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【完結話】或るシングルマザーの憂鬱

#1 変人メガネ男からロックオン!

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 小学三年生並みの思考回路で言うならば、「のたれ死んでほしい人一位野田初也 三十五歳」だな、とあたしは思った。

野田は営業一課に、今日も張り切ってやってきた。

パソコン越しに見えるヤツの頭が忌々しい。
二人分もあろうかその毛量は押さえ込むように七三に分けられ、無駄に黒々している。

勿論、ハゲてほしい人一位にも名を連ねているその野田が、「小北紗季さん」とあたしになよなよしく声をかけてきたきり、前の机で何やらやっていて、一向に用事を言ってこないのだ。
席を外し損ねたことが悔やまれる。

「何か用ですか。朝一から」
 苛立ちを前面に押し出してあたしは言った。
「あの、年末調整の書類、小北さんだけがまだ提出されていませんので、申し訳ございませんが、これを」

 十も年下の女に礼儀正しく敬語を使い、野田は手を震わせて用紙を差し出してきた。
用紙は何故かハートの形に折られている。

「記入するところがわかり辛い、でしたね。なので記入しなければいけないところに、しるしをつけました。お昼休みに取りに参ります。では」
 野田は、ずれ落ちてきた銀縁眼鏡をゆっくり元に戻し、あたしに一礼すると、スキップをして営業一課から出て行った。

ハートの不自然な折り目を入れられた用紙を、あたしはイライラしながら手で伸ばす。
保険料控除申告書、給与所得者の扶養控除申告書、野田がしるしをつけたというその二枚の用紙は確かに、記入するべきところは一目でわかった。

が、
「ここに小北さんの名前!」
「ここに小北さんの住所です」
「ここ、生年月日です!」
「はんこ!」
「生命保険に入っていますか?はい、ならここに記入を」
 などと筆圧強い鉛筆の文字入りで、しかも名前や住所を記入する枠内いっぱいに書かれている。

「コキちゃん、可愛い顔がはんにゃみたいになっている」
 二つ年上の三浦幸代さんが、ハート模様のマグカップを口につけながら横の席から指摘してきた。

「見てください、このいらない説明書き。
消すのに手間取るだけじゃやないですか。
しかも、この用紙をハート型に折って渡してきたんをですよ。
非常識過ぎる。
なんであの人、こんなつまらないことばかりしてくるのだろう」

 頭を掻きむしるあたしの背後から、用紙を覗き込んできた三浦さんは、飲み込むつもりでいたコービーをブッと吹き出した。
「あはは、ふざけているねぇ。
ここに名前、びっくりマークってそんな強調するかなぁ。
はんこ!だって。結構笑えるじゃん」
「全っ然、笑えないです」


金属製品の卸商社に入社して二年九ヶ月。
上司や同僚との関係もまずまず良好で、取引先からも「しっかりした事務員さんだ」と信頼を受け、営業マンの補助的立場であってもそれなりに充実してこれまでやってきた。

それが、先月に野田が途中入社してきてからというもの、ヤツの意味不明で下らない攻撃が主にあたしに向けられ、快適だった職場は、イライラが募る不快な環境へと変貌したのだ。

今年いっぱいで退職する総務の女性の引継ぎに充てられた野田初也は、入社日の朝礼で本社社員三十二人の前、常務から紹介された。

社会保険労務士や宅建など、さまざまな資格を持った頼れる人、らしいが、見た目では頼りになるとは思えない。

学生の頃さぞかし体育が苦手だっただろう痩せ過ぎの体を、微妙に揺する様は、奇妙な軟体生物に見えた。

青白い顔を乗せた長い首を縮めて、萎びたきゅうりみたいにお辞儀をした後、吐息を吐く感じの小さな声で、

「野田初地です。よろしくお願いいたします。
三十五歳独身でございます。
趣味はメダカの養殖です。
特技は片目ずつ眠ることが時々できます」

 と、この人に関しては特に知りたくもない、と思う情報をぬかしてきた。

皆が一斉に笑った。
良い人ばかりなのだ。受け入れられたと安心した野田は、モジモジしながらも嬉しそうにうなずいていた。

あたしは一人、「こいつは生理的に受け入れられぬ」と瞬時に思い、皆が拍手をして迎える中、ヤツが視界に入らないようそっぽを向いていた。

前任の人と仕事をうまくこなして暇ができるのか、仕事を任せてもらえないからフラフラしているのかはわからないが、野田はとにかく何かにつけて営業一課に立ち寄り、つまらない影響を残していくのだ。

例えば今朝の野田は
『空調設備点検のお知らせ』
 を社内一斉メールで送してきたにもかかわらず、わざわざ回覧板を作り、一人一人に読ませて、はんこやサインをもらいに回っていた。

メールの意味は。

百歩譲って、皆がメールを読んだかどうかの確認で、二度手間な回覧板を作ったのだとしても、回覧板なら各自が読み終われば次の人に回すだろう。
この人がいちいち横で犬みたいに待っているなんて、無駄な作業な上に気持ち悪い。

回覧板の意味とは。

あたしはろくに内容を見もしないではんこをくれてやった。

「あの、ほんとに読んで頂けましたか。あさっての」
「読みました」

 野田の小声を遮ってあたしは回覧板をつき返した。
「そうですか。了解しました。ピコピコピー」

 耳を疑う擬音を発した三五歳の野田は、壊れかけのロボットのようなぎこちない動きを数コマ見せ、あたしの手から回覧板をうやうやしく受け取った。

「なんですかー、ピコピコって」
三浦さんや周囲の人は、野田の言動に声をあげて笑った。
バカにして笑っていると思って周りを見たら、信じられないことに、みんなは柔和な顔つきで和やかに微笑んでいる。

「今の、処刑もんでしょう!」

 思わずあたしは叫んでしまった。

するとさらにみんなは笑い出し、
「本当、処刑もんだわ。今の野田さんの動き」
新人営業マンの鮫島くんのこの言葉に、とうとう爆笑の渦が出来上がってしまった。

あたしのツッコミが、思いがけず野田を盛り上げるきっかけを作ったみたいになって悔しく思った。

この野田の風変わりさに引いたりせず、温かいオーラで包んであげるなんて、なんて大人な人たちなんだ。
あたしには到底できっこない。

気を良くした野田は、他人の力でこさえてもらった笑いの渦をそっと抜け出し、部屋の中を何しだした。
鳩のように首を前後に動かしながら進んでいく。
みんなは野田の妙な動きにくすくす笑っていたが、あたしはひとかけらも笑わず席を立ち、FAXで発注書を送っていた。

そのすきに野田は、あたしの机にばら撒いてあったペンや消しゴム、目薬などを立てて並べていたようだ。

席に戻る途中にそのつまらない仕業をしている野田に気づき、声をあげた。
野田はわざとらしく口に手をあて、気持ちの悪い笑顔で去って行った。

鳥肌が立つ。

あたしの机の上の文房具たちは、わずかな間隔をあけてまっすぐ1列に立て並べられていた。

意図がわからない。

座るときに端のスティックのりに手が触れて、次々に倒れていった。

さっきまで野田の様子を興味深く眺めていたみんなは、見事に全部倒された文房具を見て、

「おお、ドミノ。野田ドミノが成功した」

 と、感心をしている様子だ。

「野田さんって、変わっていて面白い」
 あたしには理解できないが、そんな好評を野田は得ていた。

本当にみんなそう思っているのか、人間関係を円滑に保つためにそういうことにしているのかは、わからない。

良い人ぞろいのこの職場に感謝しろよ、とあたしは数え切れないくらい心の中で言ってやった。





つづく
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