共鳴の彼方

月柳ふう

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第二章 迷宮

秋晴れの空に雨

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 湊先生の講義で倒れてから、数日ぶりに知紘は大学へ足を運んだ。秋の柔らかな日差しが降り注ぎ、キャンパスの木々は燃えるような赤やオレンジに彩られていた。風に揺れる葉音が心地よく響き、学生たちの笑い声がキャンパスに賑わいをもたらしている中、知紘の胸は少しだけ高鳴った。

 しばらく歩いていると、どこで聞きつけたのか、遼が飛ぶように知紘の元へ駆け寄ってきた。

「知紘! もういいのか?」
 
「うん、もう大丈夫。心配かけてごめんな、遼」
 
「気にすんなって」

 遼が肩を組んでくると、その温かさが知紘の心を包み込むようだった。ふと、遼の顔に浮かんだ心配の表情に気づき、知紘は少し胸が締め付けられた。ここのところ遼には心配ばかりかけている。病気で休んでいた間も毎日、知紘のアパートへ差し入れを持ってきてくれた。感謝の気持ちが心に溢れる。

 休んでいる間、気になっていたことが一つあった。学校の学長室に飾られているという例の画家Chihiroの絵のこと。

「なぁ、遼。Chihiroの絵って見たことある?」
 
「え、なに急に。興味なかったんじゃないの?」
 
「うん、まぁちょっと気になることがあって……」
 
「え、なに? もしかして、また前世の記憶を思い出した……とか?」

 遼の目が期待に満ちて輝き出した。「記憶じゃないんだけど……」と付け加えて説明した。

「……僕の名前「知紘(ちひろ)」だろ。そして幼稚園で知った双子の弟も『ちひろ』。この子が僕の前世……だとして……今度も「Chihiro」が登場した。果たしてこれって、偶然なのか……ちょっと気になっているんだ」

「うぉ! なんかいま、鳥肌立った! 知紘のその推理、マジやばい。そりゃ絶対、絵を見に行くべきだな」

 俺に任せておけ、と遼が胸を叩きながら軽やかに笑う。その姿に知紘も思わず笑みがこぼれた。

「久しぶりだな、知紘の笑った顔」
「えっ!」

 突然の言葉に顔が熱くなり、恥ずかしさが込み上げる。案の定、遼にからかわれたが、そのとき背後から声が聞こえた。

「影山君と矢島君。ごきげんよう」

 振り向くと、夏目先生と湊先生が立っていた。夏目先生は相変わらず笑顔を浮かべているが、その目は笑っていない。一方の湊先生は、こちらに目を向けることなく顔を背けている。

「おはようございます!」遼が元気よく挨拶し、知紘もつられて挨拶をした。

「体調はもう良いのですか、影山君?」
「あ、はい。ご迷惑を――」

 夏目先生が手を挙げて言葉を遮った。「体が一番大事だから、気にしなくていいよ」と優しい声で励ましてくれた。

「……ありがとうございます」

 知紘は湊先生に視線を送ったが、相変わらず会話に加わる気配はない。やはりこの人は、周囲との距離を取るタイプなのだ。

「影山君が倒れたのは……千影の授業が厳しすぎたからかい?」

 夏目先生の冗談めかした言葉に、知紘はドキッとした。「何も知らないくせに勝手なことを言うな、雪生」と、冷たい声で湊先生が応じ、空気が一瞬凍りつきそうになる。「名前で呼び合うって、もしかしてお二人は古い知り合いなんですか?」と遼がすかさず聞いた。

「うん、千影と私は幼馴染みでね、腐れ縁ってやつさ」

 夏目先生が言った『幼馴染』という言葉に親近感が湧く。同じように思ったのか、遼が感心したように「へぇ、俺たちと同じですね」と言った。

「矢島君と影山君も幼馴染みなんですね。それは奇遇だ。ね、千影」

 夏目先生が湊先生に話を振ると、湊先生は視線を落とし、何も答えずに黙り込んだ。自分たちのいる空間が一瞬、張り詰めるような緊張感が漂った。彼の沈黙は、まるで何かを隠しているかのように思えた。その反対に周囲は学生たちの話す声に溢れている。朝の忙しない足音や秋風が木々の葉を揺らす音が耳に心地よく響く。キャンパスには落ち葉が風に吹かれ、小さな渦を巻いている。

 知紘は初め、この二人――夏目先生と湊先生――は似たもの同士、掴みどころがないと思っていたが、どうやら対照的なのかもしれない。

 遼と夏目先生の会話が弾む中、知紘は意を決して湊先生に話しかけた。

「あの、湊先生……先日はありがとうございました」

 お辞儀をして顔を上げた知紘に、湊先生の視線がチラリと向けられた。あの時の講義に感じた温かさを期待したが、先生はぶっきらぼうに「礼には及ばない。当たり前のことをしただけだ」と返しただけだった。

 どこか距離を感じさせる冷淡さが、彼の態度から滲み出ている。誰に対してもこうなのだろうか。もし彼の態度を和らげることができるとしたら、一体どんな人なんだろう。

「ほら千影、怖がらせてどうするんだい? 大丈夫かい、影山君」

 また「ちひろ」という言葉が再び頭の中で、あの二つの「ちひろ」と重なった。やはりただの偶然ではないのかもしれない。

「影山君、大丈夫?」
 
 知紘の思考が広がり始めたところで、夏目先生の声が知紘の心を引き戻した。
 
「夏目先生! 僕のことは気にしないで――」

 一瞬、湊先生に睨まれたかと思った。しかしよく見ると先生の視線は夏目先生へ向けられていた。それに瞳には、動揺した光がゆらめいているように見えた。湊先生は無言で一瞥をくれると、「先に行く」とだけ言い残して歩き去ってしまった。その言葉は冷たく、周囲の雰囲気が重くなる。

「すまないね、君たち。千影は子供の頃から、あまり人と関わるのが好きじゃなくてね」と肩をすくめる夏目先生に、遼が「全然大丈夫です!」と元気よく答えた。

「それより二人とも、学長室に飾られているChihiroの絵はもう見たかい?  一般公開は、今週いっぱいって聞いてるから、鑑賞するなら早いほうがいいよ」
「やっぱり本物なんですね!」
「もちろん。本物でなければ公開しないだろうしね」

 夏目先生が答えると、その目はいつもとは違って少し輝いて見えた。この人でもこんな表情をするんだ。

「Chihiroの絵は、私も昔から大好きでね。あの画家の作品は、ただ美しいだけじゃなく、何か特別なものがあると思うんだ。見るたびに、心に訴えかけてくるような感じがするんだよ」

「すごいな! なぁ知紘、一緒に行こうぜ!  これを見逃す手はないだろ!」

 再び高揚感が戻り、知紘も頷き、「うん、見に行こう」と答える。だけど、どこか心の奥に湧き上がる不安が残っていた。湊先生の冷たさの裏には何があるのか、気になって仕方がない。

 いつの間にか、遼は次々と話しかけていた。知紘はその声に耳を傾けつつも、湊先生の影を引きずるように思いを巡らせていた。これから、自分の行動によって湊先生にどんな影響を与えることができるのか。そして、彼の冷たさの正体は何なのか。知紘の心は揺れ続けていた。


 夏目先生とは途中で別れ、知紘と遼は二人で学長室へ向かうことにした。去り際に夏目先生が耳元で「また研究室においで」と甘く囁いた瞬間、知紘の背筋にゾクッとした感覚が走った。遼に「顔が赤いぞ」と指摘されたが、何も返さずに学長室への道を急いだ。

 学長室のある建物に到着すると、Chihiroの絵を鑑賞するための長蛇の列に出くわした。列の最後尾につくと、遼が苦笑しながら「30分はかかるな、こりゃ」とつぶやいた。やはり、世界的に有名な画家の作品だけあって、一般の観客も多いようだ。

 建物の周囲は秋色に染まった木々が美しく、大学キャンパスの森が穏やかな風景を作り出していた。この森は数年前にヨーロッパの風景をモチーフにリニューアルされ、今は紅葉狩りの名所としても有名だ。特に学長室のある建物は、大学設立と同時に建てられた歴史的建造物で、その優雅さはまるでヨーロッパの宮殿のようだ。大理石の階段や高い天井に吊るされた豪華なシャンデリアが、その格式を物語っている。

 「こんな場所で毎日仕事できるなんて、学長はいいご身分だな」と遼が感心しながら呟いたが、知紘はChihiroの絵を早く見たいという思いで頭がいっぱいだった。

 「なぁ、知紘、Chihiroのことどれくらい知ってる?」と遼が問いかけてきた。

 「名前は知ってるけど、絵は見たことないし、背景もよく知らない」と知紘がぼんやり答えると、遼は得意げな顔で話し始めた。

 「Chihiroが有名になったのは10年前の世界的なアートコンクールでグランプリを取ったときからだ。しかも最年少の受賞者らしくて、年齢不詳だけど10代だろうって噂だ。ただ、性別や本名、出身国すらも不明なんだよ。全てが謎に包まれている」

 知紘は驚きながら遼を見た。「そんなに有名なんだ……」と呟くと、遼はにやりと笑った。

 「それだけじゃない。コンクールの後、最初は『運が良かっただけ』とか『実力がない』って批判されたらしいんだけど、その後に発表された作品が次々と大絶賛されて、今じゃオークションで億単位の価値がついてる」

 「すごいな……」と感心する知紘。周囲にいた学生たちも遼の話に耳を傾け、拍手まで起こった。

 「遼、なんでそんなに詳しいんだ? もしかして熱狂的な隠れChihiroファン?」と知紘が冗談めかして聞くと、遼は照れくさそうに笑った。

 「熱狂的ファンってことじゃないけど、俺も気になって色々調べたんだよ。美術の教科書にも載ってたしな」

 「教科書に? 全然覚えてない……」と知紘が困惑して答えると、遼は肩をすくめて笑った。

 「お前って本当に芸術に興味ないよな」と軽くからかわれたが、知紘は気にもとめなかった。頭の中はすでにChihiroの絵のことでいっぱいだった。

 行列が次第に進み、ついに学長室の入り口が見えてきた。部屋に入ると、一枚の大きな絵が壁一面に飾られている。それは深い碧色を基調とした、息を呑むような作品だった。海なのか、夜空なのか、どこか神秘的で言葉にできない美しさが広がっている。

 知紘は息を止め、その絵に引き寄せられるように一歩踏み出した。

 「これが……Chihiroの……絵……」

 その瞬間、夏目先生の言葉が頭をよぎる。「ただ美しいだけではない」。知紘はじっとその絵を見つめながら、自分の中に湧き上がる感情を戸惑っていた。なぜかこの絵に見覚えがあるような、懐かしささえ感じたのだ。そんなはずはないのに――。

 「すごいだろ?」と遼が隣で声をかける。「でもこの作品、写真で見た他の作品とはなんか全然違う気がするなぁ。まるで生きてるみたいな」

 知紘は答えず、ただ絵に見入った。胸の奥がざわつく。この絵には何かがある、そう感じた。

 再び、夏目先生の言葉が浮かんできた。

『あの画家の作品は、ただ美しいだけじゃなく、何か特別なものがある。見るたびに、心に訴えかけてくるような感じがするんだ』

 知紘はそっと目を閉じ、その言葉を反芻した。そしてゆっくりと目を開け、キャンバスに近づく。最初は気づかなかったが、絵の中央に何かが描かれていることに気づいた。顔を近づけると、絵の具が何重にも塗り重ねられ、様々な「あお」が混ざり合っていることがわかった。

 「これ……船?」

 目を凝らすと、碧色の中に隠れるように描かれた船が見えた。濃い青、薄い青、蒼、瑠璃、異なる「あお」が織りなす景色は、まるで知紘の記憶にあるような風景だった。

 その瞬間、知紘の頭の中に兄の記憶がよみがえる。幼い頃、前世の兄が何重にも色を重ねて描いていた絵。知紘がいたずら書きをした絵も、まるでこのChihiroの絵と同じように……。「えっ?」

 もう少しで何かが繋がりそうなその時、周囲の声が知紘の思考を遮った。

 「これって星かな?」「地球?」「深海みたいだ」「すげぇ、綺麗だな」

 観客の声に耳を傾けると、「ねぇ、これって新作じゃない?」という言葉が耳に引っかかった。遼が言っていたように、億単位の価値がある新作なら、もっと注目を集めるはずだ。どうしてこの大学に……? Chihiroの正体に対する疑問がさらに深まった。

 知紘はもう少し見ていたかったが、やがて学長室を出ることにした。公開中にまた来よう。そう心に決めながら廊下へ出ると、意外な人物の姿が目に入った。湊先生だ。

 その瞬間、知紘はとっさに廊下の端に身を隠した。心臓が激しく鼓動を打ち、全身が熱を帯びる。湊先生の美しい姿勢、冷たい雰囲気に反して、彼が通り過ぎる場所は鮮やかに色づくようだった。気がつけば、知紘は湊先生の後をつけていた。

 湊先生は学長室の上の階へ向かい、廊下の一番奥の部屋へと消えていった。ドアが少しだけ開いていたので、知紘はそっと中を覗いた。湊先生の他に、夏目先生と学長の姿もあった。

 「千影君、ご両親のお加減はいかがかね?」
 「父は相変わらずですが、母はだいぶ良くなってきました」
 「それは何よりだ。しかし君の弟さんの件は……」
 「もういいんです。あれは過去のことですから」

 湊先生の声は淡々としていたが、その響きには深い悲しみがこもっているようだった。知紘はその場から離れたくなかったが、これ以上は危険だと思い、足早にその場を後にした。
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