○○さんの諸事情。

アノンドロフ

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貞光さんと磯貝くんの場合。

練習。

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 琴原祭まで、あと一ヶ月。
 夏休みに入った二人は、互いの都合が合えば近所の公園へと出掛けていた。主に、磯貝の練習のためだ。
 二年間のブランクにより、体力も落ちていたそうだ。リレーへの参加を決めたあの日から、磯貝はこっそり筋トレを続けていて、身体が引き締まっていくのが貞光の目から見てもわかった。
 ……別に、体つきが変わっていくことに対しての特別な感情はない。彼がどのような存在になったとしても磯貝は磯貝だといえる。ただ、このまま磯貝を放置していれば、無茶なトレーニングをして身体を壊しそうで心配になった。
 そのための、自分だ。
 引退した磯貝を、また走らせるのだ。何かできることがあるのなら、やらなければ気が済まなかった。

 ベンチに座って、走りに行った磯貝を待つ。容赦なく降り注ぐ日差しに、帽子を持ってきて正解だったなと思った。
 遠くを見れば、楽しそうな磯貝がいた。彼の明るい色彩の髪が、光を受けて輝いている。
 連日外出したせいか、いつの間にか彼の肌は良く焼けた。元は色白だったのに、あんなに焼けると風呂に入るとき染みて痛いだろうな、とぼんやり眺めていた。

 公園を一周して、磯貝が帰ってきた。最初の頃は息があがっていたが、今は余裕そうに見える。
「よし、それじゃもう一周」
 休む間もなく駆け出そうとする磯貝の腕を掴んで、引き留める。
「絢さん? 俺はまだ──」
「いいから、少し休め」
 自分の隣に座らせて、保冷バッグに入れておいたスポーツドリンクを手渡す。
 この暑さのなか、水分補給もなく運動するのは自殺行為だ。怪我をする前に、熱中症で倒れてしまう。
 磯貝は大人しく、ペットボトルの蓋を開けて、口をつけた。彼の首筋を、汗の粒が伝っていく。
「……?」
 なんだか、変な心地だ。ここで、冷やしたタオルを渡すつもりだったのだが、貞光は彼を見ていることしかできない。
「──絢さん?」
 磯貝に呼ばれ、ハッとする。彼の手には、蓋が閉められたペットボトルが握られていた。
「これ、ありがとうね」
「あ、ああ──」
 自分は一体、何を考えていたのか。いや、きっとこれは暑さのせいに違いない。普段なら、そんなこと考えたこともないじゃないか。
 平常心を装いながら、ペットボトルをバッグに戻す。
 ……ふと、磯貝の視線が、自分の背中に向けられているような気がした。
「颯? 何か、俺の背中に付いてるのか?」
 尋ねてみると、磯貝は首を横に振った。
「ううん。その、ね。絢さん髪長いから、暑くないのかなって思って」
 うん、暑い。
 今は髪を一つに束ねているが、髪が触れている部分は熱が籠っているのがわかる。
 その様子を見ていた磯貝は、「それなら髪を団子にしてみようか」と、申し出てくれた。ありがたい。
 貞光は、ヘアゴムを一本彼に渡すと、帽子を脱いで磯貝に背を向けた。磯貝はタオルで手を拭いた後、貞光の髪をくるくると器用に巻いた。
「……前より、髪綺麗になった?」
 「そりゃあ、たまにお前が触るから、手入れしないと」とは言えず、貞光は無言でヘアゴムが巻かれるのを待った。
 ギュッと縛られる感覚。もう終わったのだろうか、礼を言わなければと振り返り、そして。
 何故か、自分で自分の顔をひっぱたく磯貝と、目が合った。
「え?……なんでそんな、え?」
 状況が飲み込めない貞光に、磯貝は震える声で、頼み込む。
「絢さん……何も訊かずに、俺を殴ってくれませんか? ビンタでもいいです」
「で、デコピンでいいか?」
 本当ならデコピンもやりたくなかったのだが、驚愕やら絶望やら羞恥やらが入り雑じったような表情をしている磯貝をみると、断ることもできず。
 困惑しながら額をぺちんと弾くと、磯貝は小さく悲鳴をあげた。
「あ、すまない。痛かったか?」
「だいじょうぶ! よーし、何かすごく走りたくなってきたぞ!」
 心配する貞光をよそに、磯貝は勢いよくベンチから立ち上がった。テンションがおかしい。
「あの、本当に大丈夫なのか? 今日はもう帰った方が……」
「いや、大丈夫! 一回走って頭のなかスッキリさせたい!」
 全くよくわからないが、彼の熱量に押されてしまい、頷くことしかできなかった。

 このあと、タイムを測ってみたり、スマホで動画を撮ってフォームの確認をしたりと、磯貝が満足するまで練習に付き合った。
 走っているときの磯貝はやはり楽しそうで、本当に好きなんだなと思った。
 同時に、「もし磯貝が陸上への情熱を取り戻したら、今のこの関係はどうなってしまうのだろう」と、考えてしまう。
 磯貝にとっての貞光は、陸上の代わりに心の穴を塞ぐ存在だった。なら、彼が走ることの喜びを取り戻したとき、きっと自分は不要になる。
 ──でも、それでいい。
 そんな未来が待ち受けていたとしても、磯貝の背中を押したことを後悔しない。

「──そろそろ、帰ろっか」
 きらきらと、輝くような笑顔が降り注ぐ。
 この笑顔が見られてよかったと、貞光は心の底から思った。
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