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第三部

120.

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 玄関からヤトの父、神谷博のいた部屋部分の長さの廊下を進むと、左右にワンフロアをぶち抜いたような廊下が広がっている。

 ツインテールを揺らしながら見渡すと、左側の廊下が綺麗に掃除されていて右側は防壁のように雑誌が積み重ねられていた。そして、その防壁のような雑誌の積み重ねられた廊下の始まりに、張り紙で〝この先裕人の部屋〟と書かれ壁に貼り付けられていた。

 その不自然な張り紙や雑誌に、警戒心を出してそっと覗きこむ凛。すると、その積み重ねられた雑誌を越えた両サイドに、不可解なカメラが置かれていた。

「……どうして」

 溜め息を吐きながらそう言う。

 本来それは凛ではなく別の人物に仕掛けられたトラップと彼女は考える。凛は両サイドのカメラに映らない様に、左端を壁を背にスカートを押さえながら雑誌を跨いで行く。しかし、彼女は雑誌の中を切り抜いて仕掛けられた隠しカメラには気がつかない。

 その少し前、神谷博はカメラの映像が直で見えるPCの前で、カメラの電源を入れるために椅子に座る。そして、PCディスプレイ用眼鏡を触って待機中で暗くなった画面をつけようとする。が、いくら触れても反応がない。なぜ、それが反応しないのか――なぜなら。

「ん?本体がない…………………………日笠く~ん!?」

 ディスプレイだけになれば、それはただの高級な先の見えないサングラスで何の用途もなくなってしまう。求めるティッシュ箱ほどの大きさのPCケースの行方は、数分前にメイドの手によって4階から地上へと落下して、コンクリートに激突し破片を散乱していた。

 凛は、そうとも知らず危機を回避して雑誌の山を抜けた。

 KEEPOUT、と書かれた扉の前に立ち、なんとなくそこがヤト、神谷裕人の部屋であると思いドアを叩いた凛。すると、中から「どうぞ」と声が聞こえる。

 扉を開けると中は12畳ほどの広さで、入って左手側にメイド姿の日笠棗が、右手側に頭をすっぽりとコネクトシステムの機器に覆われた青年が寝ている。

 凛は、その青年の元へゆっくりと近づき挨拶した。

「やぁ、久しぶりだね。ん?初めましてでもあるのかな――」

 凛は隠れて目元も見えないその頬を撫でて、「ヤト……」と呟いた。

 しばらく現実で触れるヤトに夢中になる凛。

 BCOでのヤトは細身で骨ばった印象だったが、現実ではかなり筋肉質で、半年以上も運動していないようには見えなかった。

 ついさっきまで体を拭いていたのか、ヤトの服が少しはだけて腹筋が見えている。

 凛は静かに指先で腹筋を突くと、力を入れていないのに確りとした感触が指先で感じられる。

 カッチカチだ~と思っている凛に耳元で、「微電流で筋組織の運動をしていますから」と声をかけられて思わず驚く。

「わぁ!…………ごめんなさい、大声出して」

 寝ている間に微電流で運動をしているんだろうとは、彼女も自身の体験から理解してはいた。

 それでも、凛自身リハビリが必要な程度には筋肉が落ちていたため、ヤトの毎日鍛えているような体付きには興味があった。

「かなり鍛えてるんですね、ヤト……じゃなくて裕人くん」
「ええ、毎日2時間置きに10分から20分ほど筋肉の運動をさせているので」

 毎日2時間置き、というセリフが凛は少し引っかかる。

「24時間態勢で看病してるんですか?」

 その問いに、「ええ」と返す日笠。

「他にも誰かお手伝いさんがいるんですよね?」

 凛のその問いかけに日笠棗は首を振る。

「私1人です」
「1人?日笠さん1人でヤトの面倒を看ているんですか?!とても大変なんじゃ……」

 日笠棗は、「慣れてますから」とヤトの服を正す。

「彼の面倒を看るの長いんですか?」
「もう1年になります。裕人様は基本仮想世界でお過ごしになられますので、排泄やお食事の準備、博さんからの伝言などを伝える役目を業務としております」

 さらっと排泄という言葉を口にする彼女に、凛は少しだけ眉を顰めた。

 きっとヤトの体のどこにホクロがあるのか知っているんだろうな――と、凛は思いながら、日笠棗がヤトの世話をしている光景を思い浮かべてフリーズする。

「あの、もうご用事はお済ですか?」

 日笠棗が赤いメガネを持ち上げてそう聞いてくるので、「もう少しここにいます」と答える凛。凛はてっきり彼女が部屋から出て行くものだと思っていた、が、その部屋に置いてある机の前に行き、椅子に座ってなにやらARディスプレイの操作し始めた。

 10分、20分経っても日笠棗が監視するようにそこから動かないため、凛はしようと思っていた頬にキスができないまま、「じゃ、ボク帰ります」と言って帰ることにする。

 日笠棗は凛を一瞥して、「お帰りの際は足元にお気をつけ下さい」と言って再び視線を空間へと戻す。凛は、メイドの死角になっているだろうと、それじゃまたね――と言って、さり気なくヤトの頬にキスして部屋を出た。

 帰りも雑誌の山を跨いで行く凛は、雑誌に隠されているカメラに気が付いて頬を膨らますと、一つ一つ雑誌の中のカメラのレンズを下に向けて帰ろうとする。そして、玄関に続く廊下に出るとちょうどその扉が開く。

 開いた扉から現れたのはスーツ姿の男で、髪型がオールバックになっているが、凛はそれが小野であるとすぐに分かった。凛が小野と玄関前の廊下で目を合わせた頃、机の前の椅子から日笠棗の姿がいなくなっていて、仮想現実にフルダイブ中のヤトの傍にいた。

 その現実の体の神谷裕人の隣でその頬を見つめていた彼女は、徐に除菌・殺菌とパッケージにプリントされたウェットティッシュを1枚取り出してその頬を拭う。

 おそらくは凛が口を当てた部分であり、日笠棗はその瞬間を目にしていたのだろう。

 丁寧に拭かれた頬を撫でた彼女は、口元に笑みを浮かべて、「これで綺麗になりました」と呟いた。
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