○○さんの諸事情。

アノンドロフ

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貞光さんと磯貝くんの場合。

磯貝くんの諸事情。

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 磯貝颯一郎は、物心ついたときから、走るのが好きな少年だった。
 大里村は、自然が豊かな代わりに娯楽が少ない。そのため、子供たちの遊びといえば、広い空き地での鬼ごっこや、丘の上にある神社に誰が先に着くか競い合う競争ごっこなど、日が暮れるまでとにかく身体を動かしていた。
 ──毎日が、輝いていた。

 彼が己の才能に気付いてしまったのは、村の外にある小学校に通い始めて数年が経った頃のこと。
 村の中よりもたくさんの同年代の子供たちと触れあい、運動会や体育の授業を通して、自分は足が速いのではないかと思ってしまった。
 身体が今よりもっと大きくなれば、さらに速く走れるようになる。いや、待て。何も考えずに走っていてこれだ。走り方をちゃんと学べば、もしかして──居てもたってもいられなくなり、磯貝は小学校にある陸上クラブに入部した。
 学べば学ぶほど、練習すればするほど、タイムがどんどん良くなった。初めは否定的だった両親も、磯貝が県の大会で好成績を残してからは、陸上が強い中学校への進学を勧めてくるほど、彼の頑張りを認めていた。
 そして、中学生で県大会一位になった頃には、同級生だけでなく、村の皆も応援し期待するようになった。
 嬉しいことだった。
 良い成績を持ち帰れば、まるで自分のことのように皆が喜んでくれるのだ。その笑顔を見るだけで、自分はどこまでも走り続けられると、思ってしまうほどに。

 あまりにもスムーズに、磯貝は結果を残し続けた。
 「磯貝颯一郎は、走るために生まれてきたような人だ」「この調子なら、全国大会優勝も夢じゃない」「いや。きっと彼なら、オリンピック選手にだってなれるかもしれない」──夢を見ているような期待の言葉が、毎日のように降り注いだ。
 いつしか、彼の両足を動かす原動力は、「期待に応えないといけない」という逼迫したような想いとなった。
 高校二年。全国大会二位の成績を持ち帰ってからは、それが顕著に表れていた。
 次こそは、優勝しないといけない。
 誰よりも速く、誰よりも前に。そのためには、もっと練習しないと──。
 毎日、グラウンドに集まる重たい声援。常に見られているような緊張感のなか、彼はひたすら走り続けて。
 オーバートレーニングにより積み重なった小さなヒビは、疲労骨折という形で表面化した。
 ──幸い、重症化する前に治療を受けることができたため、およそ一ヶ月後には回復した。
 過度なトレーニングは避けるように、と何度も医者から念を押されて、磯貝は再び皆が待つグラウンドへと戻った。
 怪我をしないように、丁寧に準備運動をこなし、感覚を戻すために軽く走ってみようか、とスタートライン前に立つ。
 風が、人々のざわめきを運んでくる。
 いつの間にか、陸上部員以外の生徒たちも見に来ていて、皆が磯貝の復活に期待していた。
 、風のように駆ける自分を心待ちにしている──そう、見えてしまった。

 骨折と、一ヶ月のブランク。その直後で、今までのように速く走れるわけがない。負荷を掛けすぎるなと止められているし。でも、それだと彼らはきっと落胆する。今まで彼らが見てきた自分には、速くなかった瞬間がないのだから──濁流のように、押し寄せる不安と緊張と恐怖。
 ──速く走らないといけない。皆が期待しているものよりも、もっと速く。でも、それでまた骨折したら? また走れない日々がやってくる。そうしたら、もっと足が遅くなって、ああ、こんなことなら、もう──。

 ズキズキと、ふくらはぎ辺りが痛み始めた。まだ、準備運動しかしていないのに。
 思わずしゃがみこむと、コーチやマネージャーたちが駆け寄ってきた。皆が、口々に心配の言葉を発した。
 ──これで、走らなくて済む。

 このあと、再度検査を行ったが異常はなく、おそらく心因性のものだろうと結論付けられた。この痛みが何であれ、彼には陸上を続ける気力はなかった。今が辞める機会だと、直感的にわかったのだ。
 退部届けを出して、全ての重責から解放された磯貝は、これからどうしようかと考えて──。
「──あれ? 何をすればいいんだ?」
 走ることに人生を捧げていた彼には、趣味も何もなかった。それが、陸上を失くしてしまった今。彼の心には、もはや穴と呼ぶには大きすぎる空白が残った。

 ──世界は、いつの間にか輝きを失っていて、あれほど好きだった空の色もわからなくなっていた。
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