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第二章 迷宮
新たな風
しおりを挟むキャンパスのどこを歩いても、最近は「噂」の話題ばかり耳に入ってくる。どうやら、世界的有名画家Chihiroの絵がこの大学の学長室に飾られているらしい。大学のキャンパスノートに学長のインタビュー記事と共に写真が掲載された。その後すぐに、学長の背後に写っているのがChihiroの絵じゃないかというのが「噂」の出どころだった。しかもその絵は未発表かもしれないと、熱狂的なChihiroファンがネット上で考察をしているらしい。
ファンでなくとも『Chihiro』という名を知っている者は多い。しかしその正体を知る者はいない。性別、年齢、国籍、何一つ明かされていない。「天才画家」という評判が神秘性をさらに高め、学生たちはそのミステリアスな存在に夢中となっていた。
「なぁ、知紘はどう思う?」
「え、なにが?」
「Chihiroだよ」
「ああ、それか。僕は、別にどうでもいいかな」
芸術に興味のない知紘でも、自分と同じ名前の芸術家が話題になっていることくらいは知っていた。それでも、作品を見たこともなければ、その噂にも特に関心はなかった。
「それよりさ、今日の講義、新任の非常勤講師が担当するだろ。で、噂聞いた?」
「また噂かよ」
「なんでも現役のプロファイラーなんだってさ。しかも、世界各国の捜査機関と提携してる凄腕らしいよ」
「へぇ……そうなんだ」
知紘は眉をひそめた。現役のプロファイラーが大学で教えるなんて、少し奇妙に感じた。そんなに忙しい人が、学期途中で着任するのは異例だ。
「ほら、噂をすれば影ってやつだな」
遼が顎をしゃくってドアの方を示す。そこには、スラリと背の高い、洗練された男性が講義室に入ってきた。遠目でもその端正な顔立ちと鋭い目つきが、一瞬で目を引く。講義室には、いつもより女生徒の数が多い。すぐに、この講師がその理由だと納得できた。
しかし、知紘は彼が放つ冷たいオーラに気づいた。整った外見とは裏腹に、人を寄せつけないような冷ややかさがあった。その冷たい視線は、知紘の心の奥に静かに響き、自分の内面にある不安が呼び覚まされた気がした。
「静かに」
低く澄んだテノールの声。女生徒たちのざわめきは完全に収まらないが、知紘にはその声に含まれた威圧感がはっきりと感じ取れた。自然と目が彼の動きに引き寄せられる。彼がホワイトボードに黒いマジックで名前を書き始めるその姿さえも、一種の芸術に見えた。
『湊千影』
「湊千影(みなと ちかげ)。俺の名だ。みんなの名前も知りたいから、最前列の右から左へ名前となぜこの講義を取ったのか教えてくれ」
それまで話していた生徒たちが一瞬で沈黙した。知紘は、ぼんやりと自己紹介していく生徒たちを眺めていたが、ふと湊先生と目が合った瞬間、全身に冷たい衝撃が走った。
湊の紫色の瞳が、知紘を鋭く射抜いた。その瞬間、心臓が跳ね、呼吸が詰まる。視界が揺れ、音が遠のいていく。白いモヤが広がり、知紘はそのまま意識を手放した。
「知紘! 知紘!」
遠くから遼の声が聞こえた。しかし、体は冷たさに包まれ、手足の感覚もほとんどない。うっすらと目を開けると、遼の青ざめた顔が視界に入った。
「遼……?」
「知紘、立てるか?」
遼の手を借りて机にしがみつこうとしたが、次の瞬間、体がふわりと浮いた。講義室の中で感じる視線が、知紘の全身を赤く染めた。しかし、それ以上に湊先生の腕の冷たさと、同時に感じる不思議な安心感が、知紘の心を乱した。
「悪いが、皆、自習にしてくれ」
湊先生の低い声が耳に届く。意識が次第にはっきりすると、彼に抱きかかえられていることに気づき、知紘はさらに顔を赤らめた。あの冷たい瞳が、こんなにも近くで自分を見つめている。彼の呼吸が耳元で感じられ、心臓がドキドキと早鐘のように鳴り響く。
「先生……大丈夫です。降ろして……」
「喋らなくていい」
冷たくもどこか優しい声が耳元で響き、知紘は言葉を失った。先生の腕に身を委ねたまま、目を閉じると、兄のことが頭に浮かんだ。――兄も、こんな風に助けてくれたのだろうか。
廊下を歩いているのだろうが、周りの視線はもう気にならない。ただ、湊先生の鼓動が耳に響く。ドクン、ドクンと早まる音が、自分のせいだと知紘は思った。大の男を抱えて歩くなど、普通は考えられない。
ホワイトボードに書かれた「湊千影」という名前が頭の中を巡る。彼の冷たい眼差しの中にあった強い意志や、どこか切なさを感じる瞬間が思い返される。「ちか……」と呟くと、少しだけ湊先生の腕に力が入ったように感じた。
夢が、また頭をよぎる。双子の兄弟の夢を見てから、どうも心を揺らすことが多くなった。視界がぼやけ、心が宙へ浮かぶような感覚にとらわれる。それになぜか湊先生と兄の姿が重なり、知紘の心はますます混乱していった。兄の笑顔や、一緒に過ごしたあの日々が、湊先生の姿に重なっていく。助けられた瞬間が、なぜか兄の記憶を呼び起こし、知紘の心に不安の波を引き起こしていた。
**
知紘が目を閉じていると、瞬く間に心は深い闇へと沈んでいった。
その闇を切り裂くように、まばゆい光が現れた。再び視界を取り戻すと、なぜか大学の講義室だった。無機質な机や椅子が整然と並び、学生たちのざわめきが耳に入ってくる。
しかし、目の前にいるのは知っている二人がいた。
一人は、凛とした姿勢で教壇に立つ湊千影。彼の紫色の瞳は、まるで深い湖のように知恵と冷たさを秘めている。そしてその隣には、小さな兄の姿があった。愛らしい笑顔を浮かべ、どこか無邪気さが残る少年の姿。しかし、その目は知紘を真っ直ぐに見つめ、何かを問いかけているようだった。
『どうしてお前だけ、何も考えずに生きていられるんだ?』
その言葉は、まるで重い石のように知紘の心にのしかかった。湊千影の冷たい視線と兄の無邪気な笑顔のコントラストが、彼の心に深い葛藤を呼び起こす。講義室の空気が一瞬、凍りついたように感じられた。
『お前は、何も知らないまま、ただ流れに身を任せているだけじゃないのか?』
兄の言葉は、知紘の内面をえぐり取るように響いた。知紘は口を開こうとしたが、言葉が出てこない。冷静に観察する湊千影の視線が、さらに知紘を追い詰めていく。心臓が高鳴り、呼吸が苦しくなっていく。
『このままでは、何も見えずに終わってしまうぞ』
湊千影の声が、冷たい湖のように響き渡った。その言葉に、知紘は何かが崩れ落ちる感覚を覚えた。心の奥底から恐れを感じた。この夢の中で、自分の本当の姿をさらけ出さなければならないのだろうか。
何も考えずに……生きることはできない、と心の中で呟いた。兄と千影が自分に向ける視線が、その真実を突き刺す。心が乱れ、意識が揺れる中、知紘はこの夢から逃げられないと悟った。
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