○○さんの諸事情。

アノンドロフ

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貞光さんと磯貝くんの場合。

前進。

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 『予定通り、貞光君に連絡した。がんばれ』
 斑目からのメッセージを再度確認し、磯貝は頬を叩いて気合いを入れる。
 第一キャンパスの空き教室。この引き戸を開けた先に、貞光が待っている。
 話す内容も、考えた。ちゃんと説明できるように、何度も練習した。だから、きっと、大丈夫。

 一思いに戸をスライドさせる。その音で、窓の外を眺めていた彼が、こちらを向いた。
 予想外だったのだろう、貞光は目を大きく見開いて、磯貝から逃げるように部屋の隅へと後退る。
「なん、で……お前がここに……」
「ごめん。どうしても、あなたに伝えたいことがあって。先輩に協力してもらった」
 貞光の目が、出入口を向いているのが分かる。隙を見て部屋から出ようとしているのだろう。
 折角手に入れたチャンスを、無駄にできない。後ろ手に扉を閉めて、その場に立つ。
 貞光との距離は、遠い。しかし、下手に彼に近付くと、また逃してしまうのではと思った。
「あの日のこと、だけど」
「──待ってくれ」
 説明しようとした磯貝の口が、貞光の制止により閉じてしまう。
「先に、話させて欲しい」
 そう言った彼の目に、迷いはなかった。

「今日、お前が何のためにここへやって来たのかも、何を話そうとしているのかも、大体分かっている。──それを先延ばしにするために、今まで逃げていたんだ、俺は」
 連絡を返さなかったり、アパートではなく実家に帰ったり──貞光は、磯貝との交流を極力避けていた。
「俺は、怖かったんだ。次に会ったとき、お前から、告白の件をなかったことにされるんじゃないかって……別の人を好きになったから、忘れて欲しいって、言われるんじゃないかって……」
 磯貝は、貞光の言葉に息を飲む。
 それは──、まるで──。
「同時に、後悔も、した。どうして、あんなにずっと悩んでいたんだろうって。どうして、もっとはやく、答えを見つけられなかったんだろうって」
 肩が、小さく震えているのが見えた。
 堪らなくなって、足が前へと進み始めた。
「今も、俺のこの気持ちが何なのか、よくわからない。でも、お前が、他の人を好きになるのを考えると、胸が痛くて。こんなことなら、あのとき──」
「……貞光さん」
 手を伸ばせば、触れられる距離。
 泣き出しそうな彼に、そっと、優しく告げる。
「今日ここに呼んだのは、あなたの誤解を解くためだよ」
「誤解……?」
「俺は、松永先輩と付き合ってないし、付き合うつもりもない」
「うそ、だ。それじゃ、あの日、キスしてたのは? 春休み、ほとんど会えなかったのは?」
「あの日は、あの人に無理やり迫られた。春休みは……うん、あなたに渡したいものがあって、バイト頑張ってた」
 「あとで渡すからね」と付け加え、彼の手を握る。
「貞光さんのことが好きな気持ちは、あの頃から変わっていない。いや、むしろ大きくなってる。だから、その……信じて、くれる?」
 貞光は、手を振りほどかない。
 それを肯定と受け取って、磯貝は続ける。
「俺と、付き合って、くれますか? お試しでもいいから」
「……はい」
 小さく、消え入りそうな声だったが、その返事はしっかりと、磯貝に届いた。




 時は少し進み、夕方。17時頃。
 一緒にアパートまで帰ってきた二人は、磯貝の部屋に入る。
 磯貝には、貞光に手渡したいものがあった。
「その、一ヶ月ぐらい遅くなってしまったけど……誕生日プレゼントです」
 シンプルな包装がされた小箱を、貞光の手の上に乗せる。
「ありがとう……開けてもいいか?」
「もちろん」
 ゆっくりと丁寧に包装を剥がす彼。このあと、どんな反応をしてくれるのだろうとワクワクしてきた。
 そして、箱から出てきたのは──。
「これは……」
「髪留め。貞光さん、髪長いから」
 髪留め──ヘアカフスだった。
 金属製で筒状になったそれは、華美ではない程度に青紫色の石が嵌め込まれている。呆けたように眺めていた貞光は、ハッとしたように窓へと駆け寄ると髪留めを夕日にかざす。
 青紫色に見えた石が、光の当たり方で灰色や青色に変わる。
「これ……アイオライトか?」
「うん。折角だから、誕生日にちなんだものをプレゼントにしようと思って探してて、三月の誕生石がアイオライトだったんだ」
 アイオライトの、日の光によって色が変わる特徴が、貞光の瞳と重なって。ウェブページでその存在を知ったときは「これだ」と思った。
「なるほど……それで、この石の効果とか意味とかは、知ってるか?」
「え? 意味? 効果?」
「知らないのか……」
 特徴だけを調べて大満足だった磯貝は、そこまで気が回らなかった。
 ポカンとしている磯貝の手に、貞光は髪留めを乗せる。
「えっと……?」
「あまり、その手の髪留めは着けたことがなくて、だな……」
 まさか、気に入ってくれなかったのか? もっと、違うものの方が良かったのか?
 大慌ての磯貝へ、貞光は背を向ける。
「だから、着けてくれるか?」
 後ろ姿、耳が赤くなってるのが見えた。

「うん! 喜んで! ヘアゴム持ってるかな?」
「今は持ってない。取ってくる」
 パタパタと部屋から出ていって、数分後に戻ってくる。ヘアゴム以外の荷物が増えているような気がしたが、今は置いておこう。
 貞光が出ていっている間に、磯貝は櫛を準備していた。貞光にプレゼントしようと買ったものの、「縁起が悪い」というのを何処かで聞いて諦めたものだ。
「よろしく」
「うん、任せて! 痛かったら言ってね」
 ヘアゴムを受け取って、髪をすく。所々傷んでいるが、柔らかく真っ直ぐな髪だ。
 下の方で一つに束ね、そこに髪留めを差し込む。黒い髪に、良く映える。
「できた!」
「──」
 何故か、静かだ。
 不思議に思っていると、急に振り返る。
「これ、お前に」
 恥ずかしそうに言いながら彼が差し出したのは、長方形の箱だった。
「磯貝、先週誕生日だっただろう?」
「いいの?」
 受け取って、先ほどの貞光と同様に、丁寧に箱を開ける。
 中から出てきたのは、ダークブラウンの革財布だった。
「おお……大人っぽい。ありがとう! 凄くうれしい」
「うん……俺こそ、ありがとうな。大切にする」
 頬を紅潮させて、ゆるゆると笑う貞光を見ていると、猛烈に抱き締めたくなってきた。
 しかし、今はまだそのときではない。あと少し、時間をかけてから……。

「……そうだ。一つ、お願いがあるんだけど」
 付き合い始めたら、最初にやりたかったことを、磯貝は口にする。
「名字じゃなくて、名前で呼んでみてくれないかな?」
「……颯一郎そういちろう……長いな」
「あだ名でもいいよ」
「じゃあ……そうは?」
 照れくさそうに呼ぶ貞光。
 磯貝は、嬉しそうに頷く。
「それじゃ、俺はじゅんさんって呼ぼうかな」
「……」
 貞光は、わしゃわしゃとかき混ぜるように磯貝の頭を撫でた。
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