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おまけ
初恋。(後編)
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中学一年の、夏。県内の陸上競技場にて。
磯貝にとっては、初めての大規模な大会。スタンド席にいる大勢の人々の姿を目にした彼は、極度の緊張と不安感でいっぱいになり、トイレへと逃げ込んでしまった。
幸い、集合時間まではまだある。それまでには、心を落ち着かせないと──と、何度も深呼吸した。
──大丈夫。今日のこの日まで、どれだけトレーニングを積み重ねてきた? 普段通りに走れば、きっと大丈夫。あそこにいた人たちは、皆自分のことを見ていない。落ち着け、落ち着け──。
心のなかで、何度も自分に言い聞かせる。そのうち、不安と緊張から来る胃の不快感も消え、磯貝はトイレの外に出た。
そのまま、他の部員たちが待っているエリアまで戻ろう。こうして、関係者用の通路を進んで行くと、場内の地図を片手におろおろしている少女を見かけた。
いや、少女ではないのかもしれない。その人が身に付けていたのは、中学校の制服らしい半袖のカッターシャツとスラックス。女子ならスカートを履くはずだが、中学校によっては女子用のスラックスがあるとも聞く。
とにかく、その人の一つに束ねられた長髪と小柄な体躯から、女の子だと判断した。
磯貝は、その少女に構わず先へ行こうとした。が。少女の前を通るとき、彼女が余裕のない声で磯貝を呼び止める。
「あの、ここへ行きたいんです、先生とはぐれてしまって……」
ずいっと、目の前に差し出される地図。少女の指は、スタンド席を示していた。
ここへの行き方を教えて欲しいのだろう。磯貝は地図を一瞥し、ようやく少女の顔を正面から見た。
黒髪が映える白い陶磁器のような肌に、血色の良い唇。長い前髪の隙間からは、少し潤んだ瞳が見える。外国人が持つような、明るい茶色の瞳だ。
できることなら、前髪をかき分けてその顔をじっくりと観察したい。そう思わせるほど、彼女の容貌は美しいものだった。
「──スタンド席へ行くなら、逆方向ですね」
高鳴る心臓を誤魔化すように、磯貝は冷静を装って道を示す。だが、磯貝の拙い説明では理解できなかったのか、少女の頭上には疑問符が浮かんだままだ。
「……途中まで、一緒に行きます?」
「えっ、いいの?」
少女をスタンド席まで連れていく時間は、まだ残っていた。
少女と二人、連れ立って歩いていく。少女は口数が少なく、また磯貝も緊張で口がうまく開かないせいで、会話はあまり盛り上がらなかった。
通路を進んで行く毎に、喧騒が大きくなっていく。外からの光が、強くなっていく……もうすぐで、この時間は終わる。
「ねえ──」
「あ、先生!」
何か会話を、と話しかけようとした磯貝だったが、彼女は件の先生を見付けたらしい。磯貝を置いて、パタパタと駆け出していった。
引き留めることもできず、一人残された彼は、少しの寂しさとともにスタンド席に背を向ける。
自分には、このあと競技がある。今、こんなことで心を乱されていては、結果は残せないだろう。だから、はやく切り替えて──。
「──待って!」
後方からの呼び声に、磯貝は思わず足を止める。
恐る恐る振り返ると、先程の少女がこちらに向かって走ってくるのが見えた。
「引き留めて、ごめん。お礼を言いたくて──。ここまで、案内してくれてありがとう」
「いや、えっと……どういたしまして」
礼を言い終えた少女は、これで用事は済んだというように踵を返す。
これで、本当にお別れだ。
──本当に、それでいいのか?
「あの! 今日、俺、短距離種目に出るんです!」
咄嗟に口から飛び出したのは、そんな言葉だった。
何か、少しでも反応が欲しかった。
「そうか……」
彼女は、顔をこちらに向ける。
「頑張って」
その弾みで、前髪によって隠されていた瞳が、露になった。
──とても、綺麗なものを見た。
「──ってことがあったんだけど、覚えていない?」
昭仁が撤退した後。全てを話し終えた磯貝は、隣に座る貞光を見る。
腕を組んで話を聞いていた彼は、静かに口を開いた。
「……あれ、お前だったのか」
やはり、心当たりがあるようだ。
「髪色が今と違っていたから、気付かなかった」
「俺も、雰囲気が今と違っていたから、さっきまで気が付かなかった」
「……そもそも、女だと思っていたしな?」
「うっ……」
笑いを堪えきれていない貞光に、磯貝は言葉を詰まらせる。
初恋相手が実は男で、今の彼氏だなんて、誰が想像できようか。
落ち着いて回想はできたものの、未だに信じられない自分がいる。
「なあ、颯一郎」
暫く笑った後、貞光は真剣な面持ちで、磯貝の名を呼んだ。
「お前は、俺が女だった方が、良かった?」
どこか不安げな声色で、不安げな瞳で、磯貝を見つめる。
「俺は──」
彼が求めている答えは、どちらの性別が良かったかなどという単純なものではない。成長していくなかで、自分が切り捨ててきた余分を、手放すべきではなかったと後悔しているのだ。
磯貝は、彼の頭を自分の肩へと抱き寄せる。
「──今の絢さんは、過去を積み重ねてきた結果だよ。あの頃から連続した先に、今のあなたがいる」
それは、これから先も同じこと。これから先も、人は変化し続ける。しかし、本質の部分は──軸の部分は、変わらない。
「だから、俺はあなたが好きだ。今も、昔も、これからも、前を向かせてくれるのは絢さんだから」
「そう、か……」
貞光の手が、磯貝の背中へと回され、そのままぎゅっと抱き締めた。
「あの日、声をかけた相手がお前でよかったよ」
あの日、心から支えたいと思った相手がこの人で良かった。
磯貝にとっては、初めての大規模な大会。スタンド席にいる大勢の人々の姿を目にした彼は、極度の緊張と不安感でいっぱいになり、トイレへと逃げ込んでしまった。
幸い、集合時間まではまだある。それまでには、心を落ち着かせないと──と、何度も深呼吸した。
──大丈夫。今日のこの日まで、どれだけトレーニングを積み重ねてきた? 普段通りに走れば、きっと大丈夫。あそこにいた人たちは、皆自分のことを見ていない。落ち着け、落ち着け──。
心のなかで、何度も自分に言い聞かせる。そのうち、不安と緊張から来る胃の不快感も消え、磯貝はトイレの外に出た。
そのまま、他の部員たちが待っているエリアまで戻ろう。こうして、関係者用の通路を進んで行くと、場内の地図を片手におろおろしている少女を見かけた。
いや、少女ではないのかもしれない。その人が身に付けていたのは、中学校の制服らしい半袖のカッターシャツとスラックス。女子ならスカートを履くはずだが、中学校によっては女子用のスラックスがあるとも聞く。
とにかく、その人の一つに束ねられた長髪と小柄な体躯から、女の子だと判断した。
磯貝は、その少女に構わず先へ行こうとした。が。少女の前を通るとき、彼女が余裕のない声で磯貝を呼び止める。
「あの、ここへ行きたいんです、先生とはぐれてしまって……」
ずいっと、目の前に差し出される地図。少女の指は、スタンド席を示していた。
ここへの行き方を教えて欲しいのだろう。磯貝は地図を一瞥し、ようやく少女の顔を正面から見た。
黒髪が映える白い陶磁器のような肌に、血色の良い唇。長い前髪の隙間からは、少し潤んだ瞳が見える。外国人が持つような、明るい茶色の瞳だ。
できることなら、前髪をかき分けてその顔をじっくりと観察したい。そう思わせるほど、彼女の容貌は美しいものだった。
「──スタンド席へ行くなら、逆方向ですね」
高鳴る心臓を誤魔化すように、磯貝は冷静を装って道を示す。だが、磯貝の拙い説明では理解できなかったのか、少女の頭上には疑問符が浮かんだままだ。
「……途中まで、一緒に行きます?」
「えっ、いいの?」
少女をスタンド席まで連れていく時間は、まだ残っていた。
少女と二人、連れ立って歩いていく。少女は口数が少なく、また磯貝も緊張で口がうまく開かないせいで、会話はあまり盛り上がらなかった。
通路を進んで行く毎に、喧騒が大きくなっていく。外からの光が、強くなっていく……もうすぐで、この時間は終わる。
「ねえ──」
「あ、先生!」
何か会話を、と話しかけようとした磯貝だったが、彼女は件の先生を見付けたらしい。磯貝を置いて、パタパタと駆け出していった。
引き留めることもできず、一人残された彼は、少しの寂しさとともにスタンド席に背を向ける。
自分には、このあと競技がある。今、こんなことで心を乱されていては、結果は残せないだろう。だから、はやく切り替えて──。
「──待って!」
後方からの呼び声に、磯貝は思わず足を止める。
恐る恐る振り返ると、先程の少女がこちらに向かって走ってくるのが見えた。
「引き留めて、ごめん。お礼を言いたくて──。ここまで、案内してくれてありがとう」
「いや、えっと……どういたしまして」
礼を言い終えた少女は、これで用事は済んだというように踵を返す。
これで、本当にお別れだ。
──本当に、それでいいのか?
「あの! 今日、俺、短距離種目に出るんです!」
咄嗟に口から飛び出したのは、そんな言葉だった。
何か、少しでも反応が欲しかった。
「そうか……」
彼女は、顔をこちらに向ける。
「頑張って」
その弾みで、前髪によって隠されていた瞳が、露になった。
──とても、綺麗なものを見た。
「──ってことがあったんだけど、覚えていない?」
昭仁が撤退した後。全てを話し終えた磯貝は、隣に座る貞光を見る。
腕を組んで話を聞いていた彼は、静かに口を開いた。
「……あれ、お前だったのか」
やはり、心当たりがあるようだ。
「髪色が今と違っていたから、気付かなかった」
「俺も、雰囲気が今と違っていたから、さっきまで気が付かなかった」
「……そもそも、女だと思っていたしな?」
「うっ……」
笑いを堪えきれていない貞光に、磯貝は言葉を詰まらせる。
初恋相手が実は男で、今の彼氏だなんて、誰が想像できようか。
落ち着いて回想はできたものの、未だに信じられない自分がいる。
「なあ、颯一郎」
暫く笑った後、貞光は真剣な面持ちで、磯貝の名を呼んだ。
「お前は、俺が女だった方が、良かった?」
どこか不安げな声色で、不安げな瞳で、磯貝を見つめる。
「俺は──」
彼が求めている答えは、どちらの性別が良かったかなどという単純なものではない。成長していくなかで、自分が切り捨ててきた余分を、手放すべきではなかったと後悔しているのだ。
磯貝は、彼の頭を自分の肩へと抱き寄せる。
「──今の絢さんは、過去を積み重ねてきた結果だよ。あの頃から連続した先に、今のあなたがいる」
それは、これから先も同じこと。これから先も、人は変化し続ける。しかし、本質の部分は──軸の部分は、変わらない。
「だから、俺はあなたが好きだ。今も、昔も、これからも、前を向かせてくれるのは絢さんだから」
「そう、か……」
貞光の手が、磯貝の背中へと回され、そのままぎゅっと抱き締めた。
「あの日、声をかけた相手がお前でよかったよ」
あの日、心から支えたいと思った相手がこの人で良かった。
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