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貞光さんと磯貝くんの場合。
癒し。
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怒涛のテスト週間を乗り越え、ストレスから解き放たれたある日の夕方。
貞光は、第一キャンパス内にある中庭へと来ていた。
琴原大学では年に一度、近くの動物園の協力のもと、ふれあい動物園がやってくる。学生だけではなく、近隣住民たちも自由に参加できるイベントであり、貞光は午後四時から五時までの係員の一人として選ばれていた。
先の時間の当番だった学生から腕章を三つ受け取ると、ベンチ付近で仕事内容の最終確認を行っている二人の元へと戻る。
彼らは、貞光と同学年で同じ学部に所属している学生だ。
一人は、須応麗華。学科は異なるものの、今回のようなイベントの実行委員会ではよく顔を合わせる関係だ。名前の通り華がある美人であり、大人しそうに見えて行動力が高い。
もう一人は、斑目暁。彼とは学科も同じであり、実習では毎回のように同じ班になる。見た目がいかつく、表情もあまり変わらないが、善性の塊のような人柄である。
人手が足りなかったために誘った二人だったが、既に会ったことがあったのか、打ち解けている様子に少し安堵した。
腕章を着けて、三人はそれぞれの持ち場に立つ。受付と動物エリアの見回りを、二十分毎に交代する予定であり、貞光は最後の二十分以外は見回り当番となっていた。
見回りといっても、動物たちの脱走や禁止行為(ヤギに紙を与えたり等)への対処以外は、基本的に来場者とのコミュニケーションとなる。まだ講義のあるこの時間帯は来場者が少なく、先の時間帯から来ていた人たちが帰ってしまうと、誰もいなくなってしまった。
「……暇だな」
「うん」
寡黙な青年は、ウサギへと手を延ばしながら頷く。
恐る恐るというように触る様子に、貞光は思わず笑みを溢した。
「……何か?」
「ああ、すまない。──小さい動物を触るのは、初めてだったか?」
「そういうわけでは……ただ、力加減を間違えそうで」
「……心優しいモンスターかな?」
そうツッコミを入れながら、以前斑目が誰も開けられなかった褐色瓶を、一瞬で開けてしまったことを思い出す。あれほどの怪力であれば、触るのに躊躇うのも無理はない……のだろうか。比較的握力がない貞光にとっては、考えたこともない感覚だった。
近くに寄ってきた白いウサギの頭を撫でながら、そのようなことを考えていると、来場者があったようで受付から麗華の弾んだ声が聞こえてきた。
手を止めて視線をそちらへと動かすと、マスクを着けた青年の姿があった。
須応麗華の知り合いが来たのかと、貞光の意識はまたウサギの方へと戻る。しかし、斑目の慌てた風に立ち上がる気配によって、ウサギは驚いて逃げていってしまった。
「斑目、急に立つとウサギがビックリするだろうが」
「あ、ああ。ごめん」
貞光の苦言に謝る斑目だったが、彼の視線は受付へと向けられたままだ。それほど、麗華と談笑する青年が気になるのだろうか。
「なあ──」
「斑目さん!」
青年の呼び掛ける声に、貞光は反射的に口を閉じる。
朗らかで人懐こい笑みを浮かべ、こちらへと歩み寄ってきた彼は、斑目と一言二言言葉を交わすと、貞光の方へと向き直った。
「貞光さん、ですよね? 初めまして、麗華の兄の真人です。いつも妹がお世話になっています」
「いえ、こちらこそ──」
柔らかく、それでいて芯のある彼の物腰に応じる。言われてみれば、顔立ちも背格好も麗華とよく似ていた。
須応真人は、何処か機械的にニコリと笑顔を返すと、ウサギコーナーへと目を向ける。
「かわいい……ふわふわだ……」
柵の前でしゃがみ、目を輝かせる真人。そんな彼に合わせるように、斑目も真人の隣で身体を小さくする。
「触ってみますか?」
「え、いいんですか?」
「もちろん。ふれあい動物園なんで」
真人の問いにそう返答して、斑目は微笑んだ。
──斑目が微笑んだ? あの、斑目が?
随分と失礼なことを考えているというのは、貞光もよく分かっている。しかし、斑目は普段からあまりにも表情を出さない。それが、あのように穏やかな笑みを青年に向けているのだ。驚いてしまっても無理はないだろう。
速やかにここから離れて、斑目と真人を二人きりにしないといけないという謎の使命感に駆られた貞光は、丁度いいタイミングでやってきた小学生たちの対応へと向かった。
小学生たちに頼まれるがまま、牧草の山からモルモットを探しあてながら、貞光はぐるぐると思考を巡らせる。
今年の春頃から、斑目は休み時間に小説を読むことが多くなった。その頃はあまり気にしていなかったが、一度、貞光の好きな小説を持ってきていたときに、話しかけたことがあったのだ。特に意味はなく、ただの話のタネとして。
そのときに、最近読んでいる小説は琴原市の図書館で借りたもので、そこの司書に薦められたと話していた。──兄は図書館の司書だ、と以前麗華が話していたので、あの図書館司書と須応真人は同一人物なのだろう。斑目が彼の話をしていたときの優しい声色を思い出しながら、貞光はそう結論付けた。
小学生たちを手洗い場まで案内し、持ち場へと戻る途中。
「あ、貞光さんだ!」
聞き慣れた声が、自身の名前を呼んでいる。振り返ると、予想通り磯貝が手を振りながらこちらへと駆け寄ってきた。まるで、人懐こい大型犬のようだ。
「貞光さん、もしかして当番終わった? 俺、遅かったかな?」
「いや、間に合ってる。今から当番に戻るところだったんだ」
「そっか。じゃあ、ついていこっと」
貞光は事前に、ふれあい動物園のことについて磯貝に話していた。「絶対に遊びに行く」と言っていたが、本当に来てくれたのか。貞光は、心がじんわりと暖かくなるのを感じた。
会場に着き、磯貝を受付へと案内する。いつの間にか交代の時間になっていたようで、受付には斑目が立っていた。
「お疲れ……誰か、連れてきたのか?」
「ああ、俺の友人だ。受付よろしく」
そして、貞光は後ろに立ったままの磯貝へと振り返る。
「それじゃ、先に行ってるからな」
しかし、磯貝の反応はなく。
彼は、やや強張った表情で、斑目を見ていた。
「……磯貝?」
「──やっぱり、磯貝君か」
「髪色が変わっていたから、一瞬わからなかった」と続ける斑目の発言に、貞光は静かに衝撃を受ける。
対して、磯貝はハッとしたように目を開くと、貼り付けたような笑みを浮かべた。
「お久しぶりです。斑目先輩」
「……待て、知り合いだったのか?」
そして、何事もなかったように受付作業を始める二人に思わずそう尋ねると、斑目が小さく頷いた。
「高校の、部活の後輩」
「そういえば」と、「高校の部活」で何かを思い出したのか、斑目は手を止めて磯貝へと目を向ける。
「知り合いから聞いたんだが、俺たちが引退したあと、大変だったらしいね」
「……大丈夫ですよ。あの頃にはもう、モチベが下がってたんで」
「そうか」
まるで、置いてけぼりにされているかのような会話に、居心地の悪さを覚える。
それでも、貞光はこの場から動けなくなっていた。……久し振りに見た、磯貝の無理に作ったような笑顔に、不安を感じたためだろうか。
名簿に所属と名前を書き、注意事項とアンケートの説明が終わるや否や、貞光は磯貝の腕を掴んで会場のなかへと入っていく。
──こんな顔は、見たくないと思った。
貞光が進んだ先にあったのは、ヒヨコとのふれあいコーナー。木製で底の大きい箱に入れられたヒヨコたちが、ヒーターの位置を奪い合っている。
貞光は、箱の前で磯貝を座らせると、その真横に自分もしゃがむ。
「磯貝、こんな感じで両手をお椀状にしてくれ」
「え? こ、こうかな?」
磯貝は慌てて、貞光が示すように両手を形作る。
それを確認し、貞光は慣れた手つきでヒヨコを一羽掬い上げると、磯貝の手に乗せた。
「──そのまま、両手の間で脚を挟む感じで固定して……あまり包み込まないようにゆとりを持たせて……うん、上手」
大人しく手の中にすぽりと納まるヒヨコに、磯貝の頬がゆるゆると緩む。
貞光が人差し指で頭を撫でてやると、ヒヨコは気持ち良さそうに目を細めた。
「はわ──かわいい、連れて帰りたい」
「それはやめてくれよ?」
貞光の冷静なツッコミに、磯貝は楽しそうに笑い声をあげた。
「──よかった」
本当に、楽しそうに。
「やっと、笑ってくれた」
「やっと、笑ってくれた」
貞光の言葉に、磯貝は冷や水を浴びせられたような感覚を覚えた。斑目に会ったときも、過去に触れられたときも、自分は確かに笑えていたと、思っていたからだ。
しかし、そのようなことは、すぐにどうでも良くなった。
貞光の、日溜まりのような暖かな微笑み。
大切な者へと向けられるはずのその笑みが、真っ直ぐに自分へと注がれている。
その事実だけで、心臓は普段よりも激しく鼓動を刻む。
「──悪い、そろそろ交代の時間だ」
立ち上がった彼は、最後にもう一度だけヒヨコの頭を撫でる。
「……二十分、受付をやったら係の仕事は終わりなんだが、それまで待っていてくれるか?」
「うん、もちろん。当番、頑張ってね」
一緒に帰る約束をして。貞光の姿を見送って。
「あー……参ったなぁ、本当」
磯貝は、深いため息とともに小さく呟いた。
貞光絢也という青年は、磯貝が思っているよりも他者の感情の機微に敏感なようだ。では、今のこの気持ちは? いつも通りの振る舞いで、隠し通せていたのだろうか?
あの人に対して抱くこの感情だけは、絶対に知られてはいけない。知られてはいけない、はずだ。
「ねえ、これからどうすればいいと思う?」
磯貝は、手の上のヒヨコに尋ねてみた。
ヒヨコは、つぶらな瞳をこちらへと向けるだけだった。
貞光は、第一キャンパス内にある中庭へと来ていた。
琴原大学では年に一度、近くの動物園の協力のもと、ふれあい動物園がやってくる。学生だけではなく、近隣住民たちも自由に参加できるイベントであり、貞光は午後四時から五時までの係員の一人として選ばれていた。
先の時間の当番だった学生から腕章を三つ受け取ると、ベンチ付近で仕事内容の最終確認を行っている二人の元へと戻る。
彼らは、貞光と同学年で同じ学部に所属している学生だ。
一人は、須応麗華。学科は異なるものの、今回のようなイベントの実行委員会ではよく顔を合わせる関係だ。名前の通り華がある美人であり、大人しそうに見えて行動力が高い。
もう一人は、斑目暁。彼とは学科も同じであり、実習では毎回のように同じ班になる。見た目がいかつく、表情もあまり変わらないが、善性の塊のような人柄である。
人手が足りなかったために誘った二人だったが、既に会ったことがあったのか、打ち解けている様子に少し安堵した。
腕章を着けて、三人はそれぞれの持ち場に立つ。受付と動物エリアの見回りを、二十分毎に交代する予定であり、貞光は最後の二十分以外は見回り当番となっていた。
見回りといっても、動物たちの脱走や禁止行為(ヤギに紙を与えたり等)への対処以外は、基本的に来場者とのコミュニケーションとなる。まだ講義のあるこの時間帯は来場者が少なく、先の時間帯から来ていた人たちが帰ってしまうと、誰もいなくなってしまった。
「……暇だな」
「うん」
寡黙な青年は、ウサギへと手を延ばしながら頷く。
恐る恐るというように触る様子に、貞光は思わず笑みを溢した。
「……何か?」
「ああ、すまない。──小さい動物を触るのは、初めてだったか?」
「そういうわけでは……ただ、力加減を間違えそうで」
「……心優しいモンスターかな?」
そうツッコミを入れながら、以前斑目が誰も開けられなかった褐色瓶を、一瞬で開けてしまったことを思い出す。あれほどの怪力であれば、触るのに躊躇うのも無理はない……のだろうか。比較的握力がない貞光にとっては、考えたこともない感覚だった。
近くに寄ってきた白いウサギの頭を撫でながら、そのようなことを考えていると、来場者があったようで受付から麗華の弾んだ声が聞こえてきた。
手を止めて視線をそちらへと動かすと、マスクを着けた青年の姿があった。
須応麗華の知り合いが来たのかと、貞光の意識はまたウサギの方へと戻る。しかし、斑目の慌てた風に立ち上がる気配によって、ウサギは驚いて逃げていってしまった。
「斑目、急に立つとウサギがビックリするだろうが」
「あ、ああ。ごめん」
貞光の苦言に謝る斑目だったが、彼の視線は受付へと向けられたままだ。それほど、麗華と談笑する青年が気になるのだろうか。
「なあ──」
「斑目さん!」
青年の呼び掛ける声に、貞光は反射的に口を閉じる。
朗らかで人懐こい笑みを浮かべ、こちらへと歩み寄ってきた彼は、斑目と一言二言言葉を交わすと、貞光の方へと向き直った。
「貞光さん、ですよね? 初めまして、麗華の兄の真人です。いつも妹がお世話になっています」
「いえ、こちらこそ──」
柔らかく、それでいて芯のある彼の物腰に応じる。言われてみれば、顔立ちも背格好も麗華とよく似ていた。
須応真人は、何処か機械的にニコリと笑顔を返すと、ウサギコーナーへと目を向ける。
「かわいい……ふわふわだ……」
柵の前でしゃがみ、目を輝かせる真人。そんな彼に合わせるように、斑目も真人の隣で身体を小さくする。
「触ってみますか?」
「え、いいんですか?」
「もちろん。ふれあい動物園なんで」
真人の問いにそう返答して、斑目は微笑んだ。
──斑目が微笑んだ? あの、斑目が?
随分と失礼なことを考えているというのは、貞光もよく分かっている。しかし、斑目は普段からあまりにも表情を出さない。それが、あのように穏やかな笑みを青年に向けているのだ。驚いてしまっても無理はないだろう。
速やかにここから離れて、斑目と真人を二人きりにしないといけないという謎の使命感に駆られた貞光は、丁度いいタイミングでやってきた小学生たちの対応へと向かった。
小学生たちに頼まれるがまま、牧草の山からモルモットを探しあてながら、貞光はぐるぐると思考を巡らせる。
今年の春頃から、斑目は休み時間に小説を読むことが多くなった。その頃はあまり気にしていなかったが、一度、貞光の好きな小説を持ってきていたときに、話しかけたことがあったのだ。特に意味はなく、ただの話のタネとして。
そのときに、最近読んでいる小説は琴原市の図書館で借りたもので、そこの司書に薦められたと話していた。──兄は図書館の司書だ、と以前麗華が話していたので、あの図書館司書と須応真人は同一人物なのだろう。斑目が彼の話をしていたときの優しい声色を思い出しながら、貞光はそう結論付けた。
小学生たちを手洗い場まで案内し、持ち場へと戻る途中。
「あ、貞光さんだ!」
聞き慣れた声が、自身の名前を呼んでいる。振り返ると、予想通り磯貝が手を振りながらこちらへと駆け寄ってきた。まるで、人懐こい大型犬のようだ。
「貞光さん、もしかして当番終わった? 俺、遅かったかな?」
「いや、間に合ってる。今から当番に戻るところだったんだ」
「そっか。じゃあ、ついていこっと」
貞光は事前に、ふれあい動物園のことについて磯貝に話していた。「絶対に遊びに行く」と言っていたが、本当に来てくれたのか。貞光は、心がじんわりと暖かくなるのを感じた。
会場に着き、磯貝を受付へと案内する。いつの間にか交代の時間になっていたようで、受付には斑目が立っていた。
「お疲れ……誰か、連れてきたのか?」
「ああ、俺の友人だ。受付よろしく」
そして、貞光は後ろに立ったままの磯貝へと振り返る。
「それじゃ、先に行ってるからな」
しかし、磯貝の反応はなく。
彼は、やや強張った表情で、斑目を見ていた。
「……磯貝?」
「──やっぱり、磯貝君か」
「髪色が変わっていたから、一瞬わからなかった」と続ける斑目の発言に、貞光は静かに衝撃を受ける。
対して、磯貝はハッとしたように目を開くと、貼り付けたような笑みを浮かべた。
「お久しぶりです。斑目先輩」
「……待て、知り合いだったのか?」
そして、何事もなかったように受付作業を始める二人に思わずそう尋ねると、斑目が小さく頷いた。
「高校の、部活の後輩」
「そういえば」と、「高校の部活」で何かを思い出したのか、斑目は手を止めて磯貝へと目を向ける。
「知り合いから聞いたんだが、俺たちが引退したあと、大変だったらしいね」
「……大丈夫ですよ。あの頃にはもう、モチベが下がってたんで」
「そうか」
まるで、置いてけぼりにされているかのような会話に、居心地の悪さを覚える。
それでも、貞光はこの場から動けなくなっていた。……久し振りに見た、磯貝の無理に作ったような笑顔に、不安を感じたためだろうか。
名簿に所属と名前を書き、注意事項とアンケートの説明が終わるや否や、貞光は磯貝の腕を掴んで会場のなかへと入っていく。
──こんな顔は、見たくないと思った。
貞光が進んだ先にあったのは、ヒヨコとのふれあいコーナー。木製で底の大きい箱に入れられたヒヨコたちが、ヒーターの位置を奪い合っている。
貞光は、箱の前で磯貝を座らせると、その真横に自分もしゃがむ。
「磯貝、こんな感じで両手をお椀状にしてくれ」
「え? こ、こうかな?」
磯貝は慌てて、貞光が示すように両手を形作る。
それを確認し、貞光は慣れた手つきでヒヨコを一羽掬い上げると、磯貝の手に乗せた。
「──そのまま、両手の間で脚を挟む感じで固定して……あまり包み込まないようにゆとりを持たせて……うん、上手」
大人しく手の中にすぽりと納まるヒヨコに、磯貝の頬がゆるゆると緩む。
貞光が人差し指で頭を撫でてやると、ヒヨコは気持ち良さそうに目を細めた。
「はわ──かわいい、連れて帰りたい」
「それはやめてくれよ?」
貞光の冷静なツッコミに、磯貝は楽しそうに笑い声をあげた。
「──よかった」
本当に、楽しそうに。
「やっと、笑ってくれた」
「やっと、笑ってくれた」
貞光の言葉に、磯貝は冷や水を浴びせられたような感覚を覚えた。斑目に会ったときも、過去に触れられたときも、自分は確かに笑えていたと、思っていたからだ。
しかし、そのようなことは、すぐにどうでも良くなった。
貞光の、日溜まりのような暖かな微笑み。
大切な者へと向けられるはずのその笑みが、真っ直ぐに自分へと注がれている。
その事実だけで、心臓は普段よりも激しく鼓動を刻む。
「──悪い、そろそろ交代の時間だ」
立ち上がった彼は、最後にもう一度だけヒヨコの頭を撫でる。
「……二十分、受付をやったら係の仕事は終わりなんだが、それまで待っていてくれるか?」
「うん、もちろん。当番、頑張ってね」
一緒に帰る約束をして。貞光の姿を見送って。
「あー……参ったなぁ、本当」
磯貝は、深いため息とともに小さく呟いた。
貞光絢也という青年は、磯貝が思っているよりも他者の感情の機微に敏感なようだ。では、今のこの気持ちは? いつも通りの振る舞いで、隠し通せていたのだろうか?
あの人に対して抱くこの感情だけは、絶対に知られてはいけない。知られてはいけない、はずだ。
「ねえ、これからどうすればいいと思う?」
磯貝は、手の上のヒヨコに尋ねてみた。
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