ポットのためのもう一杯

五条葵

文字の大きさ
24 / 26
新婚夫婦と7つのお茶

しおりを挟む
 初夏の明るい日差しも西に沈み、ガス灯の明かりが通りを暖かく照らす頃、ブラッドリー家のライブラリでは当主夫妻が食後のお茶を味わっていた。

 ロイヤルシアターでの歌劇鑑賞に出かけていた二人の夕食は普段より遅く、すでにもう一刻もすれば日も変わろうか、という頃合い。ただ、素晴らしい歌と演技に魅せられたシンシアは目をランランと輝かせ、今日の素敵な体験について興奮気味にトーマスに語りかけていた。

「本っ当に素晴らしかったですわ。まさかロイヤルシアターでの新作の初日に誘っていただけるなんて夢にも思いませんでした。よくチケットが手に入りましたね」

「ロイヤルシアターの運営にはブラッドリーも大きく関わっているからな。支配人がぜひ、と誘ってくれた」

「俳優の支援ならともかくロイヤルシアターの後援をしている家に嫁いだなんて私、未だに信じられませんわ」

 そう言ってシンシアは少し芝居がかって天井を見上げ嘆息する。
 俳優や音楽家、芸術家などを支援し、文化の向上に務めるのは、上流階級の義務の一つともいえるし、レイクトン家もリーンの劇場を支援していた。とは言え、ロイヤルシアターはその名の通り王立劇場。支援者に名を連ねるには王族の覚えもめでたい必要があり、いくら財力があろうと、それだけでは慣れない名誉ある役割だ。

 ローグスの一等地に堂々たる構えを持ち、世界に名高い劇場を自分の家が支援しているというのは、田舎育ちのシンシアにはにわかには信じ硬いことだった。

「でも、シンシアもロイヤルシアターは初めてじゃないだろう?それこそこっちに嫁ぐ前にも行ったことはあるんじゃないか?」

「えぇ、レイクトンの娘だった頃にも一度だけ行ったことはあります。でも新作の初日は全くの別ですし、あんなに良い席でもありませんでした。なにより着飾った上流の方々の空気に当てられて、観劇どころではありませんでしたわ」

 そう言ってシンシアは苦笑する。もちろん精一杯着飾りはしたものの、やはり都会の最先端の人々の輝きは当時のシンシアにはあまりにもまぶしすぎたのだった。

「まあ、とにかく喜んでもらえて良かった。さ、ところでお茶が冷めてしまうよ」

 そう言ってトーマスは珍しくまだ一口も口がつけられていないシンシアの前のカップを示す。夕食後のお茶はシンシアではなく、ブラウンや侍女達が淹れることが多い。今日は少々興奮気味のシンシアのためにハーブのお茶を淹れるよう頼んでいた。

「そうですわね。いただきますわ」

 そう言ってシンシアは少しはしゃぎすぎた自分に気付いたのか頬を軽く染め、カップを手にする。そしてスッキリとしたお茶を口にすると、その香りにほっと息をついた。

 ハーブの香りに興奮も少しずつ静まってきたシンシアはあらためて今日の舞台に思いを馳せ、そして隣に座るトーマスに話しかける。

「それにしても主演女優の方は素晴らしかったですわね。まさかこのお芝居が初めての主演だなんて信じられませんわ」

「ハンヴェル・フィセルかい?そうだね歌も素晴らしかったし、芝居もとてもあの歳とは思えない奥深さを見せていた。私は芝居はあまり詳しくないが、きっと明日の新聞の一面を騒がすだろうね」

「劇場の秘蔵っ子っていうのも新聞が好みそうですわよね。それに今日のお芝居の内容にもピッタリ。お話の内容もとっても気に入りましたわ。旦那様はいかが?」

 夫とお芝居の話ができるのが嬉しいシンシアは無意識にズイッとソファに座るトーマスに近寄る。

 一方トーマスは今までにない距離に内心焦りを感じつつも表面上は冷静な様子を保とうとする。観劇の興奮からなのだろう、いつもよりずっと陽気な妻に強請られ、いつもは向かい合って座るこのライブラリで今日は一つのソファに横並びに座っていた。

 もちろん二人がかけているソファは数人でかけられる広さで、書架と船来の芸術品に囲まれた落ち着いた空間にどっしりと置かれたソファ二人で座れば十分な余裕があり、礼儀正しい距離を保つことは造作もない。

 しかし最近何か考えがあるのか、事あるごとに二人の間の物理的な距離を縮めてこようとするシンシアは、普段より気分が高ぶっていることもあってか、二人でライブラリーに入ると、トーマスの手を引くようにソファに腰掛け、距離を逃げるのを許さない、とでも言うように距離を詰めてきた。

 シンシアと出会うまえなら、そんな行動をされたら、鬱陶しいと感じるか、慎みがない、と一蹴するかだっただろうが、シンシアがすると、普段とは違う一面を見れて面白い、と感じ、彼女に振り回されるのも悪くない、と思ってしまうのだから不思議なものだ。

 そんな訳で、おそらくアデルやロベルトからしたら、そんなことよりもっとトーマスからも距離を縮める努力をしろ、と言われそうであるが、トーマスからすれば、そんなシンシアを振り払わないだけでも驚くべき変化なのだ。

「面白かったよ。さすがグレーホルンの脚本家だけある、といったところだな。王道だしありがちな話ではあるが、よく練り上げられているし、台詞も素晴らしい」

 そう言ってトーマスが歌劇の感想を言うと、同じ意見だったのが嬉しかったのか

「ですわよね!」

 と感激し、胸の前で手を組みこちらをキラキラと見つめる。

「グレーホルンといえば芸術の国。特になんといってもお芝居の国ですものね。かの国の王族には舞台に出演していた人もいたとか。夢のある話ですよね」

「俳優王子のことだね。あくまで噂だが本当でもおかしくないくらい芝居が好きな王族はいるようだね」

「旦那様はグレーホルン王家の方についてもよくご存知なのですか?」

 シンシアが驚いたように聞く。グレーホルンはトレシアのさらに東。名前としては知っていてもシンシアにとっては遠い国だ。

「王太子殿下の御前で何度か話題に上ったことがある。あれでいて、外交に長けていて気の抜けない国らしい。一度だが訪れたこともあるよ」

「本当ですか?羨ましいですわ」

 トーマスの言葉にシンシアは目を輝かせ、かの国について教えてほしいとトーマスにせがむ。その姿はまるで父親に海外の話を聞く子供のようでいつもの聡明な姿とは少し違うが、目を輝かせ、トーマスの語るグレーホルンの町並みについて聞く彼女の姿は可愛らしく、トーマスもいつのまにかいつも以上に饒舌になる。

 どのくらい話していただろうか。トントンとノックする音にトーマスがハッとする。

「すまない、もうこんな時間か。ブラウン達も休めないよな」

 ノックをしたのはいつまでもライブラリから出てこず呼び鈴もおさない二人を心配したブラウンだった。

「いえ、私達は一向にかまわないのですが。あまり遅くなるとお二人共明日に差し支えがあるかと」

「そうだな、確かにそろそろ寝ないといけないが・・・・・」

 と言いかけて、トーマスはふとシンシアの方を見る。彼女の目はまだ好奇心にあふれているし、トーマス自身もう少しこの心地よい空間を楽しみたかった。そんな二人の無言の会話に気付いたブラウンは微笑む。

「でしたら続きは寝室でなされてはいかがですかトーマス様?寝支度を整えた後でしたらいつまでお話されていても問題ありませんし、そのまま寝てしまっても問題ありません。トーマス様はともかく奥様はその格好で寝てしまっては大変です」

 そんなシンシアの姿は柔らかく身体に負担をかけない部屋着とはいえドレスのまま。確かに一度着替えをするべきだろう。

「ブラウンの言う通りだな。よし、シンシア。続きは主寝室でしようか。とりあえずあなたも着替えさせてもらいなさい」

 そう言うと侍女を呼ぶためのベルを鳴らし、そして自身も支度を整えるためブラウンとともに部屋を出る。

 こんな真夜中にシンシアと寝室に入るのは初めてだ、そのことに気付いたのは、やや緊張した面持ちのシンシアが寝室に入ってきたのを目にしたときだった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。

沼野 花
恋愛
夫と子供たちに、選ばれなかったイネス。 すべてを愛人に奪われ、彼女は限界を迎え、屋敷を去る。 だが、その先に待っていたのは、救いではなかった。 イネスを襲った、取り返しのつかない出来事。 変わり果てた現実を前に、 夫はようやく、自分が何を失ったのかを思い知る。 深い後悔と悲しみに苛まれながら、 失ったイネスの心を取り戻そうとする夫。 しかし、彼女の心はすでに、外の世界へと向かっていた。 贖罪を背負いながらもイネスを求め続ける夫。 そして、母の心を知っていく子供たち。 イネスが求める愛とは、 そして、幸せとは――。

働かないつもりでしたのに、気づけば全部うまくいっていました ――自由に生きる貴族夫人と溺愛旦那様』

鷹 綾
恋愛
前世では、仕事に追われるだけの人生を送り、恋も自由も知らないまま終わった私。 だからこそ転生後に誓った―― 「今度こそ、働かずに優雅に生きる!」 と。 気づけば貴族夫人、しかも結婚相手は冷静沈着な名門貴族リチャード様。 「君は何もしなくていい。自由に過ごしてくれ」 ――理想的すぎる条件に、これは勝ち確人生だと思ったのに。 なぜか気づけば、 ・屋敷の管理を改善して使用人の待遇が激変 ・夫の仕事を手伝ったら経理改革が大成功 ・興味本位で教えた簿記と珠算が商業界に革命を起こす ・商人ギルドの顧問にまで祭り上げられる始末 「あれ? 私、働かない予定でしたよね???」 自分から出世街道を爆走するつもりはなかったはずなのに、 “やりたいことをやっていただけ”で、世界のほうが勝手に変わっていく。 一方、そんな彼女を静かに見守り続けていた夫・リチャードは、 実は昔から彼女を想い続けていた溺愛系旦那様で――。 「君が選ぶなら、私はずっとそばにいる」 働かないつもりだった貴族夫人が、 自由・仕事・愛情のすべてを“自分で選ぶ”人生に辿り着く物語。 これは、 何もしないはずだったのに、幸せだけは全部手に入れてしまった女性の物語。

身代わりで呪いの公爵に嫁ぎましたが、聖女の力で浄化したら離縁どころか国一番の溺愛妻になりました〜実家が泣きついてももう遅い〜

しょくぱん
恋愛
「お前のような無能は、死神の生贄にでもなっていろ」 魔力なしの無能と蔑まれ、家族に虐げられてきた伯爵令嬢レティシア。 彼女に命じられたのは、近づく者すべてを病ませるという『呪いの公爵』アレクシスへの身代わり結婚だった。 鉄格子の馬車で運ばれ、たどり着いたのは瘴気に満ちた死の城。 恐ろしい怪物のような男に殺される――。 そう覚悟していたレティシアだったが、目の前の光景に絶望よりも先に別の感情が湧き上がる。 (な、何これ……汚すぎるわ! 雑巾とブラシはどこ!?) 実は、彼女が「無能」と言われていたのは、その力が『洗浄』と『浄化』に特化した特殊な聖女の魔力だったから。 レティシアが掃除をすれば、呪いの瘴気は消え去り、枯れた大地には花が咲き、不気味だった公爵城はまたたく間にピカピカの聖域に塗り替えられていく。 さらには、呪いで苦しんでいたアレクシスの素顔は、見惚れるほどの美青年で――。 「レティシア、君は一体何者なんだ……? 体が、こんなに軽いのは初めてだ」 冷酷だったはずの公爵様から、まさかの執着と溺愛。 さらには、呪いが解けたことで領地は国一番の豊かさを取り戻していく。 一方で、レティシアを捨てた実家は、彼女の『浄化』を失ったことで災厄に見舞われ、今さら「戻ってきてくれ」と泣きついてくるが……。 「私は今、お城の掃除と旦那様のお世話で忙しいんです。お引き取りくださいませ」 これは、掃除を愛する薄幸令嬢が、その愛と魔力で死神公爵を救い、最高に幸せな居場所を手に入れるまでのお話。

私が素直になったとき……君の甘過ぎる溺愛が止まらない

朝陽七彩
恋愛
十五年ぶりに君に再開して。 止まっていた時が。 再び、動き出す―――。 *◦*◦*◦*◦*◦*◦*◦*◦*◦*◦*◦*◦*◦*◦*◦*◦* 衣川遥稀(いがわ はるき) 好きな人に素直になることができない 松尾聖志(まつお さとし) イケメンで人気者 *◦*◦*◦*◦*◦*◦*◦*◦*◦*◦*◦*◦*◦*◦*◦*◦*

【完結】妻の日記を読んでしまった結果

たちばな立花
恋愛
政略結婚で美しい妻を貰って一年。二人の距離は縮まらない。 そんなとき、アレクトは妻の日記を読んでしまう。

『処刑されるたびに12歳に戻る悪役令嬢、7回目の人生は「何もせず寝て過ごす」ことに決めたら、なぜか周囲が勝手に勘違いして聖女扱いされています

六角
恋愛
公爵令嬢リリアーナは、18歳の誕生日に必ず断罪・処刑されては12歳に戻るという地獄のループを6回も繰り返していた。 真面目に努力しても、剣を極めても、裏社会を支配しても、結局は殺される運命。 心折れた彼女は、7回目の人生でついに決意する。 「もう頑張らない。どうせ死ぬなら、今回はひたすら寝て過ごそう」と。 しかし、安眠を求めて「うるさい」と敵を黙らせれば『王者の覇気』と恐れられ、寝ぼけて放った魔法は『神の奇跡』と崇められ、枕への異常なこだわりは『深遠なる儀式』と誤解されてしまう。 気がつけば、ストーカー気味のヤンデレ王子、パン屋の元ヒロイン、狂犬の如きライバル令嬢、元部下の暗殺者、そして不眠症の魔王までもが彼女の信者となり、リリアーナは意図せずして国を、そして世界を救う「最強の聖女」へと祭り上げられていく。 「お願いだから、私を寝かせて!」 睡眠欲だけで運命(システム)さえもねじ伏せる、無気力悪役令嬢の痛快勘違いサクセス(?)ストーリー!

氷の宰相補佐と押しつけられた厄災の花嫁

瑞原唯子
恋愛
王命により、アイザックはまだ十歳の少女を妻として娶ることになった。 彼女は生後まもなく始末されたはずの『厄災の姫』である。最近になって生存が判明したが、いまさら王家に迎え入れることも始末することもできない——悩んだ末、国王は序列一位のシェフィールド公爵家に押しつけたのだ。

病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜

来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。 望んでいたわけじゃない。 けれど、逃げられなかった。 生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。 親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。 無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。 それでも――彼だけは違った。 優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。 形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。 これは束縛? それとも、本当の愛? 穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

処理中です...