【短編集】或るシングルマザーの憂鬱

ふうこジャスミン

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【完結話】或るシングルマザーの憂鬱

#3 毎日やって来るアイツ

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それにしても総務課の仕事とは、こんなにも手の空く内容なのだろうか。

野田は毎日、日によっては一日何度も一課にやって来る。

その度にあたしは立ち去り、野田がいなくなる頃を見計らって戻ってくるのが日課になった。

戻ってきて、いつも机にある物でイタズラされていることに、キッーとなるのも日課になった。

あたしのタオルハンカチで、ひよこを作られていたり、メモ帳の左下にパラパラ漫画を書かれていたり、赤と黒の二本のボールペンが輪ゴムでくくりつけられ、『二色ペン』と付箋をはられていたりするのだ。

あたしが席を立たなければ、こんなことをされずにすむのだろうが、野田の行動を見たくもないのに見てしまうことが一番イラッときてしまうので、他に方法もなくそう至ってしまう。

しかし、いつもニコニコ優しい部長がそんなあたしを見るに見かねて、


「最近、落ち着きがない。意味なく席を外すのはやめた方がいい」


と注意してきた。

落ち着きなく見えるのは自分でもよくわかっているが仕方がなく、それでも仕事はきちんと進めている旨を懸命に伝えたら、それ以上何も言ってこなかった。


「それより、野田さんを注意した方がいいのではないですか。仕事中に一課をウロウロされて気が散るのです」


興奮気味にあたしは訴えた。


「うーん。野田さんはうちの課の人じゃないし、注意するっても…。総務は総務の仕事の進め方でやっとるわけだし」


てっぺんが薄くなった髪の毛に手をやりながら部長が答えた。


「でも、つまんないイタズラまでして行って、困っているのです。引き出しの取っ手に『つまむな!』って付箋が貼ってあったり、あと、電卓にベルマークを貼られたりしたこともありました!」


言っているそばから、ムカムカしてきた。


「ベルマーク? 集めているのかね」


「集めていません!」


あたしは、すごい音をたてて部長の机を叩いた。
部長も側にいた鮫島くんも漫画みたいに体をビクつかせた。


「ある意味セクハラです!なんとかあの人に、つまんないことをするのはやめるように言ってください!」


ハゲた頭の天辺を睨みつけて嘆願したら、部長はやっかいなことになったな、という渋い顔をした。


「セクハラってねぇ。別に体を触ってきたわけじゃないのだから。つまんないことをしてくるって、つまんないと思っているのなら、そんなつまんないことに君もいちいち目くじら立てないの」


手元にある書類に目を通して、部長は急に忙しそうにスケジュール帳をめくり始めた。

これ以上続けても聞く耳を持ってくれそうにない。
あたしは部屋を飛び出し、トイレの便座のふたに座って、部長の事なかれ主義の精神を恨んだ。


頼りない。


優しいのは、頼りなさを取り隠すための偽装か。
何の問題もなかった頃には感じなかった、部長への不満があらわになった。


「ハゲてほしい人リスト二位、部長!」


心を落ち着かせるため、あたしは洗面所でうがいをしながらそう叫んだ。



そして今、トイレから帰ってくると、鮫島くんがニヤニヤしているのだ。

野田がまたやって来ていたのか。

今度は何をやらかしていったのかと、口を曲げて席を見た。

パソコン画面に、


『ファイト!一発!』


と書かれたメモが貼ってあった。
目が据わる。

何がファイトだ。
一発も二発もあるか。
そんなことあいつにだけは言われたくないわ。

あたしは乱暴にメモをはがし、丸めてゴミ箱に捨てようとしたら、


「すみません。それ、ぼくのイダズラです」


鮫島くんが恐れ気味に申し出てきた。


「あ、鮫島くんだったの」


メモを握り潰し振り上げていたこぶしを、あたしはそっと胸の前に下ろした。


「怒らせるつもりはなかったのですが、あの、すみません」


「いや、また野田さんの悪ふざけかと思って。鮫島くんならいいんだよ。ありがとう」


くちゃくちゃになったメモを伸ばして鮫島くんに見せて、ニコリと笑った。
鮫島くんはホッとした顔をした。


「鮫島くんならいいのかい」


三浦さんが呆れた口調であたしを見た。
そりゃそうでしょうよ、とあたしは密やかに思った。

こんなふうに電話の受話器の上に、絶妙なバランスで置かれているスティックのりを見ても、鮫島くんの仕業かと思えば、可愛くも感じる。

同じようなことをされても、人が違えば気持ちも違う。
表情を緩めてのりを指でつまむと、


「あ、それは野田さんがやっていったやつだから」


 と、三浦さんはご丁寧にも余計な事実を知らせてくれた。


「く、くうー。こっちはそうなのかぁ」


わなわなと身を震わせているあたしに、三浦さんはあははと大きく声を出した。




日曜日の朝、寝室のカーテンを開けると窓が擦りガラスになったかのように、水滴で内側を不透明に曇らせていた。

寒い。

 ため息をついて振り向くと、六帖の洋室はチェストとテーブル、おもちゃの棚、大と小の二つの柿団で埋め尽くされている。

小の布団の中で目覚めた圭吾が、まだ出たくなくて掛け布団を天井にした布団かまくらを作りあげている。

このハイツは断熱性が悪い。
十二月の今は、夜になると頭まですっぽり布団へ入れ込まないと、体温を冷気に持っていかれてしまう。

朝だって寒さが半端でない中、あたしは起きてしばらく居間のこたつのコンセントを入れるのを忘れていた。

ようやく布団から這い出した圭吾が、暖まりきっていないこたつで、まだ眠いのか半目状態でバナナを食べている。

あたしが菓子パンをほお張りながらじっと見ていると、一瞬目が冴えた圭吾は「ちゃんと起きていますよ」という顔でしゃんとするが、すぐにまたまぶたが重力通りに閉じていくのだ。


「寝ているの。起きているの。どっち」


耳元に顔を近づけると、「どっちも」と不愉快そうに目を開けた。

歯を磨かせ、顔を拭いてやり、今日着る服を選ばせて、早く早くと身支度を急かしているが、実のところどこへ遊びに行く予定もない。

ただ、家にいるのも電気代がかかるだけなので、圭吾と二人、冷たい手を温め合うように両手を繋いで、区の図書館に向かって歩き出す。


圭吾は白くなる息を地面に向かって吐き、


「ママ、おれこんな低いところに息吐けるー」


と、得意げに何度もしてみせた。
時々後ろから自転車のベルを鳴らされて、圭吾の手を引き寄せる。

家同士がくっ付き合っている住宅路を過ぎると、そろそろ出だしの元気がなくなってきて、何か話していないと口が凍えてくる。

「何か言ってゴッコ」が自然に始まる。


「圭吾、何か言ってー」


あたしが先に言い出すと、圭吾はすぐに応えた。


「犬はワンワンいって死んでいくだけでいいのかー」


「それでいいのだー」


「人間は生きて死んでいくだけでいいのかー」


「そ、それでいいのだー」


幼稚園児にして、えらい人生観を持っているなぁとたまげていると、


「ママ、何か言ってー」


圭吾もせがんできた。


「うーん。ママはねー、会社にすごく嫌な人がいるのだー」


 あたしが身息荒く言ったものだから、白い息が勢いよく圭吾の顔にまで届いた。

社外の人に白状する初めての相手が息子の圭吾だなんて、あたしには愚痴を聞いてくれるような友達はいないのかもと気づいた。


「ヒョロヒョロもやしで、いっつもユラユラ幽霊みたいなおっさんでさー」


「えー。怖っさん」


「つまんないイタズラばかりして、仕事もろくにしなくてさー」


「えー。ヤバっさん」


「普通にしていても気持ち悪いけど、笑うともっと気持ち悪いんだよー」


「えー。キモっさん」


「さっきから、やばっさんとか、きもっさんとかって、何なのさ」


口を尖らせてあたしが尋ねると、


「ヤバいおっさん、キモいおっさんのことだし。ママひさんだね」


圭吾が同情を寄せてきた。
そして、まん丸い目でじっと見つめて、


「ひさん、ひさん、とんでいけー」


と、あたしの頭をかすめて小さな手を寒空に高く差し上げた。
圭吾は仰々しくそれを繰り返し、あたしの中の悪い気を本気で取り除こうと必死の形相でいた。


「ひ・さ・ん。き・え・ろ」


あたしも手を掲げて空を見上げた。
グレーがかった冷たい色は厚い雲のせいで、隙間から覗く空自体は真っ白で美しかった。





つづく
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