共鳴の彼方

月柳ふう

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第二章 迷宮

冷めない熱

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 これから講義のある本館へと知紘は足早に向かった。教室にはすでに遼がいつもの席を確保している。知紘に気づいた遼が手を上げ、「こっちだ」と知らせる。

「学長室から急にいなくなるから焦ったぞ。どこ行ってたんだよ」

「……ごめん。ちょっとトイレに」

 初めて遼に嘘をついた。手のひらがじっとりと汗ばんでいる。湊先生と学長の会話が頭の中でぐるぐると回り続ける。「弟」と言ったときの湊先生の表情――あの瞬間に、彼の瞳に悲しみが宿っていた。過去を語ったときの冷たい声も、心の奥底に何か重いものを抱えているようだった。それが彼を孤独の壁に閉じ込めている理由なのだろうか。頭の中でいくつもの疑問が生まれては消える。

「知紘?」

「……え? ごめん、なに?」

 遼が心配そうに顔を覗き込んでくる。突然、彼の手が知紘の額に触れた。

「熱はないな……顔色悪いけど、また例の夢でも見たんじゃないか?」

 遼の言葉に、知紘は胸が締めつけられる。さっきの嘘がずっしりと心にのしかかり、言葉を飲み込んだ。しかし、もう遼には隠し事ができない。

「……ごめん、実は……湊先生を見つけたんだ。それで、少し後をつけてしまった」

 知紘は、湊先生と学長の会話を遼に打ち明けた。さらに、Chihiroの絵に対する知紘の強い衝動も伝えた。もう一度、あの絵を見なければならない――そう感じた理由も。

「そうか……手がかりになりそうなら、また学長室に行ってみようぜ。湊先生のことも気になるな。正直、俺あの先生ちょっと苦手だけど、知紘の話を聞く限りだと、訳ありって感じだよな」

 遼が誰かを苦手に思うことがあるとは意外だった。彼は誰とでもすぐに打ち解けることができる性格だと思っていたからだ。

「湊先生のどこが苦手なんだ?」

「なんかさ……朝もそうだったけど、あの人って近寄りがたいっていうか、壁がある感じがするんだよな。夏目先生はもっと話しやすいし」

 遼の言葉に、知紘も思わず頷いた。湊先生の冷たさと、夏目先生の穏やかな態度の違いが、今朝の会話からも浮き彫りになっていた。

「でも、やっぱり気になるな。その湊先生の――」

「弟?」

「そう、それ! 何か手がかりはないかな……」

 遼は両腕を組んで、「んー」と唸りながら考え込む。そして、突然顔を明るくさせて何かを思いついたようだった。

「そうだ! 夏目先生に聞けば、なにか分かるかも! 幼馴染って言ってたし」

 夏目先生――確かに、研究室にまた来るよう誘ってくれたのを思い出した。知紘もその案に心が躍ったが、同時に不安が頭をもたげた。

「でも、相手は犯罪心理学の准教授だぞ。そう簡単には話してくれないんじゃ……」

 知紘が思案する中で、遼がスマホを取り出し、何かを検索し始めた。しばらくして画面を見せてきたのは、キャンパスニュースの記事だ。大学のイベントや教授インタビューなどを掲載している公式サイトのページが表示されている。

「知紘、これだ! インタビューって名目で行けるじゃん!」

 知紘は思わず笑みを浮かべた。

「そうだね。試してみる価値はあるかも」

「さっそく行こうぜ!」

 こうして二人は「教授インタビュー」を口実に、夏目先生の研究室を訪れることになった。

 *

「私にインタビュー? また随分と急だね」

 夏目先生は微笑んでいたが、その目にはいつもの冷たさが感じられる。遼がにこやかに、「すみません先生。急に決まったもので」と軽快に話を進めた。

「いいよ、わかった。なんでも好きなことを聞いて」

 紅茶の香りが漂う中、夏目先生は音を立てずにティーカップを持ち上げ、品のある仕草で飲んだ。知紘と遼は、タイミングを見計らいながら、いよいよ本題に入る準備を整えた。

「まずは先生の子供時代についてお聞かせいただけますか?」

 遼が唐突に核心に迫る質問を投げかけ、知紘は驚きのあまり目を見開いた。通常、恋人や趣味といった話題から入るものだと思っていたからだ。

「子供時代か……まあ、小学校辺りからでいいのかな?」

「はい、お願いします!」

「うーん……勉強好きな子供だったよ。もちろん、友達と遊ぶのも好きだったけどね」

 知紘は記録係としてノートに筆を走らせた。遼も質問を続ける。

「では、どんな遊びをしていましたか?」

「んー、勉強ばっかりしてたって言ったら嫌味かな?」

 遼と夏目先生が楽しそうに笑うのを、知紘は横目で見ながら、その場の雰囲気に少し緊張を解いた。

「でも、勉強ばかりじゃなかったさ。特に、幼馴染と一緒に過ごしていた時間が多かったからね」

 幼馴染――その言葉に、知紘と遼は息を飲んだ。これこそが本題への入り口だ。

「その幼馴染って……湊先生のことですか?」

「そうだよ。千影とはずっと一緒に育ったんだ」

「夏目先生から見て、湊先生はどんな方なんですか?」

「千影か……彼はとても優しくて聡明な人だよ。いつも周りの人を大切にしていたね」

「へぇー、そうなんですね……ところで、湊先生にはご兄弟がいらっしゃるんですか?」

 夏目先生の表情が少し変わった。彼は微笑みながらも、わずかにため息をつくような仕草を見せた。

「千影には弟がいたんだ。でも、もう19年前に亡くなってしまってね。今度の土曜日は彼の命日なんだ」

「19年前……」

 遼が何かに気づいたように、小さな声で呟いた。

「……土曜日は知紘の誕生日だ」

「なんだ、偶然だね。でも、気にしすぎないで。命日や誕生日は、過去を振り返る日でもあるけれど、それだけじゃないからさ」
 
 知紘は息が苦しくなり、胸が締めつけられた。過去と今が交錯し、感情が押し寄せてきた。何か言おうとしたが、喉が詰まり、涙が込み上げてきた。

「知紘?」

「ごめん……ちょっとトイレに」

 堪えきれず、夏目先生の研究室を飛び出した。知紘の心の中には、湊先生の悲しみと、自分の知らなかった過去が重なり合っていた。

 知紘は研究室を飛び出してから、キャンパスの森へ向かった。外の空気を吸いたい。それに一人になりたかった。

 小さいながらもキャンパスの森は、綺麗に色づいた紅葉樹が見頃を迎えていた。秋晴れの空に映える木々が、知紘の心を癒してくれそうだった。森の少し奥まったベンチに腰をおろすと、深い息を吐いた。

「はぁ……」

 湊先生の悲しみと苦しみ、夏目先生の言葉が胸の深いところへ沈み込んでいく。さっきの会話が何度も頭の中で再生され、考えるだけで涙が溢れそうになった。もう我慢せずに声を抑えて泣いた。

 風が葉を揺らす音が心地いい。自然が癒す力にはかなわない。

 大きな木々に見下ろされ、先日訪問した幼稚園の大きなクスノキを思い出した。前世で兄と隠れん坊して遊んだのに、鬼のくせに兄が見つからずに泣いたっけ。兄は隠れていたのに、木の上から降りてきて自分をなぐさめてくれた。その瞬間、知紘は胸に温かい感情が湧き上がるのを感じた。前世の記憶とはいえ、現世での知紘は一人っ子だが、兄がいる錯覚に陥る。

「兄弟……」

 涙を拭って、小さくつぶやいたその時だった。ザザッと枝と葉が擦れ合う音と共に、人影が目の前に現れた。降り立った男性が袖とズボンについた葉をはたき落とす。黒髪なのに木々から差し込む光で、ときおり青く見える。彼の手が額にかかる髪をかき上げたとき、知紘の目が大きく見開いた。そしてどこか見覚えのある動きと懐かしさに、心が騒めいた。

「……湊先生?」

 思わず声に出して名前を呼んでしまった。口をつぐんた時にはもう遅く、湊先生の視線が知紘に注がれる。凍りつくような紫の瞳が細められ、居心地の悪さが襲ってきた。

「こんなところで何をしているんだ、影山?」

「それは僕の台詞です、先生!」

 木の上からいきなり人が降りてきたら、誰だって驚く。

「そうか、驚かして悪かったな」

 湊先生がベンチの側に来て、知紘の頭をぽんぽんと軽くたたいた。驚いて見上げると「なにか心配事でもあるのか?」と聞かれ、すぐには質問の意図が理解できなかった。でも、とっさに顔が火照り始めた。きっと泣いているところを見られたのだ。

「……別に……何も……ないです」

 彼の問いかけに応えるたび、心の中で何かが弾けそうだった。胸がざわめき、湊先生の存在が自分に影響を与えていることを痛感する。視線を足元へ戻した。体が硬直して動けない。両膝に置いた手をぎゅっと握るのが精一杯だ。

「体調は? もういいのか?」

「え? ……あ、はい。もう大丈夫です」

「あまり無理はしないように。なにかあればいつでも相談にのる」

「はい……ありがとうございます」

 太陽の光のせいなのか、湊先生の立っている側から温かな空気を感じた。彼が歩き出したのか、徐々に足音が遠ざかっていった。振り向くと、その姿はもうどこにもなかった。

 視線を空に向けると、学長室のある建物が木々の間から見えた。

「そうだあの絵、もう一度、見に行こう」

 もう一度……Chihiroの絵。あの絵に触れたとき、何かが自分の中で動き始めた気がする。自分の足が無意識のうちに動き出していた。気がつけば、知紘は学長室へ向かっていた。
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