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【完結話】或るシングルマザーの憂鬱
#8 情熱の真っ赤な
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もう一時も止まらないため息のせいで、体重が減ってしまったのではないかと思った。
土曜日の夜からずっとこんな調子だ。
週明けそうそうお茶当番という頃わしさも追い討ちをかける。
給湯室で営業二課の女の子が、先にポットにお湯を入れている。
「お先です」滴で濡れた流し台を布巾で拭いて、あたしにニコリと微笑んだ。
好意的な態度で接してこられても、どっと疲れがぶり返してくる。
圭吾の期待を裏切ってしまったことへの後悔で、溺れそうになる。
何の文句も言ってこず、普段通りに振舞っていた圭吾の健気さがますます辛く、心に黒いモヤモヤが渦巻いて溜まっていた。
水族館になんか行かなければよかった。
散々楽しんでおいて何だけど。
圭吾をキュンキュン・ワールドに連れていくという、一番の目的を後回しにしてしまった自分を恨む。
鮫島くんのデートプランを取り下げてもらって、キュンキュン・ワールドだけに絞っていたらよかった。
きっと水族館でのあたしの楽しそうな状態に、圭吾は戸惑っただろうし、のけ者にされたと傷ついただろう。
その上結局キュンキュン・ワールドには行けませんでした、なんて、気落ちしていないはずがない。
「あ、あ、危ないですよ」
横から高い声がして、細く節くれだった手が蛇口を閉めた。
はっと気づいたら、ポットから熱湯が溢れていた。
アチ、アチチ、と小さく言ったその人は、ポットのふたを持って少し傾け、丁度いい分量までお湯を捨ててくれた。
パタとふたを閉めて、ふうーと一仕事終えたように安堵した、この親切な人は誰かと顔を上げたら、野田だった。
「や、火傷、しましまか。あ、しましたか」
どもっているのか、ふざけているのか。
あたしは「なにも」とうつむいて言い、ポットを持って出て行こうとした。
「一課に寄りますので、わたしが持ちましょう」
野田が今度はよどみなく言い、ポットを控えめな物腰で奪った。
サッと廊下へ手を指し出し、頭の天辺をあたしに見せ付ける。
レディファーストのつもりなのだろうか。
ただ先に行けと指図されたようで角が立つ。
一課まで、野田は召し使いのように腰を低くしてあたしの後ろについてきた。
ポットの置き場所を尋ねてくることもなく、小型冷蔵庫の横の小さな棚に丁寧に置き、コンセントを入れた。
「棚が少々傷んでいますね。うーん、うーん」
多少古めかしくはあるが勝手悪い点もない棚を、野田が目分量で縦横高さの長さを測っている。
放っておいて急須にお茶っぱとお湯を入れていると、
「小北さんのために、棚をリノベーションしましょう」
と、野田はさも良い案を考え付いたかのように言い出した。
またつまらないことに巻き込まれるのはゴメンなので、完全無視して9個の湯飲みにお茶を注ぐ。
「うん、うん、イメージ、イメージ」
野田は頬に手をあて、棚の未来予想図を描いている。
気が滅入るので、あたしは早々とその場から離れた。
それぞれの机の隅に湯飲みをノロノロ置いていく。
「今日はお茶の量が少ないな」
という声があちこちから聞こえたが、それも無視して野田が棚から去っていくのを待った。
棚イメージが早くも決定したのか、手のひらを広げた出来損ないのガッツポーズをした後、野田は一課から棚を持ち出して行った。
ポットを床に残して。
イラつく元気もなく、姿を消してくれてありがとうと、胸の内で毒だけは吐いておいた。
三浦さんが大あくびをしているのを横目に、新着メールの確認をした。
仕入先からロッドピンの納期が遅れるとの報告と、土曜日のお詫びの件、という鮫島くんからのと、二件だった。
わざわざ社内のメールを使用してきた鮫島くんのメールを開いた。
『土曜日は、ぼく的には始めは楽しかったですけど、途中すみませんでした。けいご君の機嫌は直りましたか。やっぱやばかったですよね。今週木曜の祝日に、お詫びがてら三人でディナーしましょう。
昨日、すごくいい感じのお店を見つけたんです』
あたしは読み終わるなり、首をかしげた。
どうしてまた、お誘いをしてくるんだろう。
「これだから子供は…・・・・・」とつぶやいていたくらいだから、もう嫌になっただろうと思っていた。
でも、お詫びはありがたいけれど、圭吾にとってのお詫び、にはなっていない。
ここはディナーよりもキュンキュン・ワールドだろう。
そこ以外で今の圭吾を喜ばせる場所などあるわけがない。
ディナーには行かないほうがいい。
そうだ、木曜日は思い切ってへそくりから出費し、あたしが圭吾をキュンキュン・ワールドに連れて行ってあげよう。
今、そう決めたら、垂直に流れ落ちる滝と同じ勢いで、胸のつかえがカーペットの上に落下していった。
キュンキュン・ワールドに行くことは、圭吾に内緒にしておいて、当日連れて行って驚かせてやろう。
きっと圭吾は首をピンと伸ばして目をパチクリさせ、あたしを見上げてニヤリとニヒルに笑うだろう。
嬉しいときに見せる、子供らしくはないが可愛い笑顔だ。
にわかに仕事への意欲まで湧いてきた。
あさっての立会い検査に間に合わすため、明日までに操作パネルを板金加工してくれるよう業者に頼んだ。
出来次第うちの契約工場へ持ち込んで欲しいと、その業者のエロ社長に電話口で媚びて甘えながら無理を聞かせる。
ちょろいもんだ。
足取り軽く、得意先に頼まれていた、ソケットのパンフレットを探し出し、コピーしていたら鮫島くんが近づいてきた。
家から持ってきたハガキや明細なんかを、横のシュレッダーにかけている。
チラチラこちらを見てくるので、目だけを向けたらウインクしてきた。
「ご機嫌ですね。何か嬉しいことでもあるのですか」
メールでのディナーの話があたしを浮かれさせていると、勘違いしているようだ。
あたしは返事をせずに席に戻った。
馴れ馴れしい目つきに、胸の鼓動が早まる気がしなくもないが、気の迷いを払いのけ断りのメールを入れておいた。
額に白いタオルをねじり巻き、メガネを湿気で湿らせ、スーツに腕まくりした手を揚々と振って突っ立っていた。
ふとドア付近に目がいって、釘付けになってしまった野田の出で立ちだ。
昼間際のこの部屋には、営業の人は外出しており部長と三浦さんとあたししかいなかった。
白い布がかけられた物体を振り返りながら1課に運び入れる野田を、部長は案の如く、見て見ぬふりで見積書なんかをパラパラめくっている。
三浦さんは野田のただごとではない身なりを見過ごすはずがなく、「それ何ですかー」とヤツの元へ吸い寄せられていった。
布なんか被せて勿体つけているが、さっき勝手に持って行った棚だろうが。
野田が口を覆って三浦さんに何やら話している。
電話でも掛かってこないだろうか。
冷蔵庫付近をなるべく見ないようにしていたが、とうとう三浦さんがあたしを呼んできた。
せっかくやる気になっていた仕事熱が、百からゼロへと一気に下降する。
聞こえないふりでやり過ごそうとしたが、そろそろお昼のお茶を入れる時間も近くなっているせいで、仕方なしに足を向けた。
「野田さんが棚をコキちゃんイメージに変えてくれたって。どんな感じに仕上がっているのでしょう。では、披露しますよ」
三浦さんは、生まれ変わったらしい棚のお披露目を、野田と共に始めた。
野田がうやうやしく布を引っ張る。
新装された棚は、その容赦ない変貌ぶりを恥じることなく存在していた。
~ナチュラルな木目調だったシンプルな棚が、どうしたことでしょう!
ラメ入りの真っ赤なカッティングシートを全体に張り巡らせ、まばゆい輝きをまとう羽目になっているではありませんか!
二段ある引き戸の丸いつまみは外され、新たに取り付けられた白いハートの取っ手が不快さを増すよう表現されております!~
あたしは頭の中で悪趣味極まりない棚のナレーションを流した。
あたしのイメージがこれだと公言する、野田の失敬な感覚を呪いつつ、だ。
横で三浦さんは、「クリスマスぽい!」と、想定外に喜んでいる。
サンタクロースが怒ってきそうだ。
「仕事もせずに、こんなことやっていたんですか」
とあたしは棚を見下ろして言ってやった。
「ええ、これが仕事ですから」
立派にやり終えましたとばかりに、野田が言う。
他の総務社員は不要な雑務を遂行する、新参者の野田に注意をしなかったのだろうか。
手が空いたときに、色々なものを手直ししているんです。
と、野田は今までに手がけた自作の品を発表している。
「給湯室の布巾干しの本数を増やし、早く乾かせる位置へ移動させました」
「あー、あれ。せせこましく干していたのが、余裕で干せるようにたなりましたよ。野田さんがしてくれたのかぁ」
野田と三浦さんの二人はあたしに「頼れる野田」をアピールしてくる。
そこへ営業から戻ってきた鮫島くんと、さっきまで知らんぷりしていた部長が何事かと輪に加わってきた。
「えっ、これ何ですか。チカチカして、ここに似つかわしくないですね」
鮫島くんが、まともなセンスを示してきた。
「野田さんがコキちゃんをイメージして再生してくれたのですよ」
棚をけなす鮫島くんを三浦さんが睨んだ。
「小北をイメージ、か・・・・・・」
部長が意味深に唸って、自分の席へゆっくり戻って行った。
チカチカして、ここに似つかわしくない、と棚を形容した鮫島くんの言葉を心の中で反復して、納得でもしているかのようだ。
モヤっとしこりが残る。
「小北さんは、こんなイメージじゃないですよ。もっと、モダンでシャープな感じです」
鮫島くんの感性をありがたく思うも、慰めに聞こえた。
ぱらぱらと一課に戻ってくる営業の人らが、入って来るなりどうしても目にとび込んくる真っ赤な物体に、もれなく驚く。
正体を確かめにくるみんなに、三浦さんはいちいち、
「野田さんがコキちゃんイメージで仕上げた絶品です」
と、楽しげに説明する。
その度、いちいち笑いが起こる。
三浦さんの無邪気さに悪意さえ感じてくる。
「チカチカして、ここにふさわしくない感じが、小北のイメージにマッチしている、と鮫島が言っていたぞ」
万事において事なかれ主義の部長が、鮫島くんの言葉を借りて皮肉めいたことを言った。
「なかなかウマいこと言うじゃないか。なぁ、小北」
誰かがあたしの背中をバシッとしばいて、周りのみんなと笑う。
「ぼく、そんなふうに言ったのではないですよ。部長」
鮫島くんはあたしの顔色をうかがいながら、部長を非難した。
が、笑うみんなに同化されて、最後には一緒になって笑っていた。
冗談で茶化されているだけだとわかりながらも、あたしは集団イジメにあっているようで、嫌な気分になった。
ここにふさわしくない、というのは、ここにいらないって意味にもとれるし、実際その言葉にみんなが笑うとは。
「みなさん、間違っていますよ!」
ずっと黙っていた野田が、急に突拍子もない高い声でわめいた。
「これは、小北さんをイメージしたのではなく、小北さんを想う、わたくしの情熱をイメージした作品でございます!」
一体全体どういうつもりか、馬鹿笑いをしている面々に、野田は公然告白をおっぴろげてしまっている。
あたしはあまりの仰天ぶりに抜け出してしまった魂を、懸命に引き寄せた。
周りのみんなは呆気にとられて口が半開きになっている。
みんなはその一瞬笑いを止め、しかし次の瞬間には体を揺すって大笑いした。
「さすが爆笑王!やられました」
「小北を幸せにしてやってください」
どこからともなく拍手が起こった。
野田は肩をすくめ、ぜんまい仕掛けの人形のようにお辞儀をして部屋から出て行った。
辺りで含み笑いがもれる。
あたしを直接笑い物にしていた空気から、野田を通してあたしを笑うという、さっきのイジメよりも一段と憂鬱な方向へと事は運んでいった。
それでも、自分だけが惨々と笑われるより少しだけ救われた気もして、あたしはその情熱の真っ赤な棚で、お昼のお茶の用意をし始めた。
つづく
土曜日の夜からずっとこんな調子だ。
週明けそうそうお茶当番という頃わしさも追い討ちをかける。
給湯室で営業二課の女の子が、先にポットにお湯を入れている。
「お先です」滴で濡れた流し台を布巾で拭いて、あたしにニコリと微笑んだ。
好意的な態度で接してこられても、どっと疲れがぶり返してくる。
圭吾の期待を裏切ってしまったことへの後悔で、溺れそうになる。
何の文句も言ってこず、普段通りに振舞っていた圭吾の健気さがますます辛く、心に黒いモヤモヤが渦巻いて溜まっていた。
水族館になんか行かなければよかった。
散々楽しんでおいて何だけど。
圭吾をキュンキュン・ワールドに連れていくという、一番の目的を後回しにしてしまった自分を恨む。
鮫島くんのデートプランを取り下げてもらって、キュンキュン・ワールドだけに絞っていたらよかった。
きっと水族館でのあたしの楽しそうな状態に、圭吾は戸惑っただろうし、のけ者にされたと傷ついただろう。
その上結局キュンキュン・ワールドには行けませんでした、なんて、気落ちしていないはずがない。
「あ、あ、危ないですよ」
横から高い声がして、細く節くれだった手が蛇口を閉めた。
はっと気づいたら、ポットから熱湯が溢れていた。
アチ、アチチ、と小さく言ったその人は、ポットのふたを持って少し傾け、丁度いい分量までお湯を捨ててくれた。
パタとふたを閉めて、ふうーと一仕事終えたように安堵した、この親切な人は誰かと顔を上げたら、野田だった。
「や、火傷、しましまか。あ、しましたか」
どもっているのか、ふざけているのか。
あたしは「なにも」とうつむいて言い、ポットを持って出て行こうとした。
「一課に寄りますので、わたしが持ちましょう」
野田が今度はよどみなく言い、ポットを控えめな物腰で奪った。
サッと廊下へ手を指し出し、頭の天辺をあたしに見せ付ける。
レディファーストのつもりなのだろうか。
ただ先に行けと指図されたようで角が立つ。
一課まで、野田は召し使いのように腰を低くしてあたしの後ろについてきた。
ポットの置き場所を尋ねてくることもなく、小型冷蔵庫の横の小さな棚に丁寧に置き、コンセントを入れた。
「棚が少々傷んでいますね。うーん、うーん」
多少古めかしくはあるが勝手悪い点もない棚を、野田が目分量で縦横高さの長さを測っている。
放っておいて急須にお茶っぱとお湯を入れていると、
「小北さんのために、棚をリノベーションしましょう」
と、野田はさも良い案を考え付いたかのように言い出した。
またつまらないことに巻き込まれるのはゴメンなので、完全無視して9個の湯飲みにお茶を注ぐ。
「うん、うん、イメージ、イメージ」
野田は頬に手をあて、棚の未来予想図を描いている。
気が滅入るので、あたしは早々とその場から離れた。
それぞれの机の隅に湯飲みをノロノロ置いていく。
「今日はお茶の量が少ないな」
という声があちこちから聞こえたが、それも無視して野田が棚から去っていくのを待った。
棚イメージが早くも決定したのか、手のひらを広げた出来損ないのガッツポーズをした後、野田は一課から棚を持ち出して行った。
ポットを床に残して。
イラつく元気もなく、姿を消してくれてありがとうと、胸の内で毒だけは吐いておいた。
三浦さんが大あくびをしているのを横目に、新着メールの確認をした。
仕入先からロッドピンの納期が遅れるとの報告と、土曜日のお詫びの件、という鮫島くんからのと、二件だった。
わざわざ社内のメールを使用してきた鮫島くんのメールを開いた。
『土曜日は、ぼく的には始めは楽しかったですけど、途中すみませんでした。けいご君の機嫌は直りましたか。やっぱやばかったですよね。今週木曜の祝日に、お詫びがてら三人でディナーしましょう。
昨日、すごくいい感じのお店を見つけたんです』
あたしは読み終わるなり、首をかしげた。
どうしてまた、お誘いをしてくるんだろう。
「これだから子供は…・・・・・」とつぶやいていたくらいだから、もう嫌になっただろうと思っていた。
でも、お詫びはありがたいけれど、圭吾にとってのお詫び、にはなっていない。
ここはディナーよりもキュンキュン・ワールドだろう。
そこ以外で今の圭吾を喜ばせる場所などあるわけがない。
ディナーには行かないほうがいい。
そうだ、木曜日は思い切ってへそくりから出費し、あたしが圭吾をキュンキュン・ワールドに連れて行ってあげよう。
今、そう決めたら、垂直に流れ落ちる滝と同じ勢いで、胸のつかえがカーペットの上に落下していった。
キュンキュン・ワールドに行くことは、圭吾に内緒にしておいて、当日連れて行って驚かせてやろう。
きっと圭吾は首をピンと伸ばして目をパチクリさせ、あたしを見上げてニヤリとニヒルに笑うだろう。
嬉しいときに見せる、子供らしくはないが可愛い笑顔だ。
にわかに仕事への意欲まで湧いてきた。
あさっての立会い検査に間に合わすため、明日までに操作パネルを板金加工してくれるよう業者に頼んだ。
出来次第うちの契約工場へ持ち込んで欲しいと、その業者のエロ社長に電話口で媚びて甘えながら無理を聞かせる。
ちょろいもんだ。
足取り軽く、得意先に頼まれていた、ソケットのパンフレットを探し出し、コピーしていたら鮫島くんが近づいてきた。
家から持ってきたハガキや明細なんかを、横のシュレッダーにかけている。
チラチラこちらを見てくるので、目だけを向けたらウインクしてきた。
「ご機嫌ですね。何か嬉しいことでもあるのですか」
メールでのディナーの話があたしを浮かれさせていると、勘違いしているようだ。
あたしは返事をせずに席に戻った。
馴れ馴れしい目つきに、胸の鼓動が早まる気がしなくもないが、気の迷いを払いのけ断りのメールを入れておいた。
額に白いタオルをねじり巻き、メガネを湿気で湿らせ、スーツに腕まくりした手を揚々と振って突っ立っていた。
ふとドア付近に目がいって、釘付けになってしまった野田の出で立ちだ。
昼間際のこの部屋には、営業の人は外出しており部長と三浦さんとあたししかいなかった。
白い布がかけられた物体を振り返りながら1課に運び入れる野田を、部長は案の如く、見て見ぬふりで見積書なんかをパラパラめくっている。
三浦さんは野田のただごとではない身なりを見過ごすはずがなく、「それ何ですかー」とヤツの元へ吸い寄せられていった。
布なんか被せて勿体つけているが、さっき勝手に持って行った棚だろうが。
野田が口を覆って三浦さんに何やら話している。
電話でも掛かってこないだろうか。
冷蔵庫付近をなるべく見ないようにしていたが、とうとう三浦さんがあたしを呼んできた。
せっかくやる気になっていた仕事熱が、百からゼロへと一気に下降する。
聞こえないふりでやり過ごそうとしたが、そろそろお昼のお茶を入れる時間も近くなっているせいで、仕方なしに足を向けた。
「野田さんが棚をコキちゃんイメージに変えてくれたって。どんな感じに仕上がっているのでしょう。では、披露しますよ」
三浦さんは、生まれ変わったらしい棚のお披露目を、野田と共に始めた。
野田がうやうやしく布を引っ張る。
新装された棚は、その容赦ない変貌ぶりを恥じることなく存在していた。
~ナチュラルな木目調だったシンプルな棚が、どうしたことでしょう!
ラメ入りの真っ赤なカッティングシートを全体に張り巡らせ、まばゆい輝きをまとう羽目になっているではありませんか!
二段ある引き戸の丸いつまみは外され、新たに取り付けられた白いハートの取っ手が不快さを増すよう表現されております!~
あたしは頭の中で悪趣味極まりない棚のナレーションを流した。
あたしのイメージがこれだと公言する、野田の失敬な感覚を呪いつつ、だ。
横で三浦さんは、「クリスマスぽい!」と、想定外に喜んでいる。
サンタクロースが怒ってきそうだ。
「仕事もせずに、こんなことやっていたんですか」
とあたしは棚を見下ろして言ってやった。
「ええ、これが仕事ですから」
立派にやり終えましたとばかりに、野田が言う。
他の総務社員は不要な雑務を遂行する、新参者の野田に注意をしなかったのだろうか。
手が空いたときに、色々なものを手直ししているんです。
と、野田は今までに手がけた自作の品を発表している。
「給湯室の布巾干しの本数を増やし、早く乾かせる位置へ移動させました」
「あー、あれ。せせこましく干していたのが、余裕で干せるようにたなりましたよ。野田さんがしてくれたのかぁ」
野田と三浦さんの二人はあたしに「頼れる野田」をアピールしてくる。
そこへ営業から戻ってきた鮫島くんと、さっきまで知らんぷりしていた部長が何事かと輪に加わってきた。
「えっ、これ何ですか。チカチカして、ここに似つかわしくないですね」
鮫島くんが、まともなセンスを示してきた。
「野田さんがコキちゃんをイメージして再生してくれたのですよ」
棚をけなす鮫島くんを三浦さんが睨んだ。
「小北をイメージ、か・・・・・・」
部長が意味深に唸って、自分の席へゆっくり戻って行った。
チカチカして、ここに似つかわしくない、と棚を形容した鮫島くんの言葉を心の中で反復して、納得でもしているかのようだ。
モヤっとしこりが残る。
「小北さんは、こんなイメージじゃないですよ。もっと、モダンでシャープな感じです」
鮫島くんの感性をありがたく思うも、慰めに聞こえた。
ぱらぱらと一課に戻ってくる営業の人らが、入って来るなりどうしても目にとび込んくる真っ赤な物体に、もれなく驚く。
正体を確かめにくるみんなに、三浦さんはいちいち、
「野田さんがコキちゃんイメージで仕上げた絶品です」
と、楽しげに説明する。
その度、いちいち笑いが起こる。
三浦さんの無邪気さに悪意さえ感じてくる。
「チカチカして、ここにふさわしくない感じが、小北のイメージにマッチしている、と鮫島が言っていたぞ」
万事において事なかれ主義の部長が、鮫島くんの言葉を借りて皮肉めいたことを言った。
「なかなかウマいこと言うじゃないか。なぁ、小北」
誰かがあたしの背中をバシッとしばいて、周りのみんなと笑う。
「ぼく、そんなふうに言ったのではないですよ。部長」
鮫島くんはあたしの顔色をうかがいながら、部長を非難した。
が、笑うみんなに同化されて、最後には一緒になって笑っていた。
冗談で茶化されているだけだとわかりながらも、あたしは集団イジメにあっているようで、嫌な気分になった。
ここにふさわしくない、というのは、ここにいらないって意味にもとれるし、実際その言葉にみんなが笑うとは。
「みなさん、間違っていますよ!」
ずっと黙っていた野田が、急に突拍子もない高い声でわめいた。
「これは、小北さんをイメージしたのではなく、小北さんを想う、わたくしの情熱をイメージした作品でございます!」
一体全体どういうつもりか、馬鹿笑いをしている面々に、野田は公然告白をおっぴろげてしまっている。
あたしはあまりの仰天ぶりに抜け出してしまった魂を、懸命に引き寄せた。
周りのみんなは呆気にとられて口が半開きになっている。
みんなはその一瞬笑いを止め、しかし次の瞬間には体を揺すって大笑いした。
「さすが爆笑王!やられました」
「小北を幸せにしてやってください」
どこからともなく拍手が起こった。
野田は肩をすくめ、ぜんまい仕掛けの人形のようにお辞儀をして部屋から出て行った。
辺りで含み笑いがもれる。
あたしを直接笑い物にしていた空気から、野田を通してあたしを笑うという、さっきのイジメよりも一段と憂鬱な方向へと事は運んでいった。
それでも、自分だけが惨々と笑われるより少しだけ救われた気もして、あたしはその情熱の真っ赤な棚で、お昼のお茶の用意をし始めた。
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