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第二部 祐
90 私の勝手な憤り
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「彼」と思われる男の噂で頭がいっぱいだった私は周囲を見ていなかった。
聞き覚えのある少年の声が、しきりに話しかけていたが「彼」の事ばかり考えていた私には、彼の姿が見えておらず声も聞こえていなかった。
我に返ったのは、唇に当たった柔らかな感触のせいだった。
「……フランソワ王子?」
私の従兄であり元婚約者のフランソワ王子が、なぜか赤い顔で私の前に立っていた。
「……あ、いや、その、いくら話しかけても顔の前で手を振っても気づいてくれなかったから、その」
私は唇に手を当てた。どうやらフランソワ王子にキスされていたようだ。
この体ではファーストキスだが、そんな事で抗議したり泣いたりするほど初心ではない。
いくら「彼」の事で頭がいっぱいだったとはいえ、あっさり唇を奪われた自分の不甲斐なさを情けなく思うだけだ。
フランソワ王子も相手の了承も得ずに勝手にキスしておいて狼狽えるのは、どうかと思う。
もう社交どころではない。帰ろうとベンチから立ち上がった私は、こちらに近づいてくる婚約者のジャンと見覚えのある令嬢の姿に気づいて、ある事を思いついた。
「……あれがキスのつもりなの? キスっていうのは、こうやるの」
私は自分よりも背が高くなったフランソワ王子の襟首を摑んで引き寄せるとキスをした。
先程フランソワ王子がしていたような触れるだけのキスではない。
前世では秘密結社の実行部隊員として、そして復讐のために散々やったハニートラップ。
その私の持つ技巧全てを駆使したキスだ。
私が顔を離すとフランソワ王子は先程よりも真っ赤な顔で私が座っていたベンチにへたり込むように座った。
「……ジョゼ」
婚約者であるジャンは、ただ呆然としているようだ。
「何なさっているの!?」
キンキン声で喚いているのは、イライザ・ナビエ子爵令嬢だ。
貴族に多い金髪碧眼の小柄で華奢で可憐な少女。
そして、リリの半年違いの異母妹だ。今年で私やリリと同じ十四歳になる。
父親のモーパッサン伯爵が領民に焼死させられた後、母親のカトリーヌ夫人共々逃げ出し、カトリーヌ夫人は元々不倫関係にあったナビエ子爵の後妻となりイライザは彼の養女になったのだ。
お祖母様が調べた結果、当時四歳だったイライザは勿論だが、カトリーヌ夫人もモーパッサン伯爵の不正には関与していなかった(ナビエ子爵との不倫も調査で分かった)。
けれど、夫で父親であるモーパッサン伯爵の不正を知っていたにしろ知らなかったにしろ、その恩恵を受けていたのだ。かつてのモーパッサン伯爵領(今はブルノンヴィル辺境伯領の一部だけど)の領民が彼女達の生存を知ったら、ただでは済まさないだろう。
私自身はリリが彼女達に対して思う所がないので放っておいている。前世でした事を思えば私に他人を裁く資格などないし、大切な人の思う通りにさせてあげたい気持ちのほうが強いので。
だがそれもイライザが事あるごとに私に突っかかってくる事で揺らぎそうになってきているが。
まあ、突っかかられても私なりにうまくあしらっているつもりだ。ジュースをドレスにわざとかけられそうなっても避けた後、かけられそうになった何倍もの量のワインやジュースを彼女の頭上からかけたり。皮肉や嫌味を言われても何倍も棘のある皮肉や嫌味で泣かせた事もある。精神年齢は三十以上で前世では秘密結社の実行部隊員、今生では辺境伯をしている女が、傅かれているだけの貴族の小娘相手に負けるはずがないのだ。
なぜイライザがそうするのかは分かっている。
イライザはジャンが好きなのだ。ジャン本人だけでなく彼がいずれ宰相となり侯爵家を継ぐ事も彼女の目には、たいそう魅力的に映っているのだろう。婚約者である私を追い落として自分が新たな婚約者になりたいようだ。
王命で決められた私という婚約者がいるのに構わずジャンに纏わりついては辟易させているという。おまけに最近では私に苛められたと訴え(私はされた事を返しているだけだが)私との婚約破棄を迫っているというのだから、これにはジャンも呆れていた。
そんなジャンだが私を好きな訳ではない。むしろ苦手に思っているだろう事が伝わってくる。
両親は自分に無関心、使用人達は優しくても、あくまでも仕事として自分の世話をしてくれている。生活面では恵まれた侯爵令息であってもジャンは孤独なのだ。
そんなジャンにとって温かな家庭は何よりも切望するものだっただろう。
だから、王命で決められた婚約者でも仲良くなろうと歩み寄ったのに、その婚約者から「あなたに興味がない。あなたのために労力を使いたくない」などと拒絶されたのだ。ジャンが私にどう接していいか分からず苦手に思うのは当然だ。
それでも私と婚約破棄も解消もできないジャンにとっての救いは、愛する少女が婚約者の侍女である事か。私との関係が切れさえしなければリリを身近で見ていられる。
再会するまでは安否も分からなかった事に比べれば、自分の物にならなくても身近で愛する少女見ていられる現在が彼には幸せなようだが――。
そんなの私が許さない。
「キスしていたのよ。見えなかった?」
私はキスで濡れた唇を拳で拭うと嘲笑した。
「ジャン様という婚約者がいるのに、他の男とキスするなど何てはしたないの!」
「婚約者のいる男に纏わりつくのも充分はしたないと思うけど?」
私は冷静に突っ込んだがイライザは聞いちゃいない。
「今すぐジョゼフィーヌ様と婚約破棄すべきですわ!」
イライザはいつものごとく私と婚約破棄するようにジャンに迫った。
「私とジョゼの事は君には関係ない。イライザ嬢」
ジャンは婚約者や父親を前にした時はびくついているが、さすがに、ただの子爵令嬢に過ぎないイライザには毅然とした態度だ。
私や父親に対しても、この態度でいてくれるのなら私もジャンを認められるのに。
「一人になりたいと言っているのに、こんな所まで纏わりつかれて迷惑している。もう帰ってくれ」
どうやらジャンは私と同じく一人になりたくて中庭までやってきたようだ。そこにイライザがいつものごとく纏わりついてきたのだろう。
「……ジャン様」
ジャンのにべもない態度にイライザはショックを受けた様子だ。
ふらふらと遠ざかるイライザの背にジャンが釘を刺した。
「余計な事を言い触らさず真っ直ぐ家に帰るんだよ」
「別に言い触らされても構わないわ。その覚悟があってやったんだから」
イライザの姿が見えなくなってから言った私に、ジャンが眉をひそめた。
「……私と婚約解消したいのですか?」
ジャンの声音には、かすかに喜びが混じっているようだが気のせいではないだろう。リリの事がなければ本心では私と結婚したくないのだから。
「できれば、あなたからしてほしいわね」
「ジョゼ?」
「あなたからして。そのくらいの気概は見せて」
ジャンに興味はない。
私がジャンを気に掛ける理由は、婚約者だからではなく私がその人生に責任を持つと決めたリリを愛しているからだ。
ただ想うだけなら、「愛している」と言うだけなら、誰でもできる。
ジャンはただリリを見ているだけで満足で彼女のために何もしていない。
それが私には許せないのだ。
分かっている。私の勝手な憤りだ。
リリはレオンを愛している。ジャンでも他の男でもその想いに応えられない。
まともな人間であるジャンにとって、まともでない父親は恐怖の対象だ。その父親が望み王命にまでなった私との婚約を解消や破棄などジャンにはできない。
それでも、本心では私と結婚したくないのなら父親に逆らう気概くらいは見せてほしいと思うのだ。
「私の事は苦手だけど私と結婚すればリリを身近で見ていられる。その程度の想いなのが許せないの」
ジャンが婚約破棄か解消をしやすいように不貞くらい、いくらでもしてやる。前世では散々やった事だ。今更ためらわない。
聞き覚えのある少年の声が、しきりに話しかけていたが「彼」の事ばかり考えていた私には、彼の姿が見えておらず声も聞こえていなかった。
我に返ったのは、唇に当たった柔らかな感触のせいだった。
「……フランソワ王子?」
私の従兄であり元婚約者のフランソワ王子が、なぜか赤い顔で私の前に立っていた。
「……あ、いや、その、いくら話しかけても顔の前で手を振っても気づいてくれなかったから、その」
私は唇に手を当てた。どうやらフランソワ王子にキスされていたようだ。
この体ではファーストキスだが、そんな事で抗議したり泣いたりするほど初心ではない。
いくら「彼」の事で頭がいっぱいだったとはいえ、あっさり唇を奪われた自分の不甲斐なさを情けなく思うだけだ。
フランソワ王子も相手の了承も得ずに勝手にキスしておいて狼狽えるのは、どうかと思う。
もう社交どころではない。帰ろうとベンチから立ち上がった私は、こちらに近づいてくる婚約者のジャンと見覚えのある令嬢の姿に気づいて、ある事を思いついた。
「……あれがキスのつもりなの? キスっていうのは、こうやるの」
私は自分よりも背が高くなったフランソワ王子の襟首を摑んで引き寄せるとキスをした。
先程フランソワ王子がしていたような触れるだけのキスではない。
前世では秘密結社の実行部隊員として、そして復讐のために散々やったハニートラップ。
その私の持つ技巧全てを駆使したキスだ。
私が顔を離すとフランソワ王子は先程よりも真っ赤な顔で私が座っていたベンチにへたり込むように座った。
「……ジョゼ」
婚約者であるジャンは、ただ呆然としているようだ。
「何なさっているの!?」
キンキン声で喚いているのは、イライザ・ナビエ子爵令嬢だ。
貴族に多い金髪碧眼の小柄で華奢で可憐な少女。
そして、リリの半年違いの異母妹だ。今年で私やリリと同じ十四歳になる。
父親のモーパッサン伯爵が領民に焼死させられた後、母親のカトリーヌ夫人共々逃げ出し、カトリーヌ夫人は元々不倫関係にあったナビエ子爵の後妻となりイライザは彼の養女になったのだ。
お祖母様が調べた結果、当時四歳だったイライザは勿論だが、カトリーヌ夫人もモーパッサン伯爵の不正には関与していなかった(ナビエ子爵との不倫も調査で分かった)。
けれど、夫で父親であるモーパッサン伯爵の不正を知っていたにしろ知らなかったにしろ、その恩恵を受けていたのだ。かつてのモーパッサン伯爵領(今はブルノンヴィル辺境伯領の一部だけど)の領民が彼女達の生存を知ったら、ただでは済まさないだろう。
私自身はリリが彼女達に対して思う所がないので放っておいている。前世でした事を思えば私に他人を裁く資格などないし、大切な人の思う通りにさせてあげたい気持ちのほうが強いので。
だがそれもイライザが事あるごとに私に突っかかってくる事で揺らぎそうになってきているが。
まあ、突っかかられても私なりにうまくあしらっているつもりだ。ジュースをドレスにわざとかけられそうなっても避けた後、かけられそうになった何倍もの量のワインやジュースを彼女の頭上からかけたり。皮肉や嫌味を言われても何倍も棘のある皮肉や嫌味で泣かせた事もある。精神年齢は三十以上で前世では秘密結社の実行部隊員、今生では辺境伯をしている女が、傅かれているだけの貴族の小娘相手に負けるはずがないのだ。
なぜイライザがそうするのかは分かっている。
イライザはジャンが好きなのだ。ジャン本人だけでなく彼がいずれ宰相となり侯爵家を継ぐ事も彼女の目には、たいそう魅力的に映っているのだろう。婚約者である私を追い落として自分が新たな婚約者になりたいようだ。
王命で決められた私という婚約者がいるのに構わずジャンに纏わりついては辟易させているという。おまけに最近では私に苛められたと訴え(私はされた事を返しているだけだが)私との婚約破棄を迫っているというのだから、これにはジャンも呆れていた。
そんなジャンだが私を好きな訳ではない。むしろ苦手に思っているだろう事が伝わってくる。
両親は自分に無関心、使用人達は優しくても、あくまでも仕事として自分の世話をしてくれている。生活面では恵まれた侯爵令息であってもジャンは孤独なのだ。
そんなジャンにとって温かな家庭は何よりも切望するものだっただろう。
だから、王命で決められた婚約者でも仲良くなろうと歩み寄ったのに、その婚約者から「あなたに興味がない。あなたのために労力を使いたくない」などと拒絶されたのだ。ジャンが私にどう接していいか分からず苦手に思うのは当然だ。
それでも私と婚約破棄も解消もできないジャンにとっての救いは、愛する少女が婚約者の侍女である事か。私との関係が切れさえしなければリリを身近で見ていられる。
再会するまでは安否も分からなかった事に比べれば、自分の物にならなくても身近で愛する少女見ていられる現在が彼には幸せなようだが――。
そんなの私が許さない。
「キスしていたのよ。見えなかった?」
私はキスで濡れた唇を拳で拭うと嘲笑した。
「ジャン様という婚約者がいるのに、他の男とキスするなど何てはしたないの!」
「婚約者のいる男に纏わりつくのも充分はしたないと思うけど?」
私は冷静に突っ込んだがイライザは聞いちゃいない。
「今すぐジョゼフィーヌ様と婚約破棄すべきですわ!」
イライザはいつものごとく私と婚約破棄するようにジャンに迫った。
「私とジョゼの事は君には関係ない。イライザ嬢」
ジャンは婚約者や父親を前にした時はびくついているが、さすがに、ただの子爵令嬢に過ぎないイライザには毅然とした態度だ。
私や父親に対しても、この態度でいてくれるのなら私もジャンを認められるのに。
「一人になりたいと言っているのに、こんな所まで纏わりつかれて迷惑している。もう帰ってくれ」
どうやらジャンは私と同じく一人になりたくて中庭までやってきたようだ。そこにイライザがいつものごとく纏わりついてきたのだろう。
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イライザの姿が見えなくなってから言った私に、ジャンが眉をひそめた。
「……私と婚約解消したいのですか?」
ジャンの声音には、かすかに喜びが混じっているようだが気のせいではないだろう。リリの事がなければ本心では私と結婚したくないのだから。
「できれば、あなたからしてほしいわね」
「ジョゼ?」
「あなたからして。そのくらいの気概は見せて」
ジャンに興味はない。
私がジャンを気に掛ける理由は、婚約者だからではなく私がその人生に責任を持つと決めたリリを愛しているからだ。
ただ想うだけなら、「愛している」と言うだけなら、誰でもできる。
ジャンはただリリを見ているだけで満足で彼女のために何もしていない。
それが私には許せないのだ。
分かっている。私の勝手な憤りだ。
リリはレオンを愛している。ジャンでも他の男でもその想いに応えられない。
まともな人間であるジャンにとって、まともでない父親は恐怖の対象だ。その父親が望み王命にまでなった私との婚約を解消や破棄などジャンにはできない。
それでも、本心では私と結婚したくないのなら父親に逆らう気概くらいは見せてほしいと思うのだ。
「私の事は苦手だけど私と結婚すればリリを身近で見ていられる。その程度の想いなのが許せないの」
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