○○さんの諸事情。

アノンドロフ

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須応さんと斑目くんの場合。

須応さんと図書館。

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 短大を卒業し、採用試験にも合格できた須応は、ようやく琴原市立図書館の司書となった。
 その間、いくつかの出来事があった。
 司書になりたての頃、父が病により亡くなった。それ以来、須応は妹と二人で生きてきた。
 幸里との交流も続いている。幸里は書店の手伝いをするようになってから、須応に一つ頼み事をしてきた。話題の本を電子書籍の形態でプレゼントする代わりに、本を宣伝するPOPの文章を考えてほしいといったものだった。勿論、須応がこれに乗らないわけがなかった。須応は様々なジャンルの本を読み漁り、特におもしろかったものは図書館でも購入するかどうか会議にかけられる。幸里は、須応が持ってきた感想からPOPを作り、売上が比較的上昇した。いわゆるWin-Winの関係で、長く続いている。
 これらが、須応に起きた出来事だ。


 須応が仕事に司書を選んだ理由はいくつかある。そのうちの一つが、あの独特な静けさだった。
 人から注目を浴びることと暴力的な人が苦手な須応は、それらをできるだけ遠ざけられる仕事場を探していた。そして、思い浮かんだのが、ずっと通い続けた図書館だった。
 あの静けさは、どんな人でも黙らせる。それに、図書館に通う人たちは本を求めて通っているのだ。本好きの自分には正しく天職ではなかろうか。
 こうして、彼は司書の道を突き進み、今にいたる。
 司書になれたからといって、全てが理想通りにいくわけではない。そのようなことは良く分かっていた。
 それでも、やはり理想的な司書として振る舞いたい。親しみやすく、親切で、仕事が丁寧で──、須応は所作の隅々まで気を配った。
 しかし、それが上手くいくわけではなく。実際は本の話になると、利用者が置いてけぼりになるほど熱中してしまい先輩方に注意されることもあった。

 司書になってから一年は過ぎた、ある春のこと。
 配架作業の途中、小説の棚の前で何やら悩み込んでいる男性を見かけた。図書館に勤め始めてから一度も見たことがない、随分と背の大きい人だ。
 何か困っているのだろうかと声をかけると、彼は少し驚いたかのようにこちらを見た。見開かれた三白眼が少し怖そうだったが、もう一度話しかけると人見知りなのか、たどたどしく答えてくれた。それほど、怖い人ではないようだ。
 普段通り本の案内を行い、新しく利用者カードを作製し、貸出しの手続きを行った。
 このとき、須応にとって彼はただの利用者であり、「斑目暁」という名前も覚えていない。覚えているのは、彼が借りた本のことだけ。
 斑目が借りた本は、自然科学分野の中でも微生物学に分類されるものだった。そして、麗華の所属する学部では、微生物に関する講義もあったはずだ。教科書も買っていたし。
 ──もしや、レイと同じ学部だったりして。学生証はレイと同じ大学だったし。
 実際は、斑目と麗華は同じ学部に通っているが学科が違うため、お互いに面識はなかった。これは後の夏祭りに判明したことであり、このときの須応はそれほど気にしていない。

 まあ、そんなはずないか。須応は雑念を振り払い、配架の続きに戻った。


「おすすめの本、ありますか?」
 あれから、一週間後。配架作業が丁度終わった須応に、斑目はそう話しかけてきた。
「おすすめの本、ですか?」
 そう訊き返しながら、須応は先週のことを思い出す。依然として彼の名前は覚えていないが、その風貌に見覚えはあった。借りていった本も、覚えている。
「それは、前に借りていかれたような自然科学分野のなかで、でしょうか」
 大学の講義で必要な本を探しているのだろうか……いや、それなら「おすすめの本」なんて訊かないよな……。そんなことを考えながら質問すると、斑目は「小説」と答えた。
 小説。それは須応が愛してやまないもの。
 自然と、声のトーンが上がる。冷静になれ、落ち着け──心の中で数回唱えながら、斑目からの注文を咀嚼する。
 「あまり長くないような、おもしろい話」──ならば、短編集なんてどうだろう。一つの話が二十ページほどで終わるあの本。いや、しかしあの本は真ん中の話が難解すぎる。もっと手軽に読めるのは──。
 小説を収めている本棚から、文庫本を一冊抜き取る。ショートショート集。中学生の頃によく読んだ。
 できるだけ簡潔に本の紹介をして、斑目の様子を窺う。
 彼の返事はあまりに簡潔なものだったが、背の小さい須応の目線に合わせるように背を屈める様子やそのまなざしから、良く聴いてくれているのだろうと感じた。
 それだけでも、須応は嬉しく思う。一冊だけを紹介するはずだったのが、もう一冊にも手を伸ばすほどには。
 この本は文庫本の中でも薄い方であり、かつ読者も推理に参加できるような構成を取ったミステリー小説だ。もし謎解きが好きなら、きっとこの本も気に入ってもらえる。
 そして斑目にその本を見せると、彼は少し目を細めた。
「おもしろそうですね。それ」
 その言葉が、須応のストッパーを外した。
 この後のことは、あまり覚えていない。須応は、無我夢中で大好きな作品を紹介し続けて。
 我に返ったときには、腕の中で本のタワーが完成していた。
「またやっちゃった……」
 羞恥心で、耳の先まで真っ赤になっているのがわかる。
 まただ。
 また、利用者のことが見えていなかった。自分の好きなものばかり、紹介してしまった。
 きっと迷惑しているだろう。はやくこの話が終わってほしいって、思っていたかもしれないのに。
 ──僕は、司書に向いていないのか……。
 腕の中の本が、さらに重たくなったように感じた。
 だからだろう。
「俺、須応さんのおすすめの本、全部借ります」
 この言葉に、救われたのは。
 初めてだった。初めて「借りる」と言ってもらえた。
 須応は、勢いよく頭を下げた。目の前のその人に、感謝を伝えるために。
 斑目が去ってから、しばらくして。
 ──もしかして、あれはリップサービスだったのでは。
 須応の心の中に、黒雲が立ち込める。
 あれほど浮かれていたのが、嘘のように静かになった。
 ──そうだ、あれはお世辞に違いない。僕は、あの人に気を使わせてしまったんだ……。
 今日は、最初に紹介したショートショート集を借りていって貰えたが、あれも気を使ってくれたからに違いない。須応はそう解釈した。
 しかし──。
 斑目は、毎週のように小説を一冊だけ借りに来た。そして、彼は須応の手が空いているときにだけ、本の感想を言いに来てくれた。
 彼は、あまり話すのが得意ではないらしい。小説の感想も、言うのが苦手だと言った。だから、斑目の「おもしろかった」「よかった」という言葉は、彼の全ての気持ちが込められたものだということを知った。
 彼が本を借りに来てくれるたびに、本の感想を伝えに来てくれるたびに、彼の人の良さが良く分かった。

 ──斑目暁。まだらめ、あきらさん……。
 差し出された利用者カードの名前を、須応はようやく覚えたのだった。
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