなければならない。そして、Chihiroの真実を求めて、さらなる道を探る覚悟が固まった。

 これからの道が、どのような運命へと繋がるのか、知紘は自分の心を信じて進むしかなかった。
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